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本編
1.正直、異世界転生なめてた
「…もう無理。…絶対無理。」
地獄の29連勤明け、漸くの休日、と言っても、職場である王宮を出たのが既に当日の朝、帰って寝て、起きたらまた出勤。
「無理無理無理。無理だよ、こんなの。ブラックなんてもんじゃないし。もう耐えられない…。死ぬ、ホントに死ぬ…」
丸一日、スクロールを書き続けた目も手も限界。脳みそも、どっか焼き切れてるんじゃないかと思う。
だから、本当に限界を越えた私が、本能の赴くまま、フラッとそのお店を訪ねたのは必然で必要で、とにかく、残された道がもうそこしかなかった─
「…すみません。このお店で一番高い奴隷ください…」
自分が所謂、転生者、前世持ちだと気づいたのは五歳の時、周囲から神童だ天才だともてはやされる程度には賢いお子様だった私は調子に乗っていた。前世、ブラック企業で社畜として生きた記憶があるから、人生二周目なんてチョロイチョロイ、と─
結果、十歳で親に売り飛ばされるようにして勤め始めた王宮の魔導省で、八年間、来る日も来る日も、魔導スクロールを書き続ける日々。そりゃあ、子どもの頃は理解の早いお子様だったと思う。だけど、三年経てば金メッキも剥がれるし、二年前に成人を迎えた今ではただの人、一般ピーポーと変わらない。そんな私に、それでも上司は容赦なかった。
曰く、十歳で出来たことの二倍は働けるはずだ、と─
(…出来るか、そんなん。)
社畜根性ゆえに、十歳時点で既に人の倍は働いていたのだ。それを更に二倍だなんて。周囲の魔導士達が涼しい顔で自分の仕事をこなす横で、私だけが死にそうな顔をしている。
(…駄目だ。このままじゃ駄目だ…)
本当に死んでしまうその前に、何とかしなければ。そして、思い出した。前世、今よりずっとマシな状況で、それでも、折れて凹んで沈みそうになっていた時、私を救ってくれたもの達。私の癒し。
漫画、小説、ゲーム、etc.etc.
だけど─
「っ!」
(この世界、何っにも無い!Web小説どころか、紙媒体すら無い!)
思わず、血が滾った─
正確に言えば、お姫様と王子様が主人公の恋物語とかならある。全然萌えないシチュに、萌えないキャラしか出てこないから、早々に諦めたけど。
(だって、バルコニー下から愛を囁くとか、…それ、聞こえるの?叫んでない?人に聞かれてない?)
それでも、癒し自体を諦めたわけではなかった。そう、その程度では止まれないほどに心が疲弊していた。だから、たどり着いた結論、降ってきた天啓がちょっとおかしかったんだと今ならそう思う。けど、その時は本当に名案、これしかない!と思ってしまったのだ。
『二次元が駄目なら、三次元があるじゃない!』
2.初めてのお買いもの(奴隷)
「それで、お客様?『一番高い奴隷』をご希望とのことでしたが、具体的なご予算はおいくらになりますか?」
「あ…、えと、そうですね…」
奴隷商店の店主の冷静な接客に、こちらも少し冷静になれた。十年、使いもせずに貯め込んだお給料全額、私の財布が火を噴くぜと思ったけれど、良く考えたら、私、奴隷の相場も知らない。
「あの…、実は奴隷を買うのって初めてで…」
違法ではないけれど、倫理的、人道的に、どうなの?と思ってしまうから、今までお店に足を運んだことすら無かった。
「…そうですか。でしたら、そうですね。奴隷を買われる目的、用途をお尋ねしても?」
(ッ!?)
全うな商売。お客様のご要望を丁寧に汲み取ろうとする姿勢はとても大切なこと。基本中の基本。でも─
「用途によって、お値段も変わってまいります。性別や容姿、そうですね、後は技能などにご希望はございますか?」
「…えと、その、ですね…?希望は、男性なんですけど…、容姿とかは特に希望はないです。けど、身体は頑丈、丈夫な方が良くて…」
嫌な汗、出てきた。
「力仕事用ですか?もしくは、護衛用?」
「いえ、違う、んですけど、その、家で、待っててもらうというか…」
「家で待つ?」
怪訝そうな店主に、冷や汗が止まらない。
「いえ、あの、特別、何をして欲しいってわけではなくて、その、家で、あの…」
「…」
(…無理だ。)
八年間、職場以外の人間関係を持たずにきた私には、こういう買い物は無理。そう言えば、前世でも対面販売は苦手だったと思い出す。帰ろう、ポチれないなら諦めよう、そう決めたところで、店主が頷いた。
「…なるほど。承知致しました。」
「え…?」
(承知、出来たの?今ので?)
流石、商売人。ヒアリング力が違う。
「では、こちらで少々お待ち下さい。」
「あ、はい…」
部屋の奥へと消えていく店主を見送ったところで、ふと我に返った。
(…何やってんだろ、私。…帰りたい。)
買う前から、既に後悔。衝動買いなんてするもんじゃない─
3.最悪な客 Side E
日の差さない部屋、薄暗い地下室にあるその場所に近づいてくる足音。足音が部屋の前で止まった。
(…漸くか。)
部屋の扉が重い音を立てて開く。現れたのは、この店の店主。ここに売り払われた際に、一度だけ目にしたことのある男。鋭い眼差しが、部屋の中を一瞥した。
「…お前とお前とお前、来い。」
短い言葉で呼びつけられた三人の、最後は自分。転がっていた床から跳ね起きて、店主の前に立つ。
「俺の服と剣を返せ。」
「…なに?」
「あれは特注品なんでな。俺の動きに合わせて作った。あれが無ければ俺の力は半減する、戦力にならん。」
「…ふん、なるほどな?」
店主が、鼻先で笑う。その目がこちらの全身を値踏みしてから、
「心配はいらん。客の望みは戦闘奴隷ではない。」
「…なに?」
「お前を買うのは女の客だ。…金は持ってそうだからな、あれは、多分、王宮の文官あたりだろう。」
「女の文官?」
戦闘奴隷として買われた身、それがなぜ文官などに─?
「…客の望みは『女主人の慰みもの』だ。」
「…」
店主の言葉に、思わず舌打ちする。
(最悪だ…)
女の我儘に従うのが我慢できずに、こんなところまで逃げ出して来たというのに。
「…女主人様が、何だって俺みたいなのを?もっと、見目のいい奴なんて他にもいるだろう?」
それを言うなら、選ばれた他の二人も大概だが、荒事専門の身に見た目を求める方が間違いだ。それこそ、それ専門の奴隷でも連れて行けばいいものを。
「…お客様のご要望だ。顔は関係なく、『頑丈なの』が必要だそうだ。」
「は?」
「…あんな見た目で、なかなかいい趣味をお持ちのようだな。」
「…」
(クソッ。加虐趣味か…)
同類らしい店主の目に、愉悦が映っている。
「…せいぜい、愛想良くしろよ。」
「…」
店主に追い出されるようにして部屋を出た。
三人並んで廊下を歩かされる。三人の内一人、ならばまだ、選ばれない可能性もある。万一、選ばれてしまった場合は仕方ない。
(油断を誘って、隙をみて逃げ出すしかない、か。)
その時は、店主の言うように、精々愛想よくしてやろう。
店内への扉を店主が開く、一番最後、入った部屋を視線だけで見回す。部屋に居たのは女一人。それが、自分達を所望した「女主人」なのだろうが、
(…なんだ?)
想像と違う。
具体的にナニかを想像していた訳ではないが、店主の言葉から想像していたのとはかけ離れた雰囲気の女。拍子抜けするほどに平凡な容姿、こげ茶の髪を一つに括り、伏せられた瞳は同じくこげ茶か黒。小柄な印象はあるが、一度会っても、二度目会った時には忘れていそうなほどの凡庸さだ。
その中でただ一つ、特徴的なところと言えば、その指先。インクで汚れ、タコが出来ているのが見てとれる。なるほど、店主の言うとおり、文官あたりが妥当だろうと当たりをつけた。
(それにしても…)
先ほどから全く視線が合わない。「顔は関係ない」というなら、では、身体でも吟味されているのかとも思ったが、それにしては視線が下、こちらの膝より上に上がって来ることがない。
(…なんだ?)
何かがおかしい。そう思う思考は、店主の声によって遮られた。
4.即決、プレミアム価格で即時決済
(っ!?なんでーっ!?)
店の奥に続く扉、そこから戻って来た店主の後ろに続く三人を見て、絶叫しそうになった。
(なんでなんで!?なんでこの人たち、肌着だけなのっ!?)
服は?服はどうしたの?
(え?え?もしかして、奴隷ってそうなの?肌着だけの簡易包装!?)
駄目だ、目のやり場に困る。上はともかく、下はパツパツの短パン。今時、小学生だってこんなのはいてない。
(っでも!顔はもっと見れないー!!)
妥協案として、彼らの膝辺りに視線を固定することにした。胸元では、顔が視界に入ってしまう。でも、正直、太もも辺りまではバッチリ見えてる。
(うーうー。それで?こっからどうするの?三人から選ぶの?どうすれば…)
「…如何でしょう。お客様?この三人の中にお気に召す者がおりますか?」
「あ…」
言われて、奴隷商さんの方に視線を逃がし、考える。ここまで来たら、もう後には引けないから。
「…あの、一人ずつ、自己紹介をしてもらってもいいですか?」
「自己紹介?」
「はい、あの、名前と年齢だけでいいので。」
こちらの言葉に頷いた店主が、三人を促して自己紹介をさせる。最初の二人の声をフンフン聞き終わり、三人目、最後の一人の声になった時、再び、天啓が舞い降りた
「…エリアス、二十七だ。」
(っ!?コレだー!!)
高すぎず、低すぎず、だけど艶のある声。それに、それに、彼の太ももは他の二人より、ずっとしっかりして見える。
(完璧。これ、この人。)
即決して、覚悟を決める。
「…すみません、えっと、この人、エリアスさんを下さい。」
「…」
「かしこまりました。…では、手続きを行いますので、こちらへ。」
「…はい。」
言われるまま、エリアスさんの方は極力見ないようにしながら、案内されたテーブルにつく。テーブルの上に置かれた書類。それを、確認するように促された。
「こちらが、奴隷契約書。サイン一つで、奴隷契約をお客様にお移しすることができます。内容をご確認の上、サイン頂ければ。…ちなみに、金額は、こちらになります。」
「えっと、八百二十万…」
そう言えば、値段も確認していなかった。書かれた数字に、ちょっと考える。前世の感覚でいうと高級車くらい。勿論、前世では手も足も出なかったお値段。
(こっちの感覚でいくと、どれくらいなんだろう?)
家と職場の往復だけの毎日。大きな買い物なんてしたことないから、感覚がつかめない。
(家は賃貸だし。)
今借りている部屋の家賃十万レンからすると、多分、ひと一人のお値段としては妥当─
(…なのかな?全然分かんない。)
「…お客様?もし、お値段でお悩みでしたら、こちらも精一杯、勉強させて頂きますので、ご希望のお値段をおっしゃって頂ければ…」
「あ。はい、ごめんなさい。大丈夫です。」
「え?」
「八百二十万で買います。問題ないです。」
「…」
「あ!でも、そうだ、すみません。私、現金は持ち歩いてなくて。バルト銀行の口座引き落としって、可能ですか?」
「…それは、問題ありませんが。…少々お待ち頂いても?」
「はい。」
多分、カードの読み取り機を取りにいくのだろう。店主さんが残り二人の奴隷と共に店の奥へと下がっていく。
エリアスさんと私を残して─
(…気まずい。)
奴隷とご主人様の最初の挨拶ってなんだろう?初めまして?これからよろしく?でも、それって、こっちは選んだ立場だからいいけど、エリアスさんの立場からすれば、「よろしくなんてしたくねーよ」みたいな…?
