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   アイスキャンドル祭りの翌朝、目が覚めた私は震えていた。どくん、どくんと心臓が波打つ。  自身の身に起きた異変を自覚していく。 (記憶が……リセットされていない)  昨晩、幸せな記憶を未来の自分に残そうとと泣きながら日記を綴っていたことも、祭りでユハルと手を繋ぎ唇を重ねたことも、卵投げ大会ではしゃいだことも、覚えている。  日記の最後のページは昨日のまま。これは確実に、昨日の記憶だ。  私はナイトドレスを着たまま、部屋を飛び出していた。使用人にユハルの部屋を尋ね、扉をノックする。既に身支度を整えた彼が扉を開け、不思議そうにこちらを見下ろした。 「ソフィア? どうしたんだい? わっ」  私は彼に抱きついた。ぼろぼろと泣きながら声を絞り出す。 「覚えてるいるんです。昨日のことを。卵投げ大会に出て、でもゴールはできなくて……。それから夜に、ベンチでキャンドルを眺めながら話したことも……」 「そっか。そう……嬉しいよ。ありがとう、報告しに来てくれて」  ユハルは私を抱き締めながら、頭を撫でてくれた。  ◇◇◇  その日から、私の記憶は一日でリセットされなくなった。  毎日違うドレスを選び、毎日違う本を読み、毎日違う曲をピアノで弾いて、毎日違う話をユハルとした。過去の日記を何度も読み返し、過去の日々も知識として頭の中にある。ユハルから毎朝説明されずとも、二人が歩んできた日々を知っている。 「おはようソフィア。昨日はよく眠れたかい?」 「はい、ぐっすり。昨日エリザベスからいただいたアロマが凄く良い香りで、リラックスできました」 「へぇ。どんな香りなんだい?」 「樹木系の清々しい香りです。確か……ユーカリとローズウッドだったような……。ユハル様も試してみますか?」 「うん。ありがとう」  朝食を食べながら、何気ない普通の会話をする。しかし、私たちにとっては特別なことだった。 「今日は、なんの曲を弾いているんだい?」  ピアノを弾いていると、背後からユハルが顔を覗かせて楽譜を見た。 「ラ・ボワネストの練習曲第十八番です。昨日一通り譜読みをしたので、今日は仕上げです」 「君の演奏はいつ聴いても安定してる。けれど、完璧な演奏の中に躍動感と力強さもあって、聴いていて気持ちがいいよ」  一つの椅子を二人で半分こにして座り、私は鍵盤に指を乗せた。細い指が奏でる忠実な演奏を、彼は目を閉じて聴いていた。一曲弾き終わり、私は手の動きを止めた。 「……私、音大に通っていて、ピアニストの活動をしていたんですよね」 「ああ。王宮に招かれるくらい、活躍していたよ」 「いつかまた、復帰できるでしょうか、ブランクがかなりありますが」 「ソフィアなら大丈夫さ。毎日練習に励んでいたことを僕は知っている。技巧も衰えていないよ。大学も、いずれ復学したらいい」 「……!」  記憶喪失になってからも、ユハルは復学の可能性を捨てず、休学申請をしてくれていた。休学費もずっと支払い続けてくれていたらしい。 「はい。きっと頑張ります」 「僕も一ファンとして、楽しみに待っているよ」  心に希望が芽吹く。大勢の人たちの前で演奏する未来を想像して高揚し、自然と口角が上がっていた。すると、ユハルが練習曲の楽譜を眺めながら言った。 「僕もこの曲、弾けるかな」 「うーん、無理だと思います」 「はは、ばっさり。君が指導してよ」 「厳しくしても音を上げないでくださいね?」 「むしろご褒美だ」 「……妙なことおっしゃらないで」  私がいぶかしげに眉を寄せると、彼はなぜか嬉しそうに目を細めた。 「不満そうな顔も、凄く可愛い」 「……!」  ずきゅん。ユハルの甘すぎる囁きに、不覚にも胸が撃ち抜かれた。赤くなった顔を隠すように顔を背けると、それを見透かしたように彼がまた笑う。 「ふ。照れてるな」  ユハルはそう言って私の頬を指でつついた。このところ、一緒に過ごす内に私の緊張が解けて慣れてきたからか、彼の愛情表現も容赦がなくなってきた。つい気恥ずかしくてあしらってしまうのだが、もしかしたら、記憶を失う前も、こうしてよくからかわれたり、軽口を言い合ったりしていたのかもしれない。  ◇◇◇  その日の夕食。テーブルの上に一通の書簡が置いてあった。そして、ユハルがいつになく険しい顔を浮かべている。 「その書簡は?」 「薬剤検査機関から届いたものだ。ついさっきね」  彼は封筒から書類を出しながら言った。 「……君は三年間、スカーレットさんが処方した調合薬を服用していた。薬を中断したら記憶障害が改善しはじめたんだ」 「……はい。日記にも記していたので承知しています」  なんとなく、彼が言わんとしていることを察し、底冷えするような悪寒が走る。 「君が飲んでいたのは、非常に危険な禁止薬物だった。……記憶機能に特異的な作用をもたらす――ね」 「つまり、私の記憶障害は、義姉さんの薬のせいということですか……?」 「十中八九……いや、ほぼ確実と言えるだろう。君が記憶障害になる直前に飲んでいた漢方からも、同様の成分が検出された」 「そんな……」  スカーレットが私のために調合したのは、スラシという実の皮の乳液と、ゼントリンという植物の抽出液を混合した毒性の強い薬物だった。彼女は意図的にその毒性を理解した上で、私に薬を飲ませていたのだ。  ユハルは額を手で抑えた。 「すまない。気が付かなかった僕の落ち度だ。まさか、薬にこんな危険物質を混入していたとは」 「自責なさらないでください。そんなこと、誰だって夢にも思いません。姉が妹に毒を盛るなんて」 「だが……」  スカーレットはユハルに岡惚れしていた。しばらく前にも、嫉妬した彼女と一悶着あったと日記に書かれていた。私に恐ろしい薬を飲ませるほどだから、ユハルへの執念は相当のものだ。 (……ユハル様)  ユハルは苦しげに顔を歪めている。無理もないだろう。自分への好意がスカーレットを突き動かし、恐ろしい狂気に走らせてしまったのだから。優しいユハルは止めても自責してしまうだろう。書類を握る手が、怒りで震えている。 「すまない、ソフィア。僕のせいだ。僕がもっとしっかりしていれば、君がこんな目に遭うこともなかったのに……。本当にすまない」  何度も何度も詫びを口にするユハル。私は震える彼の手を上から握った。 「心を乱されてはなりません。怒りも、後悔も、悲しみも、私たちは味わい尽くしてきました。……もう、今は手放しましょう。私は大切な時間を苦しむことで潰したくありません」  今こうして生きていて、記憶障害も改善してきている。私にとってはそれだけでありがたいことだった。どんなに嘆いても、苦しんでも、過去は変えられない。それは過去の三年間で嫌というほど知ったはずだ。 「今できることをしましょう」  ユハルは小さく息を吐いた。 「そうだね。少し冷静になったよ。この証明書はすぐに警察に提出する。必ず彼女自身の口から罪を吐かせる」
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