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15
公爵家出身のエリート女医が、義理の妹に薬物を盛っていたことは、新聞で大々的に報じられ、世間を震撼させた。あらゆる名誉は悪名に変わった。
スカーレットはすぐに身柄を拘束されて拘置所に捕えられ、裁判にかけられた。裁判は大勢の傍聴人が押し寄せた。
彼女が調合した薬は、分量を間違えると死の危険もあるものだった。運良く死には至らなかったものの、非常に凶悪だと判断され、殺人未遂で懲役十年の実刑を言い渡された。もちろん、医師免許も剥奪である。
裁判の直前で面会したスカーレットは、ひどくやつれていた。
「お願いソフィア……! 許して……っ。お願いだから、ここから連れて行って……っ」
「それはできないわ。私だけは、許すことはできない」
家族も、スカーレットに罪を償わせるべきだと手を差し伸べなかった。私はぐすぐす泣いて縋る義姉を冷めた目で見つめた。
「嫌、お願いよ。あたしが悪かったわ。だから――」
「その手を離せ」
私に縋るスカーレットの手を、ユハルが振り払う。ユハルはこれまで見た中で一番怖い顔をしていた。地を這うような声で言い放つ。
「僕は君と、君の性根を見抜けなかった自分自身を生涯許さない。何年牢に入ろうと、たとえ命で償おうと許されない罪だ。その手で妻に触れないでくれ」
心優しく寛大なユハルが侮蔑を向けて、怒りに震えている。スカーレットは好きな相手に軽蔑され、絶望した。
「お願い、ユハル様……あたしを嫌いにならないで。全部あなたを想ってしたことなのよ。だから、失望しないで……」
泣きじゃくる彼女。ユハルはこちらを振り返って言った。
「ソフィア。もう行こう」
「ええ……」
傷つき、変わり果てたスカーレットを哀れと思ってしまう私は、人がいいのだろうか。
しかし、スカーレットは私を陥れただけではなく、周りの人にも多大な迷惑をかけた。子どもが犯罪者になったせいで公爵家の評判は下がり、抗議が殺到しているらしい。特に義母はショックを受けて、ノイローゼになってしまった。両親は気のいい人たちなので、気の毒に思う。
◇◇◇
冷たい牢屋の中で、あたしは震えていた。牢屋の中は静かで、底冷えするような寒さがする。
窓はなく、昼間でも光が届くことはないので、一層物悲しい。両親に、公爵家のロイヤルパワーでなんとかここを出してほしいと懇願したが、罰を受けて償えと突き放されてしまった。
(……使えないんだから)
ぎり……と爪を噛む。
一分一秒が、外にいたころより何倍も長く感じられる。そして毎日のように、冷えた目でこちらを見下ろしていたユハルの悪夢を見た。夢の中で彼は何度もあたしに「軽蔑する」と言い放つのだ。
「……ユハル様」
本当に好きだった。
手に入れたくて、犯罪に手を染めることをいとわないほどに……。
◇◇◇
「ねぇスカーレット。あのユハル様が今度、医学部の合同講義に参加するんですって。一目見に行きましょうよ」
「あのってどの?」
「もう……超有名人なのに知らないの?」
医学部の唯一の女友達ジェニーは、浮き足立った様子であたしに語った。彼女いわく、オーグレーン侯爵家の嫡男で、大学の政治学部で領地経営を学んでいる彼は、女子の憧れの的だという。
(家柄はまぁまぁね)
誰にでも分け隔てなく優しく、いつも静かに笑っているそうだ。彼が歩くだけで女子は色めき立ち、歓声を上げる。大学一の恋人候補といわれているほど。そもそも。大学に女子はほとんどいないのだが。
「別に興味ないわ。皆にいい顔するってことはどうせその噂の彼も、女たらしのろくでもない男なのよ」
あたしは父に似て器量が良いので、相手に困ったことはない。その男も、モテるということは、どうせ遊んでいるに決まっている。
「まぁ、ユハル様になんてこと言うのよ。彼はね、誰に言い寄られても応えず、恋人を一途に想っていらっしゃるんですって。あんなに格好良くて誠実で愛情深いなんて、お相手が羨ましいわぁ」
「……」
本当にそんな人間がいるものだろうかと、嘲笑めかして鼻で笑った。少なくともあたしが見てきた男は、綺麗な女には誰にでも鼻の下を伸ばす薄情な人たちばかりだった。きっとユハルだって、立ち振る舞いが上手いだけでそういう一面があるはずだ。