(うん、会話はおいおい、ということで。)
気まずい時間を誤魔化すため、目の前の書類に目を通してみる。奴隷の売買契約書。奴隷の行動を制限する契約魔法、他傷のほかに自傷を禁じているけれど、「主人の命令」があれば、その限りでない。命令一つで、自立行為の全てを禁止、許可することが出来るらしい。
(怖っ…)
なるべく、「命令」はしない方向でいこう。
「…お待たせ致しました。失礼ですが、一度、こちらにカードを通して頂いても構いませんか?」
「あ!はい…」
遠隔カード読み取り機が目の前に置かれた。
(こうして、お前とまた会う日が来るとは…)
懐かしく、そして、二度と思い出したくない思い出の品の登場に、カードを持つ手に力が入る。基本、スクロール作成が業務の私も、たまに別の班に呼ばれて、組込み式回路の構築を手伝うことがある。カード読み取り機はこの小さな端末の中に、数えきれないくらいの術式が複雑に編み込まれていて─
「…はい、ありがとうございます。カードの使用確認が取れました。問題無くお使い頂けます。」
「…あー、はい、良かったです。」
スムーズな動作、非常に便利。過去への遺恨は忘れることにしてカードを抜き取る。
「えっと、じゃあ、もうこのまま…?」
「はい、こちらにサイン頂き、カードの決済が完了すれば、こちらはお客様のモノになります。」
「…」
店主の言葉に頷いて、契約書に向き合う。きっちりサインし終わったところで気が付いた。
「っ!そうだ!すみません!」
「…何か?今からの契約キャンセルですと、契約書の作成手数料分のキャンセル料が、」
「あ!いえ、そうじゃなくて、あの、服を!」
「…は?」
「エリアスさんって、このままの引き渡しになるんですよね?オプションで!オプションで良いので、何か、着せられる服ってありませんか!?」
「…」
この恰好の成人男子を家に連れ帰るとか、軽く死ねる。必死に店主に詰めよれば、
(あれ?)
店主の目が、キラッと、獲物を狙う猛禽類の目に─
「…かしこまりました。」
「あ、はい?」
「…こちら、エリアスは、元は戦闘奴隷として販売していたものでして。」
「戦闘…」
「奴隷契約時に身に着けていた防具と武器がございます。…こちら、限定品、一点ものでございまして…」
「…限定品。」
「しかも、申し上げた通り、元はエリアス所持の装備。謂わば、エリアス専用装備というわけでございます。」
「専用、装備…」
「…如何致しましょう?」
「っ!?」
怪しい。この店主さんの微笑は似非臭い。けど、だけど─
(限定品!?しかも、専用装備なんて、そんなの、そんなの…!)
「あの、買います。まとめて、服と武器も、全部、買います…」
「っ!?」
一瞬、背後でエリアスさんが息をのんだような気がしたけど。振り向けない。その代わり、目の前の店主がニッコリ笑って、
「お買い上げ、ありがとうございます。」
「…」
流石、商売人、プレゼン力が違う。
お買い上げ金額は、千とんで二十万になった。
5.越えられない次元の壁
「…あの、散らかってるけど、入ってください。あ、でも、そうだ、その前にシャワー。」
「…」
お店からずっと黙ったまま、背後からついてきたエリアスさん。アパートの二階、自室へと上げる前に、身体を洗ってもらおうと、意を決して振り向く。
「…」
「…」
(…落ち武者?素浪人?)
黒い髪は伸び放題のざんばら。髭も同じく。顔の九割が毛で覆われていて、辛うじて、目の色が蒼だということは分かる。そんな、無頼漢なエリアスさん、問題はそこじゃなくて─
(なんで、布面積増えてないの!?)
流石に、下は黒衣の長ズボンになっているけれど、上は、袖が無くなって、肩まで露出してしまっている。
(いや、でも、首元は詰まってるから…)
プラマイゼロ。首元にデカデカと刻まれている奴隷紋が見えなくなっていることを考えれば、大幅なプラスと考えてもいい。
ただ、肌へのフィット感は確実に上がっている。胸板が─
「…あの、今日のところは、お店で着てた服を部屋着にしてもらおうと思うんですけど、エリアスさんがお風呂に入ってる間に、洗っておくので…」
「…分かった。」
エリアスさんの返事を待って、浴室に案内する。タオル類だけは渡して、その場を素早く逃げ出した。
(うー、洗濯洗濯。)
奴隷商からもらってきた服を洗濯槽に放り込み、洗浄のスクロールを起動する。時間が無いので、贅沢に三本使って。肌着二枚という少なさもあって、秒で終わった洗濯を、今度は乾燥に切り替える。同じようにスクロールを三本使うけれど、熱が上がり過ぎると困るので、慎重に。
(…服、明日、買ってこないとな。帰りは間に合わないから、お昼休みに抜け出して、何とか…。あと、食品関係も…)
ひと一人増えた生活、必要なものを脳内で描きながら、「何とかなりそうだ」という見通しが立ってきた。浴室にいるエリアスさんの姿を思い描いて、妄想する。
(髭とかも。その内、剃ってもらって、髪も、結ぶくらいはしてもらって。…うん、大丈夫そう。)
私、キャラクリエイトも好きだけれど、キャラ育成はもっと好きだから─
明るくなった見通しに、乾いた服を手に取る。背後、浴室が開く音に振り返った。
「あ!エリアスさん、今、服っ…!?」
「…」
「…」
「…」
振り向いた先には、腰タオル一枚で立っているエリアスさん。布面積がもっと減ってた─
(…無理。三次元、無理…)
膝から力が抜けていく。
6.違和感だらけの女 Side E
「…」
「…」
静かに崩れ落ちた女が、無言で服を差し出してきた。受け取り、着込んだところで、女が再び動き出す。
「…あの、エリアスさん、ご飯、食べます?お昼にはちょっと早いんだけど、私、朝、食べてなくて。」
「…いや、いらん。」
「あー、そっかー。…じゃあ、私もいいかなー。」
呟いた女が、フラフラと奥の部屋の扉へと向かう。
「じゃ、あの、私、ちょっと寝るので、好きに時間潰しててください。夕方、起きたらご飯作ります。」
「…分かった。」
「あーあと、服。洗濯槽の使い方って、分かります?分からなかったら、適当にその辺においといてください。起きたら洗います。」
言って、本当に部屋の奥へと消えて行った女。
(どういうことだ?)
想像とは異なる女の態度。とてもではないが、加虐趣味を持つ女の言動とは思えない。
(実際、今も放置されてるしな。)
もし、コレまでが女の趣味、プレイの一貫だと言うなら、最早、自分には遠く理解の及ばない世界。
「は…」
考えても仕方ないこと、女の趣味のことは一旦忘れて、これから先のことについて思考を巡らす。
(予想外だったが、装備が戻って来たのは助かった。)
部屋の隅、自分で置いた服と己の得物を眺める。この二つを手に入れるため、大金を惜しげもなくはたいた女。
(…いや、装備だけではないか。)
女は、己自身のことも躊躇なく言い値で購入した。総額一千万を超える金額を即決する姿に、どこぞのお嬢様、金持ちの娘かとも思ったが、この部屋を見る限り、その線は薄い。
庶民的な暮らしをする年若い女、それが、今のところ、女の素性について分かっていること。女が王宮の文官だというのは推測でしかないが、ただ、その推測が当たっていようと、あの若さであれだけの大金を持っていた説明にはならない。出所は気になるところだが、己は奴隷の身。「時間を潰す」に室内の物色は含まれないだろう。
(…先ずは、当初の予定通り、女に取り入る、か。)
その上で油断を誘い、情報を得る。女の背後に何もなければ、外出許可を得て逃げ出せばいいだけのこと、後はどうとでもなる。
(それまではせいぜい愛想よく、すべきなんだろうがな…)
女に阿るという行為に嫌悪が湧くが、それも任務だと思えば─
取り敢えず今は、女が起きるのを待つことしか出来ない。大人しく、部屋の隅、置かれたソファの上で目を閉じた。
7.仕事のモチベが上がったのは
(…やばい。)
起きたら朝だった。
仮眠のつもりが爆睡、気付けば朝、十二時間以上寝てたってことになる。思わず時計と窓の外を二度見した。交互に。
(ヤバい、エリアスさん…)
見知らぬ場所に連れてこられて、一晩以上放置とか、どうすりゃいんだってなってるはず。
「っ!」
慌てて着替えて、部屋を飛び出した。
「ごめんなさい、エリアスさん!お腹空きましたよね!?何か食べました?」
「…いや。」
ソファに腰かけていたエリアスさんが、のそりと立ち上がる。
「すみません!本当にごめんなさい!朝ごはん、今から急いで作ります!」
「…」
言って、返事を待たずに台所に駆け込んだ。大したものは出来ないものの、鍋に湯を沸かし、保存肉とパンを適当にオーブンに放り込んで温める。コンロとオーブンに魔導スクロールを突っ込んで、独特な起動音が鳴ったところで、今度は洗濯。昨日、洗うと言って洗えていないエリアスさんの服を洗濯槽に入れて、こちらは昨日と同じスクロール三本で回す。その間に野菜を切って鍋に。味付けは固形スープで適当にしてしまったけれど、今日はこれで我慢してもらうしかない。
「エリアスさん、もう出来るので、そっち座っててください。」
「…」
エリアスさんに、二人掛けの小さなダイニングテーブルについてもらい、その前に、スープを並べる。
「パンとお肉は、もうちょっと待ってくださいね。」
言って、洗濯槽に向かう。既に止まっていた洗濯槽に乾燥用スクロールを入れて再起動。後はもう、乾くまで放っておけばいい。
オーブンの中のパンと肉も適度に温まっていたから、これでよしとして、
「お待たせしました。…本当、お腹すきましたよね、ごめんなさい。あの、好きなだけ食べてくださいね。お代わりも、すぐ用意できるので。」
「…いや、これで充分だ。」
言って、スプーンでスープをすくうエリアスさん。口元に運ぶその所作が美しい。
(ああ、でも、髭は剃った方がいいよなぁ。…お手入れセット的なもの?あるのかなぁ。)
エリアスさんの正面に座って、自分もスープに口をつける。
(…食べられないこともないけれど、美味しくもない。)
いつもと同じ食事。だけど、人に食べさせるものではないなと反省する。
(…調味料とかも、もうちょっと買い足さないと。)
それから、と考えながら、エリアスさんの動きに気を取られる。むさくるしい見た目に反して、動きが本当に綺麗なエリアスさん。
「…エリアスさんって、…前職はなんだったんですか?」
「…吟遊詩人だ。」
「ああ!なるほど!」
「…」
「えー!すごい!じゃあ、楽器とか弾けるんですか?」
「…冗談だ。」
「え?」
「…他国で、傭兵の真似事をしていた。」
「…」
(そうだった。)
チラリと、部屋の隅を見る。そこに置かれた大振りのナイフ。武器を持っているし、戦闘奴隷だったんだから、吟遊詩人ってことはないだろう。傭兵ジョーク的なものだったんだろうけど、本気で信じてしまった。申し訳ない。エリアスさんもリアクションに困ったはず。
(いや、だって、エリアスさんが真顔で言うから…)
一瞬の微妙な空気、エリアスさんの方から話を振ってくれた。
「…主人は?仕事は何をしている?」
「あ、え、マスター?…ああ、そうだ、えっと、名乗り遅れてましたが、私、ステラっていいます。えーっと、それで、仕事の方は、王宮の魔導省で働いてます。」
「魔導省?」
「はい。あ、エリアスさん、他の国の人なら、あまり聞き馴染みないかもしれませんね。」
「…ああ。」
「この国って魔法技術に関しては先進国なので、他国にその技術や製品を輸出してるんです。スクロールや組込み機械、後は、それを作る技術者の派遣とか、ですね。」
「なるほど…」
「私も、職場では魔導スクロールを作ってます。」
そう答えて、心が一気に重くなった。
「…ああ、えっと、作るというか、書いてます、スクロール…」
「…作ると書くでは違うのか?」
「うっ。」
私の、突かれると痛いところ。
「…スクロールって、書くだけなら誰にでも、紙とペンさえあれば書けてしまうんです。ただ、魔術を発動させるためには、そこに魔力を込める必要があって、…これが中々…」
「大変なのか?」
「はい。メチャクチャ魔力持っていかれるんですよー、私じゃあ、一日十本が限度で…」
思わず遠い目をしてしまった視界に、壁掛けの時計が見えた。
「あー、もー、こんな時間ー。仕事いかなきゃだー。やだー仕事行きたくないー。」
「…」
いつものように、テーブルに突っ伏して、独り愚痴ってから、ハタと気付く。
「…」
「…」
顔を上げれば、目の前には立派な体格の男性。でも、その男性は今、私の庇護下にある。彼の衣食住から職場環境までの全てが、私に掛かっている。
「…よし。」
「?」
「愚痴愚痴言ってる場合じゃない!稼がなきゃ!」
扶養家族が増えたのだ、頑張るしかない。立ち上がり、食器を下げて、部屋に向かう。着替えを済ませて出てきたところで、エリアスさんが所在なさげに立っていた。
「エリアスさん、私、仕事に行ってくるので、その間、好きに過ごしててください。食糧庫の中のもの好きに食べてもらって、あ、エリアスさんの服、もう乾いてると思うので、洗濯槽から出して着て下さいね。着替えは今日、買って帰ります。えーっと、あとは…、あっ!?」
気づいた。とんでもないことに─
「エリアスさん!?昨日、どこで寝ました!?」
「ソファで、」
「ですよね!?あー!もー!ほんっと、すみません!狭かったですよね!?寝違えてません!?大丈夫ですか!?」
「いや、特に障りは、」
「嘘ですよね!?その長い手足じゃ障りありまくりですよね!?…あーもー、駄目だー…」
本当に、衝動買いなんてしちゃ駄目。寝床の確保なんて、基本中の基本なのに。
(…でも、どうしよう。今日、は無理、だけど、次の休みの日って言っても…。お金も、エリアスさん買っちゃったから、心許ない…)
悩んだところで、既に時間があまり無いことに気づく。
「ごめんなさい、流石に今日ベッド買いに行く時間は取れないので、帰って来てから何か考えます!エリアスさんも、さっき言った以外に必要なものあったら、リストアップしといてください!じゃあ、行ってきます!」
言った後で、「行ってきます」なんて言うの、何年ぶりだろうと思う。思って、口がちょっとニヤけてしまった。
(よし!今日も気合入れて頑張ろう!そして、エリアスさんに高級ベッドを!)
