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   その夜、私は幸せで懐かしい夢を見た。  十五の冬。  私は侍女のハンナを連れて、城下の小さな街で開催される"卵投げ大会"をこっそり見に行った。毎年この時期に行われるユニークな催しで、二人一組で卵を投げつけ合い、胸に吊り下げた薄い紙を濡らさないように死守し、ゴールを目指すというものだ。  格式ある公爵家の令嬢が、こんな庶民的な祭りに参加するものではないと、当然のように周りから止められていたが、私は好奇心旺盛でお転婆な少女だったため、我慢できなかった。再三の忠告を無視し、こっそり屋敷を抜け出してきたのだ。しかし、本命は卵投げ大会ではなく、その後夜祭として行われるアイスキャンドル祭りの方。昔ながらの街並みが、ほのかな灯りで飾られるところを、間近で見てみたかった。 「お嬢様、やっぱり帰りましょうよ。奥様や旦那様に後でこっぴどく叱られてしまいますよ! 私が!」 「嫌よ。毎日毎日花嫁修業と縁談の話ばかりでうんざりしているの。たまには自由にさせてもらうわ」  両親は愛娘が結婚して家庭に入ることを望んでおり、早く嫁ぎ先を決めるように急かした。しかし、私は結婚には興味がなく、ピアニストとして独立して生きていきたかった。それでも、貴族の娘たるもの、結婚して家のために奉仕するのは当然の責務。夢は内に秘めて、毎日課される花嫁修業にもきちんと勤しんでいる。だからたまには、こんな自由が許されてもいいはずだ。  街道では、ファンファーレ楽団が民族的な雰囲気の音楽を奏で、女たちが踊っていた。 (この曲……知ってる)  奏者たちの奥に、誰も弾いていないオルガンが置いてあるのが目についた。 「お兄さん、あのオルガン、少し弾いても?」 「おや、弾けるのかい? いいよ、好きに弾いてくれ」  私は立ったまま鍵盤に指を起き、ペダルを踏んだ。陽気なファンファーレ楽団の演奏に、オルガンの繊細な音の粒が重なる。奏者たちは私の熟練した技巧に一瞬だけ戸惑いを浮かべつつ、演奏を続けた。オルガン、バイオリン、フルートにバグパイプの音が重なり、街に響き渡る。いつの間にか多くの観衆が集まり、一曲終わると歓声と拍手が沸いた。 「とっても楽しかった……!」 「凄いな、君。独学かい?」 「いいえ。幼い頃からピアノを習っているんです」 「道理で。ピアノを習うなんて、随分育ちがいいんだね」  何しろ、この公国を治める領主の娘である。私はバイオリンを弾いていた紳士に曖昧に微笑んで、その場を離れた。楽団が演奏していたすぐ近くが卵投げ大会の開催地になっており、役員が参加者を募っていた。私も意気揚々と挙手した。 「おじさん、私も参加するわ!」 「威勢がいいね。ほう、こりゃべっぴんさんだ。最後まで残って、ぜひ景品をゲットしてくれよ!」 「はい!」  胸に薄い紙を吊るし、準備運動をしながらハンナに言った。 「ほら、ハンナもこの紙を付けなさい」 「無茶言わないでください! あんな野蛮な男だらけの祭、私は絶対参加しませんよ」 「そこをなんとかお願いよ。卵を人に投げつけていい日は一年で今日だけなのよ?」 「私は一度だってそのようなことをしたいと思いませんがね」  せっかく、塗料の中で最も希少な紫色を使って卵を沢山染めてきたのに。私はムキになって、ハンナの肩を揺すって説得した。二人が揉めていると、一人の青年に声をかけられた。 「お嬢さん、よければ僕とペアで参加しませんか?」 「……?」  目の前に現れた青年は、人々の中で一際目立つ美青年だった。艶のある黒髪と、瑠璃色をした切れ長の瞳。それに、身なりも上等だった。 「突然話しかけてすみません。僕はユハル・オーグレーンと申します」 「オーグレーン……? 