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   空は高く澄み渡り、陽光が眩しい。卵投げ大会の開催地は、大勢の観衆でごった返していた。 「う……寒すぎ」 「凍えそうですわ。早く春にならないかしら」 「まだまだこれからが冬の本番だろ? エリザベス」  パウラとエリザベスが観覧席で寒そうに手を摩っていた。しかし、私はこの上なく清々しい心地で空を見上げ、白く染る息を眺めた。 (凍えるような寒い冬も、私は好きだわ。頬に触れる、冷たくて乾いた空気……全部が愛おしい) 「ソフィア、寒くはない?」 「ええ。暖かい格好をしてきましたから。でも私、このくらいの寒さが好きです」 「僕も。しんしんと冷える冬も、雪が解けて訪れる暖かい春も、どちらも好きだ」 「……同じですね」  私はユハルと微笑み合った。大会のスタート地点で、受付係員が参加者を募っている。私はその男の元へ走った。……ユハルの手を引いて。 「お兄さん、私たちも参加させていただきたいわ」 「とびきりの美男美女ご夫婦の参加、歓迎するよ。ほら、これが番号札。こっちの薄紙は胸に引っさげてくれ」 「はい。ありがとうございます」  一緒に出場してみないかという誘いを、彼は承諾してくれた。私はユハルの首に薄紙を吊るし、彼は私の首に同じように掛けてくれた。  スタート時点に二人で並ぶと、エリザベスとパウラが手を振りながら「頑張れ」とエールを送ってくれた。乾いた石畳を見据えながら私は言った。 「なんだか少し……懐かしい気分です」  なぜか目が熱くなる。 「うん。とても懐かしい」  まもなく。スタッフの声と共に大会が始まった。出だしから私とユハルは機敏な動きでライバルを圧倒した。広い道を走り、ゴールを目指した。レンガ造りの民家が道の脇に立ち並び、窓から顔を覗かせた子どもが手を振ってくれる。 「頑張れー!」 「ありがとう!」  玄関先で夫人が給水させてくれたりもした。人の心が暖かい街だ。 「とりゃっ!」 「うわあっ。あのお嬢様、細い腕してすごい打球(※卵)だ。あれが噂の公国の大砲か!」 「おい、鉄腕夫人に注意しろ!」  少年たちと卵を投げ交わす無邪気な妻に、ユハルはくすりと笑った。 「子ども相手に大人気ないんじゃないかい?」 「あなた、スポーツマンシップってご存知? こういうのは全力を尽くすのが礼儀というものよ」 「はは、そう」  俯瞰しているようで、彼は老人選手に卵を容赦なく叩きつけている。二人は息ぴったりで、次々と敵を倒し先へ進んだ。しかし、ゴール直前で、ユハルの薄紙に卵が命中し、濡らしてしまった。 「わ……ユハル様の紙が――」  汚れた紙に気を取られている内に、私も卵を投げつけられ、紙が卵でびしょびしょになった。 「惜しかったね」 「そうですね」  しゅんと肩を落とし、道の外に捌ける。ゴールはできなかったものの、それ以上に楽しくて高揚感に満ちていた。参加賞の採れたて卵を貰い、大会の行方を観覧できそうなベンチに座った。 「楽しかったです」 「久々にあんなに笑ったよ。君は昔と変わらず機敏だ」  人々の喧騒を遠くに感じながら、私たちは大会の感想を言い合った。ユハルはいつもにこにこしているが、今は特に屈託ない笑顔を見せてくれている。 「あのさ、今夜この街で行われるアイスキャンドル祭りに二人で来ないかい? 幻想的な街の景色を、今の君と見たいんだ」 「……!」  道も、家々も、花壇も、何もかもがキャンドルの光で灯される。淡い暖色の光に包まれる街は、どれほど美しいのだろう。ユハルと見るならきっと尚更。私は彼からの誘いに頷いた。  ◇◇◇ 「見てください、ユハル様。あのキャンドル、熊の顔の形をしています……!」 「本当だ。愛らしいね、ソフィアの次に」 「まぁ」  手作りのアイスキャンドルが石畳の脇にずらりと並べられている。