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   ユハルが求婚に来たとき、両親は彼を歓迎した。両親はソフィアに結婚して幸せになることを望んでいたので、政略結婚ではなく恋愛結婚なら尚更良しとした。オーグレーン侯爵家は、相手として不足なかった。 (嘘……でしょ。どうしてユハル様が……ソフィアなんかと)  このとき、人生最大の屈辱を味わった。応接室で、ソフィアとユハルは仲睦まじげに並んで座っていて、あたしはそれを向かいで見ている。 「久しぶりだね、スカーレットさん。いや、お義姉さんと呼ぶ方がいいのかな?」 「まぁユハル、いつの間に義姉さんと知り合いになっていたの?」 「大学で少しお話したんだ」 「そうなの」  交わされる言葉はまともに耳に入ってこなかった。ぎゅうと拳を握りしめ、歯ぎしりした。ずっと馬鹿にしてきた義妹が、自分が一番いたかった場所にいるのを見るのが苦しくて堪らなかった。  勉強が特別できる訳でもなく、あたしより器量も良くない。あたしはなんでもそつなくこなして機敏だが、彼女はどんくさくてマイペース。だから今まで、ソフィアを見下して自己有用感を満たしていた。  昔からずっと、将来なんの役に立つかも分からないピアノばかり弾いていて、へらへら笑っている彼女が嫌いだった。 「あんたまた一日中ピアノ弾いてたの? こんなの、一体なんの役に立つのよ」 「……ただ好きなの。ピアノを弾くのは、私にとって息をするのと同じくらい自然なことなのよ」 「はぁ、あほらしい」  ソフィアは幸せそうに目を細め、「いつか私の音楽で沢山の人に豊かさを届けたい」などと夢を語った。理想ばかり追い、地に足が着いていないように見えて、腹が立った。 「そんな夢叶う訳ないでしょ。現実見たら? あんたみたいに無能で学のない女は、いいとこに嫁いで子を残すことくらいしかできないのよ」 「……」 「あー良かった。あたしは父さんに似て頭が良くて」  もちろん、才能に傲ることなく努力もしてきた。女だからと馬鹿にする声は、実力でねじ伏せ、医学部に入った。医者を目指したのは、誰かを助けたいとかいう高尚な動機ではなく、ただ医者という肩書きを得て承認欲求を満たしたかったから。あたしは男には頼らず、自分の足で生きていくつもりだった。プラン通りに人生は進んでいた。けれど、なぜか満たされない。何も努力せず、何も持たないくせに幸せそうにしているソフィアが憎らしくて仕方なかった。 「そうね。義姉さんは優秀で羨ましいわ」  どんなに馬鹿にしても、ソフィアは穏やかに笑っていた。  浮ついているように見えたソフィアだが、着実に夢を叶えていった。コンクールで賞を取り、いつの間にか色んな演奏会に引っ張りだこ。調った容姿も相まって、彼女を専属で雇いたいという貴族や資産家も後を絶たなかった。  それだけでなく、彼女は公演の利益は身寄りのない子どもに寄付し、孤児院や修道院でチャリティー演奏をしていた。いつも彼女は、好きなことをしながら楽しそうに笑っていた。 (良い事してる自分に酔ってるんだわ)  蔑みながらも、無能な妹にいつか足元を救われるのではないかと底知れない恐怖があった。世の中は意外と、目を血走らせながらあがいて生きる自分ではなく、穏やかに気楽に生きている人の方が、上手くいくものだ。そして遂に、ソフィアはあたしが憧れてやまなかった相手の心まで手に入れた。あたしの心はぐちゃぐちゃに引き裂かれ、プライドは砕け散った。  あたしはソフィアへの復讐を画策した。かつてユハルに忘れられたときに味わった屈辱と同じものを味わわせるために、禁止薬物を入手して「体にいい漢方だから」と服用させた。  運が悪ければ体が拒否反応を起こしてショック死する危険性があるが、死んだら死んだで好都合だ。そして、薬を飲み始めたソフィアは、記憶喪失と記憶機能の特異変化を起こした。しかし、予想外だったのはユハルがソフィアを手放さなかったことだ。何度も実家に戻した方がいいと説得したが、彼はやつれた顔でそれを拒んだ。  結局、ユハルの心にあたしが入る隙間なんてなかったのだ。記憶がなかろうと、障害者になろうと、ユハルは義妹のことだけを深く愛し続けた。 (……そうよ。彼はどこまでも誠実で一途な人。ずっと、そうだった)  冷えきった牢屋で、あたしは自分の手のひらに視線を落とした。たった一度だけ、キャンディを渡された一瞬だけ彼の指先が手に触れたことを、今も覚えているなんて、つくづく惨めったらしい。義妹は当たり前のように手を握ることができるのに、自分は近くにいながら一度もその手のひらの感触を味わうことができなかった。遠い昔の、一瞬の胸のときめきを思い出し、虚しくて涙が零れた。  ◇◇◇  スカーレット の裁判が終わった夜、私はなかなか眠れなかった。色んなことが頭をよぎってしまうのだ。ふと、サイドテーブルに置いた時計を眺める。 (もうすぐ十二時……。ユハル様は起きていらっしゃるかしら)  記憶喪失になってからというもの、夫婦でありながら寝室は別々だ。温もりを分け合って眠りについた幸せな夜の記憶は私にはない。  ベッドから起き上がる。私の足は自然と彼の寝室に向かっていた。既に眠っていたら申し訳ないと思いつつ、彼も今夜は寝付けていないのではないかと予想もしていた。――コンコン。ノックをすると、ユハルが扉を開いた。寝着を来ている彼は、昼間より艶めいて見える。 「眠れないのかい?」 「はい。色々と考えてしまって」 「僕も今夜は眠れそうにない。……何か温かい飲み物でも飲もうか」  部屋の中へ促され、ソファに腰を下ろした。並んでいるクッションのひとつを抱き、手持ち無沙汰に角のタッセルを弄ぶ。 「僕はコーヒーにするけれど、君は?」 「ミルクを」 「蜂蜜と生姜を入れたやつだね」  彼はにこりと微笑み、注文した飲み物を手際よく用意してくれた。生姜の僅かな辛味が舌に広がり、体の芯が温まっていく。 「美味しい?」 「はい、とても」  カップをテーブルに置く。しばらく二人で取るに足らない話をしていると、時計は一時を回っていて、瞼が重くなってきた。 「眠そうだな。そろそろ部屋に戻りなさい」 「……」  私は頷かずに、ユハルの顔色を窺った。唇をそっと開き、おずおずと尋ねる。 「今日は、朝までお傍にいたいです」 「……!」 「迷惑、でしょうか」  ユハルの瑠璃色の瞳の奥が微かに揺れる。彼は優しく微笑んだ。 「まさか。いいよ。今夜は寄り添って眠ろう。――おいで」  私は小さく頷いた。手を繋ぎ、寄り添いあって眠るだけだったが、こんなに幸せな夜はないと思った。悲しい気持ちも、彼の手の温もりに溶かされて、消えてなくなるようだった。
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