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今朝は、なんだか幸せな気持ちで目が覚めた。私は体を起こし、重い瞼を擦る。
(とても懐かしい夢を見た気がする。でも、何も思い出せないわ。……というか、ここはどこ?)
サイドテーブルに置かれた昨日の自分の書き置きを見て、衝撃を受ける。なんと自分は記憶障害になり、いつのまにか既婚者になっていた。夫であるユハルという男のメモの指示に従い、服を着替えた。
食堂に降りる前に、少しだけ部屋を探索してみる。デスク横の引き出しから、作りの良い木箱を発見して中を開くと、紫色に染色された卵の殻が入っていた。
(これ、確か……)
ふつと呟く。
「――卵投げ大会の……」
卵投げ大会では、絵を描いた卵を投げ合うのだ。珍妙な祭りだが、好奇心旺盛だった私は紫色の塗料で卵を染色して、大会に参加しようとしていた。
(でも結局、参加したんだったかしら)
肝心な記憶はぼやけてしまっていた。卵の殻を引き出しに戻し、他のめぼしいものを探す。他には、日記帳が三冊あった。これは後でゆっくり目を通すとしよう。
身支度を整えて食堂へ行くと、黒髪の見目麗しい男性が私を待っていた。
「おはよう、ソフィア。調子はどうだい?」
「……おはようございます。体調は、良いです」
会釈して、彼から一番近い椅子に座る。そして、物腰柔らかな雰囲気の彼から告げられた。
「僕たちは四年前に結婚した夫婦なんだ。けれど君は、風邪を拗らせたのを機に記憶を部分的に失い、一日で記憶がリセットされる……特異体質になってしまったんだ」
「……そうですか」
「あまり、驚かないみたいだね?」
自分でも冷静でいられるのが不思議だった。摩訶不思議な現実を突きつけられるのも、四年目となると慣れるものなのかもしれない。それより気がかりなのは、ユハルのことだった。
「ユハル様……長らくお辛かったでしょうね」
三年も記憶喪失の妻の面倒を見てきたという彼の愛情は、計り知れないものだ。
「最初はね。けれど少しずつ僕も変わって、今は毎日幸せだよ」
口先だけではないと分かる優しい表情に、胸が熱くなった。
「私も、あなたのような素敵な旦那様に恵まれて、幸せです」
「ふふ、君も前と違うね」
「……?」
「いや、こっちの話だ」
二人は楽しく喋りしながら朝食を食べた。スープは温かくて胡椒の辛味とトマトの酸味がよく合う。魚の煮物も薄味で私好みだった。
「あの……ユハル様。お部屋で卵の殻が保管されているのを見つけたんですが、あれは……?」
「ああ、君の"人生で一番の宝物"か」
「はい」
確か、箱の中にそんなメモが添えられていた。
「あれはね、僕たちが出会った思い出の品なんだ。屋敷を抜け出した君と二人で卵投げ大会に参加して――」
「……でも、ゴール直前に紙を濡らして脱落してしまった」
「……――!」
その刹那、ユハルは持っていたスプーンを落とした。からんと床に音が響き、後ろに控えていた給仕が新しい物と交換する。
「どうして君がそれを? まさか、記憶を取り戻し始めているのかい?」
「よく……分かりません。なんとなくそうかなって思うだけで、これ以上は思い出せないです」
「十分ありがたいことさ。少し前までは、それさえも忘れたいたのだから」
ユハルは万感の想いで、目に涙を滲ませていた。
◇◇◇
少しずつ、ソフィアが記憶を取り戻している。思い当たるきっかけといえば、スカーレットの薬を飲ませるのを止めたことだけだ。成分解析にはまだしばらく時間を要するが、断薬の効果はひしひしと実感している。
まるでそれは塵が積もるように、愛おしい記憶の欠片が彼女の中に積み重なっていった。彼女が一つでも思い出してくれることが、涙が出るほど嬉しかった。
「ユハル様も、ピアノをお弾きになるのですか?」
「少しね。新婚のころは、二人でよく連弾したよ」
「それは……もしや"さざ波"では」
「……! その通りだ。よく分かったね」
「なんとなく……過去の私がどなたかと弾いていたような、気がしたんです」
少し前の彼女は、こんな風に曲名を言い当てることはできなかった。それだけではない。
ある日、彼女が僕のためにクッキーを焼いてくれた。
「ありがとう。……うん、美味しいよ。紅茶味だね」
「ユハル様は、紅茶味がお好みでしたでしょう?」
「……そうだよ。よく知っているね。話していないのに」
「本当です……。どうして私、そんなことを知っていたのでしょうか」
「失われていた過去の記憶の一部だろう」
ごくわずかな欠片が少しずつ、少しずつ蓄積していった。
また、ソフィアは記憶を失っていながらも、僕が少しでも幸せに過ごせるようにと配慮してくれた。初めて会うはずの僕に、毎日心を寄せてくれた。
ただ、幸せだった。記憶があろうとなかろうと、一日限りの関係であろうと、変わらず彼女が好きだ。
(それでもやはり、思い出してくれることは、飛び上がってしまうほど嬉しいな。ソフィー。あのころの君にもう一度会えたなら、どんなに幸せだろうか)
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