8.無能な部下の使い方 Side K
「…おはようございます。」
「…」
挨拶と共に入室して来た女に、一度だけ視線を送り、直ぐに手元の書類へと意識を戻す。ここ半年の、簡易魔法課における業績一覧。自身の統括する魔導スクロール室の業績が僅かに減少し続けている。
(クソ…)
簡易魔法課の花形である常設や組込みに比べて、魔導スクロール室は毎月の業績が個人の成績に大きく左右される。自室の業績悪化の原因は明らか。全ては、半年前、体調不良を理由に三日も休みを取った無能な部下のせい─
(全く、後れを取り戻させるだけでも一苦労だと言うのに…)
何食わぬ顔で自席に着こうとしている女、ステラへの苛立ちが募る。その感情のままに、女を呼びつけた。
「…ステラ、ちょっと、こっちへ。」
「…はい。」
呼ばれて、女が自席を立つ。こちらのデスクの前に立った女を、上から下まで、じっくりと眺める。
「…」
「…」
(…相変わらず、貧相な女だ。)
細身と言えば聞こえはいいが、肉づきの薄い身体は女としての魅力を全く感じられない。比較対象が、自身が別宅に囲っている女のせいもあるが、これなら、もう十年以上床を共にしていない自分の妻の方がまだマシだとさえ思える。
「…ステラ、君、体調の方はどうなの?」
「はい、だいぶ本調子になってきました。」
「だいぶっていうのは、具体的にどれくらい?」
「え…?」
戸惑う女に、ため息がもれる。
「だいぶ、なんて曖昧な表現で、人に伝わるわけがないだろう?報告は正確に。私が質問をしているんだ、私に分かるように伝えなくては意味ないだろう?」
「申し訳、」
「それで?調子はもう完全に近いということでいいんだな?」
「…はい。」
「だったら、これは、君の怠慢の結果、ということか?」
「え…?」
放った資料を目の前の女にも分かりやすいように提示してやる。
「ここ半年のうちの生産成績だ。君が仕事を放棄した半年前からの。」
「…」
「君が回復傾向にあるというのなら、この成績はなんだ?半年前が底打ちというなら分かる。だが、ここ半年で下がり続けている理由は?」
「…」
黙り込んだ女の顔からは、何を考えているのかは読み取れない。が、恐らく、何も考えていないのだろう。こちらの言うことを、何も理解していない。
(…所詮、その程度の女、ということか。)
目の前の愚鈍な部下は、それでも、入省の際には随分と騒がれた存在だった。齢十にして魔導スクロールを理解する子ども。上も随分な期待をかけていたようだが、結局、神童はただの魔力量の少ない女でしかなく、当初配属されたこの部屋から、一度も他所へ移ることはなかった。
(…私は、違う。)
女とは違い、魔術学院に学び、卒業後は魔導省へストレートで入省、ここまで地道に実績を築き上げてきたのだ。今は魔導スクロール室などという弱小室へ追いやられているが、いずれは、必ず─
「それで?君はこの怠慢の責任をどうとる?」
「…怠慢ではありません。ですが、今はこれが私の限界、精一杯なんです。」
「精一杯?…君は、馬鹿か?誰が精神論の話をしている?半年前、君に出来ていたことをやれと言っているだけだ。それが出来ないというのなら、それは明らかに君の怠慢だろう?」
「すみません。自分では今まで通りに業務をこなしているつもりで、」
「つもり?つもりと言ったのか?」
「…」
「全く話にならないな。…こっちは君のその『やったつもり』にこれからも付き合わないといけないのか?自分を客観視出来ない君に張り付いて?以前の君と何が違うのか、一々、指摘し続ければいいのか?」
「いえ…」
「はぁ…、本当に、君と話すと疲れる…。無能もここまで来ると…」
「…」
「…君みたいなのは、本来、この場に居るべきじゃないんだろうな。…下がっていいよ。話すだけ無駄のようだから。今後は君の生産スケジュールは、私が全て決める。君はそれに従うだけでいい。…それくらいは、出来るだろう?」
「はい…」
頭を下げる女を手で払う。一刻も早く視界から追い出さなければ、頭痛で頭が回りなくなりそうだ。
「愚鈍、のろま、馬鹿、愚図…」
女への苛立ちを言葉にしながら、目を閉じる。
(…スクロールの生産量だけは、何としても回復しなければ。)
簡易魔法課の室長会議での嘲笑や揶揄程度ならば、まだ我慢できる。しかし、これが省長会議の議題に上がるのはマズい。それだけで、己の出世の道が断たれかねない。
(…ゴード商会への払い下げ分を減らすか…?)
そうすれば、少なくとも、生産量の減少は食い止められる。だが、
(今月の返済が滞った状態では、厳しいな…)
金のかかる愛人のため、ゴード商会へのスクロールの横流しを行ったのが三年前。それから常態化してしまったゴード商会への払い下げは、今までは持ちつ持たれつの関係で上手くやってきた。だが、ひとたび金払いの悪くなった客に、ゴードがどういう手段に出るかは知っているから─
「っ!クソっ!!」
デスクの足を思いっきり蹴りつけた。視界の端、元凶の女が身体をびくつかせたことに、僅かながらに胸のすく思いがする。
9.バカな女 Side M
(バカな女。)
朝から虫の居所の悪かったらしい室長に叱責された女が、俯きがちに自席へと着いた。斜め前の席、下げた顔の表情はうかがえないが、どうせ、泣きそうな顔でもしてるんだろう。
(ホンット、バカな女。)
女の惨めさに、顔が笑う。
四年前、魔術学園を成績上位で卒業し、魔導省というエリートコースに進んだ私の前に立ち塞がった女。自分より四つも年下のくせに、その時点で既に四年のキャリア持ちだったステラは、私の指導係だった。四つも年下の、それも、魔導師の成り損ないでしかないただの女に、私が教えられる?あり得ないと思った。
それでも、当時の室長の命令の下、屈辱に耐えながらステラの下で仕事を学んだが、結果、分かったのは、魔導スクロール室の仕事なんて、単調で単純な誰にでも出来る、つまり、自分には全く向かない仕事だということ。
(…そんな単純作業を飽きもせず、毎日、毎日、ホント、よくやるわ。)
今も必死に手を動かす女の前には、スクロールの山がうず高く積み上がっている。それでも、女が完成させられるスクロールは、その十分の一にも満たない。
「…」
「…」
女がスクロールに魔力を込める手を止めた。そのまま、置いてあったスクロールを広げた紙の束を持ち上げて席を立ち─
「…ミリセントさん。」
「…」
席を回って近づいて来たステラ、その声を、一度は無視する。
「あの、作業中、すみません。少し、お時間いいですか?」
「…また?」
ステラの「すみません」を聞いてから、ゆっくりと顔を上げた。
「なに?」
「すみません。この分のスクロールに魔力の注入をお願いしたいんですが…」
「はぁ?またこんなにぃ?」
「…すみません、お願いします。」
頭を下げるステラに、愉悦が込み上げる。以前は、ステラが書いたスクロールを室長が回収した後、余力のある魔導師に魔力注入の作業を回していた。それが、ケートマン室長になってからは、「非効率的だ」という理由で、ステラ自身がスクロールを配分して回るようになった。
こうやって、毎回毎回、頭を下げながら─
「…ねぇ?これってさ、元はステラの仕事だよね?なんで、いっつもいっつも、私がやらなきゃなんないんだろう?」
「それは…」
「ねぇ?なんで?」
「…私の魔力不足で、注入が間に合わないから、です。」
「そうよね?たかが『灯り』のスクロール百本、たったこれだけの量なのに、自分で魔力注入も出来ないなんて、ホンット、室長の言うとおりね?…あなたって無能。」
「…」
「しかも、周りに迷惑かけるタイプの無能だから、最悪。居ない方がまだマシ。」
「…」
ステラが、胸元のペンダント、そのトップになっているクォーツを握り締めるのが見えた。
(魔力の無い人間は惨めねぇ…)
半年前、ステラが連続休暇を取った後から身に着けだしたクォーツ。彼女の首に「精神安定に効果のあるお守り」がぶら下がっているのを初めて見た時は、本気で笑ってしまった。
「…ねぇ、ステラ?あなた、なんでそこに突っ立ってんの?」
「え…?」
「飲み物用意するとかさー、魔導師でもない人間は、何か出来ること探して、雑用でもこなしてればいいんじゃないの?」
「…」
「邪魔、さっさとソレ置いて消えて。」
「…よろしくお願いします。」
頭を下げてスクロールを置き、離れていくステラ。向かう先は自席ではなく、スクロール室の隣にある簡易キッチン。恐らく、本気で飲み物でも作りに行ったのだろう。
(ホンット、バカ。)
思わず、声に出して笑う。戻って来た女が寄越すであろう飲み物など、一度だって口にしたことなんてないのに。
10.危険な兆候 Side E
部屋の主が部屋を出て十五時間、日付が変わろうかという時間になってもその主が部屋に帰ってくる気配はない。
「…遅い。」
食卓の上に並んだ料理は、とうにその温かさを失っている。
(クソッ。…不測の事態だとしたらマズいな。)
窓辺に立ち、窓の外、街路を見下ろす。
女に「好きに過ごしていい」とは言われたものの、「外出許可」の命は出ていない。部屋の外に出る手段がない今、女に何かあれば、随分と厄介なことになるのは間違いない。女を懐柔するために並べた料理も、全くの無為に終わるだろう。
「!」
灯りを点けた部屋の外、窓から望む薄明りの外灯の下を、荷物を抱えて走ってくる女の姿が見えた。
(漸くか…)
帰宅時間を確認していなかった己の甘さを痛感する。見下ろす先、ふと、女が足を止めた。こちらを見上げ、何かに驚くように目を見開いて─
(…何だ?)
