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   ある日の朝食の席で、夫であるユハルに告げられた。喪失している記憶を取り戻し始めているかもしれない――と。嬉しそうに話してくれたユハルを見て、私も実感はないが喜ばしく思った。 「それでね、昨日は僕に紅茶のクッキーを焼いてくれたんだ。嬉しくって、まだほとんど手を付けられていなくてね。しばらくは鑑賞させてもらうよ」 「まぁ。クッキーくらい、いつでも焼いて差し上げますから、早めに召し上がってください」  とにかく彼は、私に対して愛情が深い。綺麗な顔をして、私を見つめる瞳は恍惚としていて、頬は緩みきっている。かくいう私も、なぜか彼を見ていると自然と表情筋が緩んでしまうのだが。 「今日は君にお客さんが来るよ、ソフィア」 「私に……? 両親でしょうか」 「いや、エリザベス嬢とパウラ嬢だ」 「そう……とても楽しみです。二人も私の事情についてはご存知なのですか?」 「もちろん。彼女たちは何かと君のことを気遣ってくれているよ」  エリザベスとパウラは最も親しい友人だ。随分久しぶりに会うような気がする。  少しばかり浮き足立ちながら、出迎えの準備をした。昼ごろ、公爵邸を訪れた二人は、記憶よりずっと大人になっていた。三年分の記憶がないのだから、当然だ。パウラは赤子を抱いていて、彼女が母になっていたことに衝撃を受ける。 「パ、パウラ……あなた、お母さんになっていたの……!?」 「あははっ。その顔、一ヶ月前にも見たな」  というと、一ヶ月前にも子どもを連れてここに来ているということだ。子育てで忙しいだろうに、私のことを気遣って足を運んでくれているのだろうか。 「わ……小さい手。名前は?」 「ジェーンだ。ジェーン・ハイドル」 「!? あなた、ハイドル卿と結婚したの!?」 「はは、その反応見るのはもう十回目だ」  ハイドル卿は、パウラがずっと恋心を寄せていた家庭教師だ。年齢差も身分差もあったが、障害を乗り越えて結ばれた二人。恋愛相談を散々聞いていたことを思い出し、感動してつい泣いてしまった。慣れたようにパウラとエリザベスが宥めてくれるが、多分これも初めてではないだろう。 「良かったわね、想いが叶って。確かにジェーンちゃん、目鼻立ちがハイドル卿にそっくりね」 「本当、そっくりだよな」 「きっと美人になるわ」  何度目か分からない結婚と出産祝いを終えると、エリザベスが言った。 「ユハル様から、あなたが記憶を取り戻しつつあると伺いましたわ。本当に良かったですわね」 「私の方はあまり実感がないんだけどね」 「何が良かったって、お二人が以前よりずっと前向きで、生き生きとされていることですわ」  エリザベスとパウラは眉を顰めた。 「一年目、二年目のころは、二人があまりにお辛そうで、見ていられませんでした。会いに来てもソフィアはほとんど笑わなくて……」 「そうだったのね」 「ええ。けれど、今は良い表情をなさっているわ」  パウラが笑顔を浮かべて言った。 「今日はね、あんたを誘いに来たの。今度の"卵投げ大会"に」 「……!」  卵投げ大会。なぜか参加したことがあるような気がする。 「あんたとユハル様の出会いの思い出っていうからさ。気晴らしがてら、記憶を取り戻すきっかけになれたらいいなって」 「そうなの……ありがとう。ぜひ行きたいわ。腕を鍛えておかなくちゃ」 「いやいやいや、観覧に行くんだよ観覧に。たくましいな」 「あら、残念」  しゅんと肩を落とした。卵を投げることが許されるのは、一年にたった一度。どうせ行くなら、見るより投げる側を希望したいところだった。 「ねぇ、二人とも。もし二人が良かったら、ユハル様もお誘いても?」 「……! もちろんいいですわよ。きっと賑やかになりますわね」  友人が帰った後、卵投げ大会の日付をメモに残し、ユハルにも声をかけた。彼は喜んで誘いを受けてくれて、私との出会いの思い出を語ってくれた。思い出せないのに、愛おしそうに回想するユハルの姿を見て、幸せな気持ちになった。  ◇◇◇  木枯らしが吹く寒い冬の日。卵投げ大会の当日を迎えた。知らない部屋で目覚めた私は、サイドテーブルに残されたいつかの自分のメモを見て、自分の置かれている状況を理解する。今日は、卵投げ大会に参加する予定らしい。 (記憶喪失?? 困ったわ、この屋敷には、頼りになる人はいるのかしら)  混乱の中で、ベッドの脇のベルを鳴らしてメイドを呼び出した。すると、記憶より年をとったメイドのハンナが寝室に入ってきた。 「奥様。お呼びでしょうか」 「ハンナ……! 良かった、あなたもここにいたのね。ねぇ、一体何がどうなってるの? ここにオーグレーン侯爵の書き置きがあって……って、ハンナ!? どうして泣いて……」 「思い……出してくださったのですね……奥様」 「え……?」  すすり泣くハンナが、事情を説明してくれた。なんと私は三年前からハンナのことをすっかり忘れていたという。彼女は私が幼いころから仕えてきてくれた、姉のような存在なのに。 「そう、ごめんなさいね。三年もあなたのことを忘れていたなんて……信じられないわ。でも、不思議ね。旦那様のことは少しも思い出せないの。……ユハル様は、どんなお方なの?」 「とても、とてもあなたを愛していらっしゃる方です。会えばすぐ、どんな方か分かりますよ」  食堂に出て、ユハルと初対面の挨拶を交わした。付き従っていたハンナが、私がハンナを思い出したのだと興奮気味に伝える。ユハルは嬉しそうに目を細めた。 「良かったね、ソフィア」 「ですがまだ……ユハル様のことは何も思い出せないのです」 「いいんだよ。大切な家族のことを思い出せて、良かったね。僕はそれだけで嬉しくて仕方がないよ」  彼は使用人であるハンナを、私の家族として扱ってくれているらしい。身分差があっても、血は繋がってなくても、彼女は大切な家族だ。 「ありがとうございます」 「それより、早く朝食にしよう。食べたら出発するから」  すると、ハンナが人差し指をびしと立てて私に忠告した。 「いいですか? あなたは仮にも侯爵夫人なのですから、民衆に混じって大会に参加するなんていうお転婆は、なさらないでくださいね」 「もう……分かってるわ。私だって子どもじゃないんだから」  私が頬を膨らませると、叱責していたはずのハンナは、泣きそうな顔をしていた。
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