しかし。ユハル・オーグレーンという男は、どこまでも清廉潔白で、完璧な男だった。
(あの人が……噂のユハル様)
漆黒の髪に、夜明け前の深みのある空のような瑠璃色の瞳をした爽やかな青年だった。
姿勢を正して、真剣に講義を受ける横顔は、凛として美しい。思わず、心がときめいた。講義が終わると、積極的なジェニーが好奇心でユハルに話しかけに行く。
「ユハル様っ! 授業お疲れ様ですぅ!」
「えっと……君たちは?」
「私は医学部のジェニーです。こっちは友人のステファニー。私たち、ユハル様の大ファンなんです!」
(勝手にあたしまで巻き込まないでよ)
一体いつの間にファンになったというのか。内心で抗議するが、ジェニーは他人のことまでファン扱いして平然としている。ユハルも突然訳の分からないことを言われてさぞ迷惑だろう。しかし、それを表情に出さずに愛想よく対応してくれた。
「はは、なんだいそれは。ありがとう……でいいのかな?」
「きゃーっ! 笑顔もとっても麗しいです!」
「参ったな……」
苦笑するユハル。
するとそのとき、あたしは咳き込んだ。
「ごめんなさい、ホコリに弱くて」
講義室はしっかり掃除していないのかほこりっぽかった。咳き込んでいるあたしにユハルがポケットからキャンディの包みを出して渡してきた。
「君、講義中も咳してたよね? よかったらこれどうぞ」
「……ありがとう、ございます」
「それじゃ、僕はもう行くね。お大事に」
そう言って背を向けて去っていった彼。手のひらに転がるキャンディを見下ろしながら、あたしの心臓は波打っていた。
「あっれー? ステフ、顔赤いよ。好きになっちゃった感じ?」
「そんなんじゃないわ」
口ではそう言いながら、その日からあたしはユハルを目で追うようになっていた。遠目で見ているだけなのに、恋心が募っていった。
ある日。校舎内を歩いているユハルを見つけて、思い切って話しかけてみることにした。
「あの……ユハル様」
「……? 君は……?」
ずきん。胸に鋭い何かが刺さったような感覚がした。たかが一度話しただけの自分は、彼の記憶にも残っていないのだと。彼が覚えておくに値しない女だったのだと……。
「以前、咳をしていたら飴をくださいました」
「ああ、そんなこともあったね」
あたしにとっては、日常の多くを占める存在になっていたのに、彼にとっては"そんなこと"程度なのだ。
「僕に何か?」
「いいえ。用がある訳じゃなく、なんとなく話しかけただけです」
「そう」
「……ユハル様は、随分人気がおありですね。いつも女の子に囲まれて、大変ではありませんの?」
あくまで自分はその女たちとは一線を画した存在かのような態度だが、やっていることは同じだ。ユハルは苦笑し、「少しね」と答えた。
「あの……恋人がいるって本当ですか」
「ああ。本当だ」
「どんな……方なんです?」
「お転婆で子どもっぽい人だ。でも、根は真面目で努力家。ピアノがとても上手くて、それから――」
ユハルはこれまで見せたことがないほど甘ったるい表情で言った。
「僕のことが大好きな人……かな」
「惚気、ですね」
「はは、そうだね。あっ、今思ったんだけど、君と顔立ちが少し似ている。特に目元とか」
「へぇ。ではかなりの美人ですね」
なんて言ってみるが、内心は穏やかではなかった。どうせ似た顔が好みなら、あたしでは駄目なのだろうか。あたしなら、顔だけでなく能力も家柄も不足はない。それに、これまで努力を積み重ねて大学に入った。勤勉で努力家という点では他の女の追随を許さない。
「見れば見るほど本当によく似ているな……。親族だったりしてね」
ユハルは立ち止まり、こちらをしげしげと観察した。あたしの心はこんなにときめいているのに、彼はあたしを通して恋人のことを見ているのだ。
「君、名前は?」
「……スカーレット・ノシュテット。西の公爵家の者です」
「!」
彼は青い目を見開き、しばらく黙っていた。
「そう。ならもう少ししたら、また会うことになるね」
「……?」
このときは彼の言葉の意味が分からなかった。ソフィアとの結婚を申し込みに公爵邸を訪れるまでは……。
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