小さな灯火が儚げに揺れる様は、幻想的だった。それを眺めるソフィアの横顔は、もっと美しい。どんな街の風景も、洗練された工芸品の数々も、僕にとって妻の美しさに優ることはない。  すると、ソフィアが片方の手袋を外し、頬を染めながらこちらに手を差し出した。 「……手を、繋ぎませんか」 「うん。いいよ」  僕も片方の手袋を外して、彼女の手に指を絡ませた。こんな寒い中で肌を外気に晒してまで手を繋ぎたいなんて、いじらしい妻だ。彼女の手は温かかった。 (懐かしいな。昔来たときも、こうしてソフィーと手を繋いだ)  この街に来ると、彼女との出会いを思い出してしまう。  友人に連れられて興味本位で卵投げ大会を見に行ったとき、僕は可憐な少女に一目惚れした。それまで女性に特別な関心を寄せたことはなかったのに、ストリートオルガンを演奏する彼女の凛とした姿に、魅入った。一つ一つの音が少しの淀みもなく洗練されていて、何より彼女自身が楽しんでいるのが伝わる演奏だった。後に彼女がその界隈で有名な若きピアニストだと知り、納得した。  彼女のことが知りたくて、友人を置いて追いかけると、卵投げ大会に参加しようと侍女を説得するソフィアがいた。優雅に鍵盤を奏でていた少女とは思えない無邪気さに、またしても心が惹かれた。  そして、僕は一緒に参加しないかと声をかけたのだ。アイスキャンドルを見たのは、出会いから一年して、正式な婚約者になってからだった。 「ユハル様。来年も一緒に来てくださいませんか。明日になったら、約束をしても忘れてしまいますけど」 「僕が覚えているよ。来年も、再来年も、きっと一緒に来よう」 「はい」  思い出の道をこうしてソフィアと歩いている。キャンドルが照らす彼女の長い金髪がなびく様子は、絵画の一場面のように優美だ。どんな瞬間を切り取っても、彼女は世界で一番綺麗だ。 「あそこに座って少し休みましょう?」  彼女はベンチを指差して提案してきた。古びたそのベンチは、初めてこの祭りに来たときに座り、初めて唇を重ねた場所だ。並んで腰を下ろすと、彼女は僕の肩に頭を乗せて寄りかかった。華奢な腰に手を回し、抱き寄せる。肩に掛かる重みが、彼女がそこにいると実感と幸福感をもたらした。 「……ゴール、できなくて残念でしたね。景品持ち帰りたかったです」  ゴールしたときに貰える景品は、木彫りの卵の置物だ。正直、食べられる卵を貰える方がマシな気がするが、妻はあれが所望らしい。 「そんなに欲しがるようなものかい?」 「思い出は形に残したいタイプなんです」 「なるほど」  彼女は、初めて参加した大会で、僕の頭に乗っかった卵の殻を後生大事に保管している。僕も彼女が作ってくれたクッキーを食べられずにカビさせてしまったので、なんとなくその気持ちは分かる。 「昔、君と出場したときも、ゴール直前で脱落したんだよ」 「……」 「君は今日みたいにはしゃいでいて、僕は無邪気に笑う姿に――恋した」 「そう……だったのですね。ごめんなさい。大切な思い出を忘れてしまって」 「謝らなくていい。責めている訳ではないから」  僕は、複雑そうに目を伏せているソフィアの金髪を撫でて微笑みかけた。 「君と出会ってから何年も経つけれど、僕は変わらず君に恋焦がれている。記憶があってもなくても、どんな病だろうと、たとえ老いさらばえても、君が好きだ。愛している」 「……!」  彼女は陶器のような頬を濡らしながら、こくこくと頷いた。 「私も、記憶を失くしても、何度でもあなたに恋をします。ユハル様……好きです。愛しています」  どちらからともなく、口付けをした。久しぶりに触れた彼女の小さな唇は、柔らかくて優しかった。  たった一日で記憶を失う忘却妻と過ごす、儚く静かな夜が、静かに終わった。
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