笑った─?
しかし、それも一瞬のこと。再び走り出した女が、アパートの一階、窓から見えぬ死角へと消えて行った。と同時に聞こえてきた、階段を駆け上がってくる足音─
「ただいま!すみません、遅くなりました!」
「いや…」
扉を開け放つと同時、転がり込んで来た女の荷物の多さに、思わず手が伸びる。
「あ、すみません!ありがとうございます!あの、コレ、エリアスさんの服です!後で着てみて下さいね!」
「ああ…」
「あ!そうだ、それで、ご飯!ご飯、食べれましたか!?まだなら、今から、」
「いや。食事なら…」
言って、食卓に向けた視線に、女が釣られるようにして視線を向けた。
「っ!?うそっ!?」
「すまん、勝手を、」
「あ!いや!違う!違います!驚いただけで!え!?エリアスさんが作ってくれたんですか!?」
「まぁ、大したものでは、」
「いえいえいえいえ!凄く助かりましたし、凄く嬉しいです!」
「そうか…」
「あ!じゃあ、もしかして、エリアスさんもまだ…?」
「そうだな。」
「っ!?食べましょう!取り敢えず、先に食事を!」
「…」
何をそんなに焦っているのか。荷物の類いをソファに運んだ女が、慌てた様子で食卓につく。
「うわ!凄い!美味しそう!」
「あり合わせで作った。食えないことはないと思うが、味の保証は、」
「大丈夫です!これは、絶対、美味しい!」
「…」
力強く頷いた女がスプーンに手を伸ばし、シチューに口をつける。
「…うわぁ、やっぱり、凄く美味しい。…幸せー…」
「…」
言ったきり、黙々と食べ始めた女に倣い、自らが作った料理を消化していく。
(…言うほどのことは…)
マズいとも思わないが、元が大した拘りの無い自身の舌では、自分で作ったものなど、「この程度」としか思えない。それでも、女が笑って食事を続ける様子を盗み見る。
黙々と続けた食事、女が最後の一口を食べきったところで、口を開いた。
「ごちそうさまでした。…どうしよう、凄く、美味しく、て…、っ!」
「!?」
(何だ…?)
突然、ボロボロと涙を流し始めた女。握った拳で拭おうとしているが、次から次へと溢れ出す涙に、その動きが間に合っていない。
突然の事態を上手く飲み込めず、暫し唖然とする。
「すみ、すみませ、私、私、こんなにご飯美味しいの、本当に、初めて…」
「…何を言っている、本当に大したものでは、」
「だって、でも、帰ってきたら、部屋に灯りがついてて、それで、ただいまって、言う相手が居て…」
「…」
「ご飯も、ご飯まで、私のため、あって、…美味しい、」
しゃくり上げながら、それでも必死に言葉を紡ごうとする女から目が離せなくなる。擦りすぎて赤くなった瞼、唇は嗚咽を堪えるために歪んで震えている。
情けなく、見苦しい泣き顔、そのはずなのに─
(マズいな…)
女の、…ステラの涙の理由に、哀れみのような感情を抱いてしまっている。
(よほど、追い詰められているのか…)
長距離行軍中の部下達が、よくこんな状態になっていたのを思い出す。
(…帰ってくる時間もこの時間だし、な。)
些細な物事に決壊してしまうほどの鬱憤、こうなるまで溜め込んでなお、その膿を吐き出そうとはしないステラに、小さく嘆息した。
呆れと感心と、それから、諦めのため息。
11.完堕ち Side E
「…来い。」
「え?」
立ち上がって呼ぶが、戸惑うだけのステラ。その手を取る。
「…おいで、慰めてやるから。」
「!?」
「どうして欲しい?抱き締めるか?」
「っ!?」
ステラの目が驚きに見開かれ、その顔が徐々に赤く染まっていく。
「あの、慰めてくれるって、あの…」
「ん?何だ?言ってみろ。」
「っ!?…あの、私の、お願いとか、聞いて貰える感じですかっ!?」
「お願い…?」
言って、挙動不審になったステラを見て、そう言えばと思い出す。
(加虐趣味、だったな。)
思い出したが、だが、だからと言って、今さら前言を撤回するつもりはない。
「ああ、何でも言うといい、何でもしてやる。」
らしくもなく、殴られるくらいのことには甘んじる覚悟で、そう口にした。
「…あの、あの、じゃあ、こっち。ここに、座って欲しいです。」
招かれたのは二人掛けのソファ。彼我の身長差が四十センチ近いことを考えれば、己を座らせた方が何かとやりやすいのだろう。
ステラの指示に従って、ソファに腰を下ろせば、
「あ、いや、えっと、足を…」
「足?」
ステラの視線の先、己の足を見下ろす。
「足を、えっと、ソファの上で組んでもらっていいですか?あぐら?みたいな感じで…」
「…」
言われた通り、足を持ち上げ、ソファの上で折り畳む。
「…で?」
「あの、えーっと、それで…」
「いい、言え。何でもしてやる。」
「っ!あの!膝の上に座ってもいいですかっ!?」
「は?」
想定外。痛みを伴う何かを望まれると思っていたのだが、
「…だめ、ですか?」
「…いや、構わん、が…」
「!」
分かりやすく喜びの表情を見せたステラ、膝の上によじ登ろうとするのを、両手を伸ばして掬い上げた。
「っ!?あの!あの!あの!これは!これは、ちょっと違う!違います!」
「違う?何が?」
「抱っこじゃなくて、いや、抱っこなんですけど!向かい合ってじゃなくて!…その、横向き、横向き抱っこでお願いします!」
「…」
その二つに何の違いがあるのかは、正直不明だが、顔を真っ赤に染めて主張するステラの拘りに従う。
膝の上、すっぽりまではいかないものの、小柄なステラが両腕の中に収まった。
「…」
「…」
そのまま固まってしまったステラに、これで満足なのか尋ねようとしたところで、
「それで!あの!ちょっと!ちょっとでいいんで、何か優しいこと言ってみて下さい!」
「は?」
「その、お疲れとか、頑張ったね、とか、偉い偉いとか…、何でもいいので!」
「…」
(なるほどな…)
相変わらず意味は分からないが、ステラが何を求めているのかは分かってきた。見下ろす自分の腕の中で、固く目を閉じているステラ。胸元に下げている石を握り締める手が、小さく震えている。
緊張故か、不安故か─
小さく、息を吐いて、
「…お疲れ様。」
「!」
「…今日一日、よく頑張ったな?…疲れただろう?」
「っ!」
ねだられたから、ではない、心からの労いの言葉を口にする。
ステラの瞳と口元がうっすらと開いていく。
「…ありがとう。」
「…ステラは偉い。よくやってる。」
「…本当に?」
「本当だ。」
「…私、今日は、本当一日、ついてなくて。…上司には怒られるし、同僚は意地悪だし。」
「…」
「折角、仕事のやる気出てきて、今日は一日頑張ろーって気分だったのに、それをあのパワハラ上司、出鼻から挫いてくるんだよ?腹立つー。」
漸く、ステラの口から愚痴めいた言葉が出てきたことに安堵する。抱えているもの、全部、吐き出してしまえと思うから。
「…あと、同僚もね?あ、女の子なんだけど、本っ当、嫌味で、いつまでもネチネチネチネチ。毎日同じようなことばっかり言ってきて…」
「…」
「…それでも、まあ、ね。お仕事だし、お給料もらってるし、振られた分の仕事はきちっとやりたいんだけど。…やってたら、こんな時間になっちゃうし…」
「…」
「…でも、お金、稼がないと…、エリアスさんに、美味しいもの、食べさせて…」
ステラの呂律が怪しくなってきた。瞼も、今にも閉じそうになっている。
「…ありがとう、エリアスさん。…明日から、また、頑張るね…。頑張って…、エリアスさんに…」
「…ステラ?」
「…」
呼ぶ名に、返る返事が無い。反応の無い身体、小さく聞こえてきた寝息に、限界だったのだろう、ステラの疲労の深さを知った。
「…頑張ったな。」
不安になるほど軽い身体を持ち上げて、ソファを下りる。移動にも目を覚ます気配のないステラを彼女の私室へと運んだ。軽くかけた浄化、服のまま、ステラをベッドへと降ろす。
「…」
泣いた目がまだ少し腫れている気はするが、穏やかな寝顔、聞こえる寝息にもう一度、今度は大きく嘆息した。
「…参った。」
自覚する熱が身体に燻る。一瞬で膨らんだ想いが、解放を求めて暴れ続けていた。
12.進化?覚醒?
朝起きたら、イケメンがいた。
しかも、ただのイケメンじゃない。朝ごはんつきのイケメン。イケメンが朝ごはん作ってた。
「…エリアス、さん?」
髭を綺麗に剃りあげ、真っ直ぐな黒髪を襟足で縛っている男の人。綺麗な蒼い瞳が、こちらを見つめてくる。
「おはよう、マスター。…朝食を作った。座ってくれ。」
「…エリアスさん、だ。」
(だって、だって、だって、声が…)
─…お疲れ様
(っ!?)
─…今日一日、よく頑張ったな?…疲れただろう?
(っ!!)
─…ステラは偉い。よくやってる。
「ッファー!!」
「?なんだ、どうした?」
「っ!何でもないですっ!」
脳内で自動再生され始めたボイス。エリアスさんに聞こえていなくても、恥ずか死ぬ。意味はないけど、耳を押さえて脳内ボイスの停止を試みた。元はと言えば、この耳が、こいつらがイイ仕事したせいで─
「マスター、座ってくれ。」
「はい…」
耳を押さえていても聞こえる声に頷いて、自分の席へと着いた。
「…あの、エリアスさん。やっぱり、昨日もソファで寝た、んですよね?」
「ああ。だが、マスターが気にするような障りは本当に無いんだ。もっと劣悪な環境でも寝れるよう、鍛えてある。」
「でも、」
「寝床の話は、夜、帰ってきてからでもいいだろう?…時間がなくなる、先に朝食を。」
確かに、ベッド問題は今すぐどうこう出来るものじゃない。エリアスさんの言葉に甘えて、フォークを手にした。
「…美味しそう。」
「昨日と同じで、味の保証は無いが…」
「いえ、昨日も本当に美味しかったです。」
言って、食事に手をつける。
「…うん、やっぱり、美味しいです。」
「…そうか。」
「…」
(……………………………え?)
今、笑っ、た──?
「っ!?」
「どうした?」
「っ!?」
何か、何、なんだ?
(エリアスさんが変!?え、いや、元から!?元からこんなだった!?)
昨日まではもっとドライな感じ、だった気がするエリアスさん。それが、何故、朝起きたらこんな甘やかイケメンに──?
