11

1/2

84人が本棚に入れています
本棚に追加
/25ページ

11

   今朝は、なんだか幸せな気持ちで目が覚めた。私は体を起こし、重い瞼を擦る。 (とても懐かしい夢を見た気がする。でも、何も思い出せないわ。……というか、ここはどこ?)  サイドテーブルに置かれた昨日の自分の書き置きを見て、衝撃を受ける。なんと自分は記憶障害になり、いつのまにか既婚者になっていた。夫であるユハルという男のメモの指示に従い、服を着替えた。  食堂に降りる前に、少しだけ部屋を探索してみる。デスク横の引き出しから、作りの良い木箱を発見して中を開くと、紫色に染色された卵の殻が入っていた。 (これ、確か……)  ふつと呟く。 「――卵投げ大会の……」  卵投げ大会では、絵を描いた卵を投げ合うのだ。珍妙な祭りだが、好奇心旺盛だった私は紫色の塗料で卵を染色して、大会に参加しようとしていた。 (でも結局、参加したんだったかしら)  肝心な記憶はぼやけてしまっていた。卵の殻を引き出しに戻し、他のめぼしいものを探す。他には、日記帳が三冊あった。これは後でゆっくり目を通すとしよう。  身支度を整えて食堂へ行くと、黒髪の見目麗しい男性が私を待っていた。 「おはよう、ソフィア。調子はどうだい?」 「……おはようございます。体調は、良いです」  会釈して、彼から一番近い椅子に座る。そして、物腰柔らかな雰囲気の彼から告げられた。 「僕たちは四年前に結婚した夫婦なんだ。けれど君は、風邪を拗らせたのを機に記憶を部分的に失い、一日で記憶がリセットされる……特異体質になってしまったんだ」 「……そうですか」 「あまり、驚かないみたいだね?」  自分でも冷静でいられるのが不思議だった。摩訶不思議な現実を突きつけられるのも、四年目となると慣れるものなのかもしれない。それより気がかりなのは、ユハルのことだった。 「ユハル様……長らくお辛かったでしょうね」  三年も記憶喪失の妻の面倒を見てきたという彼の愛情は、計り知れないものだ。 「最初はね。けれど少しずつ僕も変わって、今は毎日幸せだよ」  口先だけではないと分かる優しい表情に、胸が熱くなった。 「私も、あなたのような素敵な旦那様に恵まれて、幸せです」 「ふふ、君も前と違うね」 「……?」 「いや、こっちの話だ」  二人は楽しく喋りしながら朝食を食べた。スープは温かくて胡椒の辛味とトマトの酸味がよく合う。魚の煮物も薄味で私好みだった。 「あの……ユハル様。お部屋で卵の殻が保管されているのを見つけたんですが、あれは……?」 「ああ、君の"人生で一番の宝物"か」 「はい」  確か、箱の中にそんなメモが添えられていた。 「あれはね、僕たちが出会った思い出の品なんだ。屋敷を抜け出した君と二人で卵投げ大会に参加して――」 「……でも、ゴール直前に紙を濡らして脱落してしまった」 「……――!」  その刹那、ユハルは持っていたスプーンを落とした。からんと床に音が響き、後ろに控えていた給仕が新しい物と交換する。 「どうして君がそれを? まさか、記憶を取り戻し始めているのかい?」 「よく……分かりません。なんとなくそうかなって思うだけで、これ以上は思い出せないです」 「十分ありがたいことさ。少し前までは、それさえも忘れたいたのだから」  ユハルは万感の想いで、目に涙を滲ませていた。  ◇◇◇  少しずつ、ソフィアが記憶を取り戻している。思い当たるきっかけといえば、スカーレットの薬を飲ませるのを止めたことだけだ。成分解析にはまだしばらく時間を要するが、断薬の効果はひしひしと実感している。  まるでそれは塵が積もるように、愛おしい記憶の欠片が彼女の中に積み重なっていった。彼女が一つでも思い出してくれることが、涙が出るほど嬉しかった。 「ユハル様も、ピアノをお弾きになるのですか?」 「少しね。新婚のころは、二人でよく連弾したよ」 「それは……もしや"さざ波"では」 「……! その通りだ。よく分かったね」 「なんとなく……過去の私がどなたかと弾いていたような、気がしたんです」  少し前の彼女は、こんな風に曲名を言い当てることはできなかった。それだけではない。  ある日、彼女が僕のためにクッキーを焼いてくれた。 「ありがとう。……うん、美味しいよ。紅茶味だね」 「ユハル様は、紅茶味がお好みでしたでしょう?」 「……そうだよ。よく知っているね。話していないのに」 「本当です……。どうして私、そんなことを知っていたのでしょうか」 「失われていた過去の記憶の一部だろう」  ごくわずかな欠片が少しずつ、少しずつ蓄積していった。  また、ソフィアは記憶を失っていながらも、僕が少しでも幸せに過ごせるようにと配慮してくれた。初めて会うはずの僕に、毎日心を寄せてくれた。  ただ、幸せだった。記憶があろうとなかろうと、一日限りの関係であろうと、変わらず彼女が好きだ。 (それでもやはり、思い出してくれることは、飛び上がってしまうほど嬉しいな。ソフィー。あのころの君にもう一度会えたなら、どんなに幸せだろうか)
/25ページ

最初のコメントを投稿しよう!

84人が本棚に入れています
本棚に追加