確か、ラシュール川流域を治める侯爵家にその姓を聞いたことがありますが」 「よくご存知ですね。そのオーグレーン家の長子です」  そんなお坊ちゃんが、どうしてこんなへんぴな祭りに来たのだろうと思い尋ねると、彼は人好きのしそうな笑みでこう答えた。 「卵を人に投げつけていい祭りなんて、面白そうだと思ったんです。僕は見るだけのつもりでしたが、お嬢さんがお困りのようだったので」 「まぁ、物好きな方がいるのね」  すると、ハンナが隣で「お嬢様も同じじゃないですか」と嫌味っぽく耳打ちしてきた。 「あなた、戦力になるんですか?」 「武術を嗜んでいるので、多少は」  私はパチンと指を鳴らして、笑った。 「採用します! さ、行きましょう。私はソフィア・ノシュテットです」 「ノシュテット……? まさか、この公国の領主の……?」  ノシュテット公爵家は王家の分家で格式高い名門。一方、オーグレーン侯爵家は武功が認められ叙爵された、歴史の浅い家だ。家格が上の相手と知り、ユハルがわずかに恐縮する。 「ご名答。でも今日は共に戦う同士、身分のことは忘れて、敬語もやめませんか? 私のことは――ソフィアとお呼びください」 「はは、分かったよ。ソフィア」  狼狽えるハンナを置き去りにして、私とユハルは卵投げ大会に参加した。そこで、私は人生で一番楽しい経験をした。 「やるね、ソフィア。さっきから五人を倒した。卵投げの名手になれるんじゃないかい?」 「私、運動神経は結構いい方なの。御屋敷の中を駆け回ってよく叱られたものだわ」 「お転婆だね」  ユハルも投げつけられる卵を次々とキャッチし、紙を守った。しかし、ゴール直前、私が投げた卵を見事にライバルにキャッチされ、投げ返された卵が首に引っさげていた紙に命中した。脆い紙は卵に濡れて破けてしまった。それに気を取られたユハルの紙も、別の選手の攻撃で濡らされた。  二人はゴール直前で敗退となり、あまりに呆気ない幕引きに、顔を見合せて笑った。 「惜しかったわね。でも、とっても楽しかった」 「僕も、こんなに笑ったのは久しぶりだよ」  すると、ユハルの頭の上に紫色の卵の殻が乗っているのが目に止まった。私はそれを見上げながら、くすくすと笑う。「どうかしたかい?」と尋ねられ、私は言った。 「少し屈んでくださる?」 「うん……?」  彼の頭に絡まった卵の殻を取って見せた。 「殻が頭に。どうしたらそんなところに引っ付くのかしら?」 「はは、本当だ」  私はこの殻を、捨てるのが惜しくなってポケットにこっそりしまった。それから私たちは、屋台でオレンジの果実水を買って、ベンチに腰掛けた。 「今ごろ、あの侍女が血相を変えて君のことを探しているよ」 「……次彼女に見つかったら、今度こそお屋敷に引きずられるわ。私……どうしても夜のアイスキャンドル祭りが見たいの。街が淡く光る光景が……」  氷で作ったキャンドルがそこら中に飾られる光景は、どんなに幻想的だろう。  もしも結婚して公国を出たら、二度とこの祭りを見ることが叶わないかもしれない。そう思うと、意地でも夜まで残りたかった。  私はこれまでに溜まった鬱憤や悩みを、なぜか初対面の彼に語っていた。彼は相槌を打ちながら聞き、こう言った。 「ソフィア。お祭りはそんなに暗い顔をして楽しむものではないよ」 「……」 「今日はもう帰りな。後ろめたい気持ちがない状態で、また来ればいい」 「それは、どういう……?」 「いつか、良い形で僕が連れてきてあげよう。……君が嫌ではなければ」  甘やかなユハルの表情に、私の胸の鼓動が早くなった。 「……嫌じゃ、ないわ」  そして、次にアイスキャンドル祭りに来たとき、二人は婚約者になっていた。
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