(あ、いや、でも、昨日、帰って来てからは…)
─…おいで、慰めてやるから
(既に甘かった気がするー!!)
ということは、アレだろうか?昨日は脳みそバンしてたせいで耐えられただけで、エリアスさんは元からこういう感じ?それとももしや、認めたくはないけれど、エリアスさんがイケメンだと認識した途端、「イケメンは何しても」の法則が私の脳内で働いた?
「…マスター、手が止まっている。」
「あ、はい、すみません。」
「謝るな。…朝食を、きちんととって欲しいだけだ。」
「…」
「何故、目をそらす?」
「え…?」
イケメンがこっち見てるから?
(いや、でも、やっぱり、おかしい。おかしい気がする。)
昨日の朝は、こんなじゃなかったはず。目の前のイケメンともじゃもじゃエリアスさんを脳内で結びつけるのは難しいけれど、でも、見た目だけじゃなく、態度が。
「…」
「…」
見られてる。凄く見られてる。パンを取る振りでチラッとエリアスさんを確認したら、ガン見されてた。
(…昨日も、こんなに見られてた?)
ざんばら前髪のせいで見えていなかっただけなんだろうか?だとしたら、エリアスさんには早急に前髪を伸ばしてもらわなければ。
(…昨日だって、あんな欲望さらけ出せたのは、エリアスさんの顔、よく見えなかったおかげだし…)
元から、前世の癒し替わり、二次元が無いなら三次元で我慢しようと思って購入したエリアスさん。顔なんて関係無かったし、こっちがどれだけ欲望をさらけ出しでも逃げられない、拒否できないという意味で、奴隷は最適だと思った。
(…我ながら、ゲスい。)
なのに、エリアスさんは文句一つ言わずに私の欲望を満たしてくれた。ひと一人膝に乗っけるという苦行に耐え、優しい言葉をたくさんくれて、今朝は、朝ごはんまで。
(…しかも、昨日のこと、触れないでいてくれてるし。)
優しさの塊。いい人。いい人過ぎる。そんな人相手に、自分は何て浅ましい願いを─
「マスター、食べながらでいいから聞いてくれ。」
「っ!あ、はい!」
「…俺に、外出許可をくれないか?」
「え?」
「マスターの不在中に、出来れば買い物に出られるようにしてほしい。」
「…」
「…俺の逃亡を危惧しているのなら、追加誓約でも何でも、好きなものをかけてくれて構わない、」
「ちょ、ちょっと待って下さい!エリアスさん、外出できないんですかっ!?」
「…そう、だな。…知らなかったのか?」
「っ!?」
やらかした。エリアスさんは苦笑、って感じだけど、そんな、笑って許されるようなことじゃ─
「っすみません!禁止事項に入ってるってことですよね!?本当、すみません!私の確認ミスです!え!?あ!じゃあ、エリアスさん、昨日ずっと一日家に!?うわー!本当に、ごめんなさい!」
「…いや、外出できないことが不満だというわけじゃないんだ。ただ、食料品なんかの買い出しと、出来れば、マスター、あなたを仕事場まで迎えに行きたい。」
「え!?」
「マスターの仕事は、いつも昨日のように遅くなるのだろう?夜道は危険だ。迎えに、」
「いやいやいや!そんな!心配は全然!今まで一度も、何も、危険な目なんて会ってませんから!」
「…だとしても。…俺が不安だ。」
「!?」
(なんでー!?)
本当、どうした!?エリアスさんに何が!?
(…精神支配、精神汚染系?奴隷契約って、そんなのあるの?)
怖い。
後で、契約書はもう一度読み直そう。
「…それから、マスター、俺のことはエリアスと呼んでくれ。」
「え…?」
「ずっと気になっていたんだが、主人に敬称をつけられるのは、どうにも落ち着かない。」
「…そんなもの、ですか?」
「ああ、頼む。それに、話し方も。出来れば昨夜のように砕けてくれた方が嬉しい。」
「!」
昨夜という単語に自分の痴態を思い出して、赤面する。それでも、エリアスさんは優しく笑うだけ。こちらをからかう空気は微塵もない。
「…じゃあ、あの、私のことも、ステラでお願い。」
「…いいのか?」
「うん。あの、エリアスのこと買った身でこんなこと言うのはアレなんだけど、えっと、エリアスとはそんな感じでやっていきたいというか…」
「…分かった。」
エリアスの笑みが温かい。言葉も。こんな風に嬉しい言葉をたくさんもらえたのって、生まれ変わってからは初めてかもしれない。
(…大切にしよう。)
エリアスとの生活。こんな時間をなるべく長く続けられるように。
その日は一日ポワポワした気分で、仕事が鬼のように捗った。
13.今ここに居る理由 Side E
市場で購入した食料品片手に、家路を歩く。ステラに買い取られてから既に一週間、何となく形になり出した二人の生活、昨夜のステラの姿を思い出して、思わず顔が弛んだ。
就寝前、ソファの上で両腕を広げて見せただけで飛び込んできたステラ。子どもを呼び寄せるような、ペットを相手にしているような感覚だったが、ステラがそこまで気を許してくれるようになったことが単純に嬉しい。
(後は、ステラがいつ気づくか。)
己の起床が早いためステラは未だ気づいていないが、ここ数日は文字通りステラとベッドを共にしている。眠りについてなお、こちらの服を握って離さないステラのため、という大義名分、不可抗力だと抗う気もなく居座って、その寝顔を堪能している。
(起きてバレる瞬間も見てみたいが。)
きっと、あの丸い瞳を更に丸くして驚くであろうステラの姿を想像して、自然、口角が上がった。そんな己の反応をどこか冷静に見ている自分もいて、「危険だ」と警告を発してくるが─
(手遅れ、だな。)
生まれて初めての感覚、浮かれた本能がその危険に突っ込みたくてしょうがないと応えている。
堕ちたのは、初めてステラが泣いた夜。直ぐに無理だと分かった。ステラを放っておけない。己の存在、作った料理一つに泣き出してしまったステラ。最初は庇護欲だったのかもしれない、或いは絆されただけ。それが、気づけば、守って甘やかしてやりたくて仕方ないと思っている。あの危うい均衡を、自身の精神力ギリギリで保っているステラを。
そして、出来るだけ早急に、自分が居なければどうにもならないほどに溺れさせたいとも思っている。決して、逃げられることがないように─
一つ誤算だったのは、どうやら、ステラは本当に男の「顔」には興味がないらしいということ。これでも一応、それなりに女に騒がれ、ついでに執着される程度には整っている自覚のある自分の顔が、ステラ相手には全くと言っていいほど効果がない。
(まぁ、攻略法が見えてるから、問題はないが…)
顔には反応しない代わり、膝の上に抱きかかえて耳元で慰めを囁けば、ステラは面白いくらいに堕ちていく。その容易さが逆に不安でもあるな、と考えたところで、前方に捉えた二人分の人影、足を止めて、物陰に潜んだ。
(何やってんだ、あいつら。)
見知った、けれど、こんな場所には到底居るはずのない二人組。どうやら、あちらはまだこちらの存在に気づいていない様子。一度、自分の服を見下ろす。ステラに買い与えられた服は、奴隷紋が隠れるよう、どれも首元が詰まっていて、この服も、戦闘向きではないが、街中には溶け込んでいる。このまま、姿を見せずに去ることも可能だろうが─
(どうするかな…)
屋根伝いの接近。塀の影から通りを探る無防備な背中が二つ、内、より警戒の薄い、茶色の髪の男の背後に降り立つ。
「っ!?」
「!?」
男が振り返るより早く、その首を腕で締め上げる。振り返ったもう一人、銀髪の男が、驚いたようにその目を見開いた。こちらが言葉を発する前に、腕の中、先ほどから抵抗を続ける男が抑えた声を上げた。
「よせ、離せ!俺達は怪しいものじゃない!」
「…」
「この国で面倒ごとを起こすつもりはないんだ!」
呆れるほど「怪しい」言い逃れに嘆息して、腕を離してやりながら、
「…レド、お前、『この国』なんて言い方をするな。余所者だってわざわざ自白してるようなもんだろ。」
「っ!?その、声…!?」
「あと、相変わらず、上への警戒が甘いな。」
「…副長?」
「っ!?やっぱ!副長!?」
「よぉ。お前ら、何してんだ、こんなところで。」
「ふく、ちょーーーー!!!」
「あー、うるせぇうるせぇ。」
恐らく人目を忍んでいるはずの立場で、あり得ない大声を出す男、レドの叫びを制止する。その横で、銀髪の男、キールが近づいて来た。
「…副長こそ、何故このような場所に?…我々は、副長を捜索中で…」
「捜索?…指揮官は誰だ?団長が動いてるのか?」
「あ、いえ…」
「俺ら、休暇中なんっす!個人的に副長を探して!んで、ここまで来てやっと!ふくちょーーー!!!」
「止めろ。抱きつくな。…個人的にって、あの人の許可は?」
張り付いてこようとする鬱陶しい身体を押しのけて、キールに尋ねる。
「団長の許可はとってあります…というより、団長からも頼まれていて…」
「…個人的に、ってやつか。」
「…はい。」
一応、身内には許可を取った上での退団とは言え、表向きは出奔したことになっている己の古巣。そのかつての仲間、部下達が、まさか、こんなところまでおっかけてくるとは─
「副長ー、帰りましょうよー。あのお嬢様、もう結婚決まって、婚約までしちゃいましたしー。」
「…団長も、副長の座を空けて待っていらっしゃいます。」
「と、言われてもな…」
上層部からの命令、断れない見合い話から逃げ出すため、団を捨てたのは事実。団長以下、部下や仲間達に迷惑をかけないため出奔という形をとった自分は、本来なら不名誉除隊であって然るべきなのに─
(…本当に、あの人は。)
これまで散々、世話になった己の上司、その恩に、一生かけて報いるつもりで生きてきたが─
「…まぁ、そのうちな。」
「えっ!!??」
「…お戻りにならないんですか?」
「気が向いたら帰る。…団長にもそう伝えといてくれ。」
「な、なんで!?なんでっすか!?」
「あー…」
路地の隅、置きっぱなしにしていた食料入りの袋を持ち上げた。
「…帰って、飯、作らないといけないんでな。」
14.惨めな女 Side M
「はぁ?」
魔導省の食堂、一緒に昼食をとっていた他部署の友人の言葉に、思わず聞き返した。
「…嘘でしょう?あり得ない…」
「ホント、ホント。管理課の子が見たんだってさ。彼氏にお迎え来てもらってるんだって、あの子。」
「あ。ソレ、私も聞いた。なんか、毎日?来てるらしいよ、お迎え。」
「そ。しかも、その彼氏っていうのが、超イケメンなんだって!」
「…」
(あり得ない。)
噂になっているという「あの子」、それが本当にステラのことなのか、むしろ、他の誰かと見間違えられている可能性の方がよっぽど高い。それでも、神経をザラつかせる「噂」の内容に、その真偽を確かめずにはいられなかった。
絶対に、あり得ないと思いながらも─
深夜、日付の変わる一時間前、時間を潰すために持ち込んだ書籍を読み終わっても未だ終わらない女の仕事に、いい加減痺れを切らしていたところで、漸く仕事を終えたらしい無能女が帰り支度を始めた。こんな時間まで仕事を終えられない無能っぷりに、何度、怒鳴りつけたくなったか。
(これで何も無かったら、ただじゃおかない。)
くだらない噂を生んだ原因が何なのか、その正体を確かめるため、部屋を出ていく女の後を追った。次第に速足になる女を追いながら、嫌な予感が膨らむ。
(…なに?何をそんなに急いで?)
小走りになった女との間に距離が広がる。
(ああ!もう!)
馬鹿らしいことをしている自覚があるから、余計に腹が立つ。絶対に、何もない。女が駆けて行った先、魔導省の正門、それを走り抜けて周囲を見回す。見渡した先に見えたものに、猛烈な怒りが湧いた。
「っ!?」
(あの女っ!!)
街灯の下、ステラが男と立っていた。しかも、職場では見せたことの無い笑みまで浮かべて─
(馬鹿にしてんのっ!?)
男も、ステラを見て笑っている。遠目にも、端正な顔をした男。その手が、ステラの頬に触れて─
「っ!!」
いつも、下を向いている陰気な女、見た目も能力も、何もかもが自分に劣る下等な存在が、男に触れられて笑っている。
(あり得ないっ!)
「っ!ステラっ!!」
「!」
腹立ちのまま、女の名を呼ぶ。振り向いた顔が驚愕、それから、恐怖に移り変わっていく様に、少しだけ、腹立ちが治まっていく。
(そうよ。あんたに似合うのはそういう顔。)
込み上げてくる笑いを押し込めて、二人へと近づいた。
「ステラ、あんた、」
「…」
言いかけた言葉を飲み込んだ。ステラを庇うようにして立ち塞がった男の姿に、呆然となる。
(…嘘、凄い、なに、この人…)
薄明りの下でも分かる、整った目鼻立ち。堕ちていってしまいそうな神秘的な蒼の瞳、それが、こちらをじっと見つめている。物言わぬ時間に、束の間、心と心が触れ合ったような気がして─
「…ステラ、帰ろう。」
「っ!?」
不意に逸らされた視線、男がこちらに背を向ける。
「待って!」
「…」
反射で呼び止めた。なのに、男がこちらを振り返ることはなく─
「っ!待って!あなた、騙されてるわ!」
「…」
ステラの背を押して歩き出した男に、必死に言葉を探す。
「その女!あなたを騙してるのよ!」
「…」
「あなたに何て言って取り入ったの!?自分は魔導師だって?魔導省勤めだって?」
「…」
「そんなの、全部嘘だから!その女は、ただの雑用、魔導師なんかじゃない!あなたみたいな人が相手するような、」
「…黙れ。」
「っ!?」
振り返った男のたった一言に、身がすくんだ。怒鳴られたわけではない、押し殺したような声、なのに、一瞬、刃物を向けられたような恐怖が─
「…ステラをそれ以上貶めるな。…殺したくなる。」
「っ!?」
吐き捨てられるようにして告げられた言葉に、また、言い様もない恐怖に襲われた。
「っ!」
それを認めたくなくて、必死に言葉を探す。何か、この女の本性を晒す何か。
対峙する男を見つめて─
「っ!あなた、まさか!?」
「…」
気が付いた。異様な魔力の流れ、その発生元である男と、ステラを繋ぐ魔力の結びつき。
「あなた、奴隷なの!?」
「…」
「っ!」
小さく、息をのむ気配がが、男の背後から聞こえた。
(やっぱり!)
顔が、愉悦に歪む。自然、口から笑いが溢れ出した。
「アハハハハハ!信じらんないっ!あんた、まさか、男に相手されないからって、奴隷、買ったの!?」
「…」
「おかしいと思ったのよ!あんたみたいなのが男に相手されるってだけでもあり得ないのに、こんないい男連れてるわけないものね!」
可笑しくて可笑しくて、笑いが止まらない。
(すごい、こんなあり得ないくらい惨めな人間が居るなんて!)
見た目も悪い、仕事も出来ない、誰からも相手にされずに行きついた先が、お金で買った見栄だなんて─
「…ステラ、行こう。」
「待ちなさいよ。」
再び歩き出そうとした男を呼び止める。
「…」
「何?何か文句があるの?」
振り返った男の圧。腹が立つことに、未だ恐怖は感じるものの、これが見せかけのものに過ぎないことは既に分かっている。
「奴隷は、人間様を傷つけちゃいけないの。分かってるわよね?」
「…」
元が犯罪者だか借金漬けだかは知らないけれど、奴隷なんてもはや同じ人間とも言えないような存在。それが、人間、しかも、魔導師相手に何が出来るというのか。
「ふーん?やっぱり、あなた、見た目はすごくいいのね。」
「…」
男を値踏みし、その背後に居る女に告げる。
「決めたわ。ステラ、あなた、この奴隷、私に貸しなさい。」
「貸すっ!?」
悲鳴のような声。ここに来て初めて口をきいた女が、男の前へと飛び出してきた。
「貸しません!エリ、…彼は、貸すとか貸さないとか!モノじゃないです!」
「ものよ。だって、あんた、買ったんでしょ?コレ。」
「っ!?」
「何?買った本人がモノじゃないなんて偽善者面するわけ?ハッ!オメデタイ頭。それとも何?その奴隷に良い恰好でもしたいってこと?自分が買っておいて?」
「っ!」
言い返せなくなった女の滑稽さを笑う。
「どう言いつくろおうと、あんたは奴隷を買った。モノとして。」
「…」
「…まぁ、だからって別にそれをどうこう言うわけなじゃないわ。私が言ってんのは、その奴隷を貸せってこと。そうね、取り敢えず、ひと月くらいかしら?もし、気に入れば、私がもらってあげるから、」
「貸しません。」
「はぁ?」
「…帰ろう。」
女が、奴隷の袖を引く。
「っ!待ちなさいよ!何を勝手に、」
「ステラ、命じろ。『直ぐに連れて帰れ』と言え。」
「え…?」
「ちょっと、あんた達、」
「っ!『連れて帰って、今すぐ』!」
ステラが叫ぶと同時、奴隷の男がステラを抱えあげた。
「ステラ、口閉じてろ。」
「なっ!?」
そのまま、信じられない速さで走り出した男、闇夜に消えていくその姿を成す術なく見送った。
「っなんなのっ!?」
信じられない。ステラに、あんな女なんかに抵抗された。しかも、逃げ出すという形でこちらを出し抜くなんて─
(っ!許さないっ!)
絶対に、許さない。ステラも、あの奴隷も。逃げ出したことを絶対に後悔させてやる。そうでなければ気が済まない。叫び出したくなるほどの怒りを、思考を切り替えることで何とか抑え込む。
(大丈夫、どうせ、あの女に逃げ場なんてない。)
ステラなんて、己の下僕。今、逃げ出したところで、どうせ明日には自分に頭を下げに来る。そうしなければ、あの女は仕事一つまともにこなせないのだから。
(大丈夫、明日は、必ず…)
怒りを原動力に、明日以降の対応を考える。先ずは、ステラにきちんと、自身の立ち位置を思い出させて、それから─
「…そうね。やっぱり、あの奴隷にも相応の報いは受けてもらわなくちゃ。」
下僕の所持する奴隷。真の主人が誰であるのかを分からせ、二度と、反抗心を持たないように躾直す必要がある。
(…そう思うと、案外、楽しめるかも。)
あの冴えた無表情が屈辱に歪む様を想像して、笑いが零れた。
15.そうだ、バックレよう
(どうしようどうしようどうしよう…)
グルグルと、その言葉だけが思考を犯す。エリアスに抱えられてたどり着いた自宅、部屋の中を歩き回りながら、冷静になろうとしているのだけれど、焦りと恐怖で上手くいかない。
「…ステラ。」
「!」
呼ばれた名にハッとする。振り返れば、エリアスが困ったような顔でこちらを見つめて立っていた。
「…おいで。」
「!」
誘われるままに、その腕の中に飛び込んだ。硬い身体を抱きしめる。さっきまで、ずっと触れていた温もり。その温かさに包まれて、恐怖が少しずつ薄らいでいく。
(大丈夫、ここに居れば大丈夫…)
遠ざかる恐怖に、焦りは残るものの、漸く思考が回り出した。
「…エリアス、ごめんなさい。嫌な思いさせちゃった。…私が、お迎え頼んだから。」
「何故そうなる。迎えに行きたいと言ったのは俺だろ?」
「うん。でも、嬉しかったし、…エリアスと一緒に居られるの。」
「…」
「…エリアス?」
急に腕の力が強まった。不思議に思ってエリアスの顔を見上げようとしたのだけれど、片手で頭を抑え込まれる。
「…すまん。今は見るな。」
「え?」
「…触りがある。」
「…なるほど?」
よく分からないけど頷いておいた。そのまま、思考がまた先ほどの「どうしよう」へと戻っていく。
(エリアスのこと、バレるなんて思わなかった…)
ミリセントが職場に残っていることを不思議に思っていたし、エリアスと一緒のところをなるべく見られたくないとは思っていた。それでもまさか、声まで掛けてくるとは思わなかったし、エリアスが奴隷だということを見抜かれるとも思っていなかった。
(魔導師としては、やっぱり、すごく優秀…)
エリアスの奴隷紋は服の下で見えない。それをあんな一瞬で看破されたのは、ミリセントに魔力を視る目があるから。
(失敗した…)
結局、そこに行きつく。油断して、失敗して、追い詰められてる。
(どうしよう…)
これが、ただ、「奴隷を買った女」と嘲笑されるだけならいい。いつもの嫌味に一つバリエーションが加わったくらいのもの。だけど、エリアスを「貸せ」と言ったミリセントの顔、あれは本気だった。
(…断っても、諦めない、よね。)
エリアスを見ていたミリセントの視線、表情、それらが彼女の執着を現している。
「…どうしよう…」
「ステラ?」
「…」
優しい声で呼ばれて、上を見上げる。優しく笑ってるエリアスの顔。
(これを、この人を、取られちゃうの?ミリセントに?)
この優しい腕も、温かさも、私を「ステラ」と呼ぶ声も、「頑張ったな」と励ましてくれる声も、「偉い、よくやった」と褒めてくれる声も、全部、全部、無くなっちゃうの─?
(そんなの、無理…)
うん、無理。どう考えても無理。
それが分かったら、「どうしよう」に対する自答は簡単で─
「…そうだ、バックレよう。」
「ステラ?」
天啓だった。
いや、でも、だって、それしかない。それが正解なんじゃないだろうか。だって無理だもの。
明日、仕事に行ってミリセントに会えば、きっとエリアスのことを要求される。そんな職場、行きたくない。それに、もし、私が仕事で帰れない間に、ミリセントが家に押しかけてきたら?
(無理無理無理。)
エリアスを連れて行かれるかもしれない恐怖に震える。
今まで、「仕事」だからと頑張って来た。理不尽だと思いながらも、辞めたいと思いながらも、それでも、漠然と「仕事から逃げ出すのはよくないんじゃないか」って。
(…でも、別に、よくない?)
だって、仕事に行ったら、エリアスを盗られる。だったら、行かなくていいと思う。
(よし、逃げよう。)
家も出よう。職場の人達に見つからないところへ逃げないと。だって、きっと探される。探して連れ戻されるくらいには、多分、私は必要だから。
(すごく、迷惑掛けるよね…)
分かってる。なのに、バックレることに対する罪悪感はビックリするくらい無かった。
だって、そんなものより、エリアスの方が遥かに大事─
「…エリアス、私、エリアス連れて逃げるね。」
「…どこに?」
「考えてない。けど、この国からは出るつもり。」
そうでないと、腐っても魔導省勤め。きっと、見つかってしまう。
「…ステラ、以前、話したよな?俺が他国出身だという話。」
「あ、うん。そうだったね。」
「俺は、ロート出身なんだ。」
「ロート、お隣なんだ。」
「ああ。…ロートなら、土地勘もあるし、生活の基盤も整えてやれると思う。…どうだ?逃げるなら、俺とロートに、」
「行く!!」
即答した。
エリアスと一緒ならどこでもいいけど、それがエリアスにとっての故郷ならもっといい。頷いて、ギュウギュウ抱きついて、早く、この胸に圧し掛かる不安がなくなればいいのにと思った。
16.逃げ出した負け犬 Side M
「えー!?うっそ!?奴隷!?」
「何それ、男をお金で買ったってこと?」
「そ。まぁ、男って言うより、玩具?男の居ない寂しさ紛らわせるために買った玩具を、皆に見せびらかしてたってわけ。」
「うわー、イタイー!」
昨日と同じ場所、同じ時間帯、話題になったあの女の「噂」の真相を告げれば、同様の驚きと笑いを浮かべる友人達。
「ちょっと、流石にそれは引く…」
「でしょ?まぁ、本人も、一応、その辺の自覚はあったみたいで、アイツ、今日、仕事サボってんの。」
「わー!二重で引くー!」
「見栄張ってたのバレて仕事休むとか、子どもかって話でしょ?」
「あー、でもあるかもよ。ほら、あの子って、子どもの頃からここ居るんでしょ?その辺の常識っていうか、社会人としての感覚無さそー。」
「あー、ね!あるかもね、それ!」
「はぁ、もう、ホンットやってらんない。そのしわ寄せがこっちに来るとか、あの女、全然、分かってないの。…今日、残業、確定。」
「あはは。ご愁傷様ー。」
「頑張れ!」
友人達の適当な慰めに笑って、席を立つ。今日は本当に時間が無い。残業も確定だけれど、仕事上がりにはステラの家へ直接出向かなくてはいけないから。
(閉じ籠ってれば逃げられるなんて、甘いのよ。)
引きずり出して、先ずは今日のサボり分の謝罪をさせよう。それから、昨日の奴隷、あの男を連れて帰って─
(…楽しみ。)
脳裏に浮かぶ蒼穹の煌めき、あの瞳に見つめられるところを想像するだけで、身体が疼いてしょうがない。あの奴隷もすぐに理解するはず。あんな女よりも私の方がずっと─
「…室長?」
「っ!?…なんだ、ミリセント君か。」
「はい。えっと、室長は何故こちらに?」
仕事上がり、訪れたステラの自宅。調べた住所は、狭小なアパートメントが立ち並ぶ一角、その内の一つ、二階への階段を上がったところにその人は居た。
「あ、もしかして、室長もステラの今日のサボりについて注意をされに…?」
「…ミリセント君もか?」
「はい、そうです。…一応、一番、歳が近いですし、私の方から一言注意しておくべきかと思いまして。」
「なるほどな。…だが、まぁ、面倒なことに、その注意すべき人物は不在のようだ。」
「え?…留守なんですか?居留守ではなく?」
「ああ。…探知も使ってみた、間違いない。」
(探知…)
男の言葉に少し驚く。他人の部屋の中を探知することは、盗聴などと同じく犯罪行為。露見すれば、それなりにマズい事実を平然と─
(まぁ、でも、相手が部下、しかも、あのステラだから問題無いのか。)
「…ミリセント君は、この後どうする?」
「え?」
「私はもう帰るつもりだが、君は?」
「…そう、ですね、私は少しここで待ってみます。」
どこかに逃げているにしても、夜、寝るためにはここに戻ってくるしかない。だったら、待ち伏せするのも悪くない。追い詰められたあの女がどんな顔を見せるか─
「…そうか、分かった。…では、ステラを捕まえたら、明日は必ず出勤するように伝えてくれ。」
「分かりました。」
頷いた男が、すれ違い、階段を下りていく。
「?」
(なんだろう?)
男の雰囲気に違和感を覚える。いつもは傲慢な自信にあふれた男が、今日はやけに力なく見えた。
17.焦燥 Side K
(クソクソクソッ!)
仕事を途中で切り上げてまで訪れた部下の家、不在だと分かった瞬間、その家の扉を蹴り上げていた。幸い、響いた鈍い音に近所の者が顔を出すでもなく、ただひたすら、女の帰りを待ち続けていた。結局、現れたのはステラではなくミリセントだったが、ステラの捕獲を任せ、あの場を離れることは出来た。問題はこの後、どう動くべきかなのだが─
(クソッ!あの無能が!一体、何を考えているっ!?)
ただでさえ追い詰められている状況、昨日までの生産ノルマは何とかギリギリこなしているものの、今日一日でまた一気に進捗が後退した。おまけに─
「っ!?」
「…」
視界の先に現れた男、建物の陰、しかし、こちらがはっきりと視認出来る位置に立ち、じっと見つめて来る。
(っ!マズい…)
危険な前触れ、だが、それを無視すれば、危険は更に増す。陰鬱な男の方へと進路を変え、歩き出した男の後を追う。追った先の路地裏、果たして、現れたのは予想通りの男で─
「お久しぶりですね。ケートマン室長。」
「あ、ああ。」
押し出しがいい商人然とした姿の男、正確な年齢は知らないが、恐らく四十代、自分とそう歳の変わらないはずの男の眼光にひるむ。
「お久しぶり過ぎて、我々の取引についてお忘れではないかと思い参上致しました。…それで?お約束のものは?」
「っ!すまない、まだ、もう少し時間を、」
「おや?確か、先日、お伺いした部下が同じようなお返事を頂いたと記憶しております。その、一週間前にも。…これは一体どういうことか、お伺いしても?」
「すまない!決して、出し惜しみをしているわけではないんだ!だが、部下が仕事をサボり勝ちで、正規の納品も間に合っていない状況で、」
「そうですか。部下の方が。」
頷く男の理解を得て、勢い込む。
「!そ、そうなんだ!だから、」
「それは、勿論、部下を使いこなせいない無能な上司の責任、ということでよろしいのですよね?」
「っ!?」
「スクロールのご提供を頂けないのであれば、お貸ししている三百万、きっちり耳を揃えてお支払い頂くか、もしくは…」
男の眼光が鋭くなる。口元に浮かぶ冷笑に背筋が凍った。
「っ!明日!明日までに!必ず明日までに用意する!だから!」
「おやおや。これは、有難いお言葉ですね。明日まで。確かに、お約束を承りました。…私との一対一でのお約束、違うことなきよう、よろしくお願いいたしますね。」
「わ、かった。必ず…!」
最後に、薄く笑った男が背中を向ける。そのまま、街灯の光の外、夜の闇に消えていく後ろ姿を見送った。
「っ!クソっ!」
毒づいてみても、心の重荷は少しも減らない。張り付いたままの焦燥感、路地裏を出て、大通りへと向かう。脳裏に浮かぶのは女の笑みと柔らかな肢体、馴染んだ温もりに包まれれば、この不安もきっと─
18.逃亡 Side E
「え!?ダ、ブルですか!?ツインじゃなくて!?」
ロートへの国外逃亡への途中、宿の受付で悲鳴を上げるステラに内心の笑いをこらえて、表情を取り繕う。
「…ダブルでは不満か?ロートまではまだかなりの距離がある。費用を抑えるという意味ではダブル、…譲歩してシングルをとるべきだと思うが…」
「譲歩してシングル!?」
「ああ。まぁ、何とかなるだろう?」
ステラは未だに気づいていないが、ステラの部屋での実績もある。より密着できるという意味では、シングルが最適だとは思うが、
「ダブルで!」
「…分かった。」
実際、譲歩なんて一切していない選択肢、混乱しているステラは気づいていないのか、案外、あっさり共寝を認めてしまった。目が泳ぎっぱなしの姿に込み上げる笑いは全てのみ込んで、
「…安心しろ。」
「っ!?」
耳元に落とした声、反射で伸びたステラの背に触れる。
「俺はお前の奴隷だ。お前の望まないことはしない。」
「っ!!」
「…望めば、何でもしてやる。」
「っ!?っ!?っ!?」
両手で耳を押さえたステラがこちらを振り仰ぐ、羞恥のためか、真っ赤に染まった顔で睨まれても、劣情を煽られるだけ。
結局、堪え切れずに笑いが零れた。
「っ!?」
「…ステラ?」
「っ!!っ!!」
「?」
何が彼女に止めを刺したのか、半泣きになりながら、何も言わずに逃走したステラ。借りた部屋の鍵を握り締め、二階への階段を駆け上がって行く。
(…やり過ぎたか?)
こちらの言葉一つ一つに反応するステラが面白くて、止め時を見失ってしまった。これはもう、部屋からの締め出しもあり得るなと思いながら追いかけた二階、部屋の扉はあっさりと開いたが─
「…ステラ?」
「…」
「何をしている?」
籠城先が見つからなかったのか、寝台の上に座り込み、頭から掛布をかぶるステラのうかつさに、多少、呆れながらも、その隣に腰を下ろす。
「…ステラ、悪かった。…顔を出してくれ。」
「無理。…今、心頭を滅却してるところだから。」
「いつになったら、顔を見せてくれる?」
「…エリアスが、半径一メートルに近づかないでくれたら。」
「それは、難しいな…?」
言って、ついでにステラを掛布ごと抱き込んでみた。腕の中、身を震わせたステラの柔らかさを堪能しながら、今後についてを口にする。
「…まぁ、じゃあ、このままでいいから聞いてくれ。」
「…」
「このあと、少し出て来るから、」
「なんでっ!?」
弾かれたようにこちらを見上げてくるステラ、弾みで掛布が落ちた。すがる視線に見上げられて、身の内が震える。
「…逃走資金が心もとないだろう?」
「それは…」
「その辺りで雑用でもこなして資金を稼いでくる。ロートまではまだ多少、距離があるからな。」
「…」
ステラの手が、こちらの服を握り締める。不安ゆえか、震えている指先を包み込んだ。
「…安心しろ、直ぐに戻ってくる。」
「…やだ。駄目。…だって、もし見つかったら…」
「追っ手がかかるにしても、まだ猶予はある。それに、追われるなら俺ではなくステラの方だろう?俺なら、」
「ダメダメ!だって、ミリセントに見られてるんだよ!?人目のあるところで働くなんて、絶対ダメ!」
「…それは、命令か?」
「っ!」
問いかけに、途端、ステラが黙り込んだ。どうやら、隷属、一方的な支配による命令に忌避を感じているらしいステラは、己の身を買っておきながら、決して「禁じる」ことをしようとしない。
(…「許可」系統の命令は全て出したのにな…)
おかげで、ステラを害する以外の大抵のことはステラの命なしで行えるようになってしまった。今ならば、ステラの元から逃げ出すことさえ容易い。これでは「奴隷」の意味などない気がするのだが─
「…命令、じゃなくて、お願い。…行かないで。」
「…分かった。」
泣きそうな顔で言われてしまえば、それ以上を乞うことは出来ずに嘆息する。
それでも、
(…早く、堕ちてこい…)
矜持も正義も何もかもを投げ捨てて、ただ己だけを求めるステラが見たい。
19.卑怯だと思う
(…でも、実際、お金、逃亡資金は要るよね。)
ということで、防音効果の全くなかった上掛けとエリアスの腕の中から抜け出して、ベッドを下りる。
「…ステラ?」
「うん、あの、逃亡資金、稼ごうかなーと…」
「?」
オフィスワークの強み、外に出ることなく仕事が出来る。荷物の中から、DIY用の巻紙と持ち運び用の羽ペンを取り出した。
「スクロールをいくつか作って売れば、少しは稼ぎになるはず。」
「ここで作るのか?」
「うん。言ったでしょ?紙とペンさえあれば、書けちゃうって。…ごめん、ちょっとの間、集中するね。」
「分かった…」
エリアスの返事を聞きながら、備え付けの小さなテーブルの上に巻紙を広げていく。
(作るなら『灯り』が無難、かな?)
灯り用のスクロールなら、王都から離れた場所でも日常的に使われているため需要がある。
(それに、『灯り』なら、十本くらいはイケるから。)
魔力量の問題で、残念ながら大量生産というわけにはいかないけれど、それでも、四、五万の稼ぎにはなるはず。
(…よし。)
気合を入れて、ペンを取る。集中して、一気に書き上げた『灯り』のスクロールは十枚、それに魔力を流し込んでいきながら気が付いた。
(あれ…?)
スクロール十枚に魔力を流し込んだ後でも余力がある。試しに、もう十枚スクロールを書いて魔力を流し込んでみれば、ちょうど十枚目を流し込み終わったところで、魔力が尽きるのを感じた。
(…魔力が増えてる、ってことはない、よね…?)
成人後も魔力量が増えるという話は聞いたことがない。微増することがあったとしても、単純に考えて二倍になる可能性はほぼゼロ。
(…何で?)
理由が分からずモヤっとはしたけれど、二倍に増えたところでスクロール二十枚分では誇れるほどの魔力量ではないので、その問題は放置することにした。
「エリアス、あの、これ、魔道具屋さんとかに持ち込みしようと思うんだけど…」
「『灯り』か?」
「うん、そう。なるべく人目につかないようにしたいから、私一人で、」
「駄目だ。」
「…」
先ほどとは逆の状況、こちらの作業を邪魔しないためか、離れた距離に立っていたエリアスが急に距離を詰めてきて、
「手配されるなら、ステラ、お前の方だと言っただろう?」
「…けど、でも、エリアスの方が目立つし、私なら没個性だし、」
「駄目だ。」
「…」
自分の容姿に自覚がないのか。こんなイケメンがその辺フラフラしてたら目立ちまくりだと思うのに、エリアスは怖い顔をして譲ろうとしない。
にらみ合うこと暫し、
「…ステラ…」
「っ!?」
エリアスが両肩に手を置いて、耳元、唇が触れそうな距離まで顔を寄せ─
「…頼む。」
「っ!」
「…俺に行かせてくれ、な…?」
「っ!?」
「…お願いだ、イッてもいいだろ…?」
「っ!?分かりました!お願いします!!」
緊急退避、両手に掴んでいたスクロールの束をエリアスに押し付けるようにして、距離を取った。
「…ありがとう。」
「っ!!」
スクロールの束を受け取ったエリアスが、楽しそうに?嬉しそうに?笑って、
「直ぐ戻る。…大人しく待ってろ。」
「…」
言って、颯爽と扉の向こうに消えていったエリアスを唖然と見送った。
(何で、何で、あんな…!)
今、絶対、顔が赤い。心臓、バクバク言ってるし、うぎゃあって身もだえしたいし、とにかく─
(卑猥!卑猥に過ぎる!!吐息多めの『お願い』はズルいと思う!!)
20.瀬戸際 Side K
呼び出された部屋、魔導省のトップに立つ男の執務机の前に立たされ、長い沈黙に耐える。資料を片手に、もう片方の手で机の上を指でコツコツと叩く己の上司は、こちらに視線を向けようともしない。入室許可の一言以外には、一切、口を開くこともなく─
「…ケートマン、君、今日は何故呼び出されたか、理解してる?」
「…はい。魔導スクロール室の生産実績に関する不振が原因かと、」
「分かってるんだ。分かってて、何もしなかったの?」
「っ!」
己よりも一回り年下、その才のみで魔導省のトップ、長官にまで上り詰めた男の視線に、上手い言葉が出てこない。凪いだ言葉、態度にも、何故か恐怖を感じて、嫌な汗が流れた。
「まったく…、本当、意味が分からないんだよね。一体、君のところ、何があってこんなことになってるの?」
「っ!申し訳、ありません、体調不良で勝手に休みを取った部下がおりまして、生産が間に合わず、現在、他の者達で対応しているところなのですが…」
「何人、休んでるの?」
「は?」
「生産間に合わないほど休んでるって、大概だよね。何人、欠勤が出てるの?」
「…一名、です。」
「…冗談だよね?」
「…」
冷たい瞳にヒタと見据えられて、言葉に詰まる。だが、実際、休んでいるのはステラ一人、そのことは誤魔化しようもなく、答えあぐねれば、男が深いため息をついて、
「それから、問題は生産性のことだけじゃないからね。」
「…と、おっしゃいますと?」
「なに?ひょっとして、そっちには気づいてもなかったってこと?」
「…」
言われる言葉の意味が分からず、焦燥に駆られる。
(まさか…)
露見してしまったのだろうか─
ゴード商会への横流し。正規品の生産が間に合わない状況下で行った裏取引に、まさか─
「魔導スクロールの質がかなり下がってる。」
「え…?」
「…本当に気づいてなかったみたいだね。スクロール室では、製品テストも行っていないの?」
「…」
今まではステラが担当していた製品テスト、正直、今は時間がなく、テストなど行わずに納品している。しかし、それは、製品テストで弾かれるスクロールなど殆ど存在しないため。数千本に一本あるかないかの不良品の洗い出しなど省略しても問題ないと判断したからだ。それが─
「…質が落ちている、というのは?」
「スクロールが起動しない、起動しても数分で切れる。王宮内からそういう苦情が上がってきている。王宮内だけでこれだけあるのだから、市場に出ているもの、他国への輸出分にも影響しているはずだよ。」
「…」
「今のところ、他国からに関しては何も言ってきてはいないけれど、…分かっているよね?」
「はい…」
「今後、これらの問題が是正されないようなら、うちは君を切る。」
「っ!?」
「その覚悟の上で、業務改善に当たるように。…話は以上、もう帰っていいよ。」
「…」
嫌な音を立ててなる心臓、眩暈がするような感覚に、それでも何とか頭を下げ、部屋を出た。
(…クソッ…!)
最悪だ。築き上げてきたもの、足元が揺らぐ恐怖を振り払い、スクロール室への廊下を急ぐ。原因は間違いなくあの女、だが今は、あんな女に拘っている場合ではない。今は、一刻も早く、目の前の問題を片付けてしまわねば─
21.理不尽 Side M
「ミリセント君っ!!」
「…はい。」
部屋に戻って来るなり大声で呼びつけて来た上司にうんざりしながら立ち上がる。ただでさえ時間が押している。今日もまた残業が確定しているという状況で、無駄に過ごす時間ほど腹立たしいものはない。胸中の怒りを押し込めて、こちらを睨む男の前へと立った。
「…進捗を報告しろ。」
「…本日作成分の五割が完了しています。残り半分、…就業時間内での作成は難しいと思いますので、三時間ほど残業する予定です。」
「…」
黙って見上げて来る男が、顎で、こちらのデスクを指す。
「持ってこい。」
「は?」
「君の作成したスクロールだ。…確認するから、持ってこい。」
「…」
(…馬鹿馬鹿しい。)
上司の不機嫌の理由は、間違いなく、ステラの失踪にある。あの女が全ての責任を放棄して逃げ出したせいで、自身は過剰な業務に追われているし、スクロール室自体もどこかギスギスしている。責任者である男が不機嫌になるのも分かるが、自分を呼びつけ、叱責したところで事態が好転するはずもないのに─
それでも、さっさと男の要件を済ませてしまわなければ、自分の作業に戻れない。腹は立つが、自身の作成したスクロールを、男のデスクの上に置いた。男は黙ったまま、デスクの上のライトにスクロールをセットして、
「…これは、どういうことかな?」
「…え?」
「灯りが全くつかない。…起動さえしない不良品のようだが、まさか、これが、君の『完成品』というわけではないだろうな?」
「っ!…失礼しました。この一本はたまたま不良品だったようで、他のものを、」
「他のものでも、起動するはずがないよ。」
「は?」
男が、ライトからスクロールを取り外して開く。
「点灯の術式が完全に間違っている、こんな単純なものも作成できないなんて、君は一体今までここで何をしてきたんだ?」
「っ!『灯り』の術式を私に教えたのはステラです!私の術式が間違っているというなら、それは、私に教えたステラの責任で、」
「責任などどうでもいいっ!!」
「っ!?」
突如、大声を張り上げた男に、思わず身がすくむ。部屋中が水を打ったような静けさ。ただ、目の前の男の荒い呼吸音だけが聞こえる。
「私は期限内にスクロールを作れと命じているだけだ!何故、そんな単純なことが出来ないっ!」
「それはステラが、」
「あんな無能な女のことなど、今はどうでもいい!私は、お前達に言っている!言い訳も泣き言も一切聞くつもりは無い!今すぐ!正確に!スクロールを作れ!サボるな!手を抜くな!さっさと作業に戻れ!!」
「っ!」
(…ムカつく!!)
自身の管理能力のなさを棚上げにして、部下に一方的な無茶を押し付けて来る。どう考えても不可能な作業を、一体、どうやって─
「グズグズするなっ!やれっ!」
「っ!」
男が手にしていたスクロールを顔めがけて投げつけてきた。痛くはない、だけど、どうしようもないほどの屈辱に、何か言い返そうと男の顔を睨んだ。
「なんだ?何か文句があるのか?己の仕事一つまともにこなせない無能が、文句だけは一人前に口にするつもりか?あ?」
「…」
結局、男のギラついた目、常軌を逸した様子に、何も言えないまま自席へと戻る。
(…最っ悪!)
煮えたぎるような怒り、目の前、男に投げつけられたのと同じ術式が書かれたスクロールが目に入る。
「っ!!」
怒りを、全てぶつけるようにして、スクロールの束をゴミ箱に叩き捨てた。
22.再就職先も王宮?
「…あの、エリアス?…確か、前職は『傭兵』って言ってなかった?」
「ん?ああ、まぁ、似たようなものだ。」
(いやいやいやいやいや!)
スクロールを書き書き、何とかたどり着いた隣国、ロートにて、エリアスが「前職のコネがあるから、紹介してやる」と気軽に言うものだから、ラッキーくらいの感覚でついていったら、ついて行った先がまさかの王宮だった。
「っ!無理だよ!?いきなりこんな立派なところに再就職とか、無理無理無理!」
「なぜ?ハイマットでも文官をしてたんだ。同じだろ?」
「違うよね!?他国出身の国外逃亡者がいきなり王宮に就職とか無理だから!身元が怪し過ぎるよ!」
「ああ、まぁ、その辺は気にするな。…これでも一応、それなりの地位に居たからな、ステラの身一つくらい、何とでもなる。」
「…」
エリアスの言葉に不安が増した。
(というか、もう、不安しかない…)
王宮内で「それなりの地位」に居た人物を、私は今、ガッツリと隷属させてしまっているんだけれど─
「ステラ、来い。」
「…」
呼ばれて、手を差し出されてしまえばもう、ついていくしかない。子牛の気分で連れて行かれた先、たどり着いたのは重厚な扉、エリアスが、ノックも何も無しにその扉を開け放った。
「…よぉ。」
「エリアス!?」
部屋の中、立派な執務机に座っていた巨漢のおじ様が、弾かれたようにして立ちあがった。その視線が、確認するよう、エリアスの顔、身体を眺めまわして、最後に私とエリアスの繋いだ手を凝視したので、慌てて手を引っ込める。
「…無事なよう、だな。キール達から、ハイマットに居ると報告は受けていたが…」
「あー、まぁ、見ての通り。心配されるようなことにはなってない。」
「そうか…」
言って、おじ様は力が抜けたかのように、椅子に座り込んでしまった。
「…正直、お前がベルツ公の包囲網を抜け出せるとは思っていなかったんだ。…捕まって秘密裡に飼われるか、どこかで野垂れ死にしていてもおかしくないと…」
「勝手に殺すな。」
「ああ。…本当に良かった。」
「…」
噛みしめるようなおじ様の言葉に、エリアスはただ苦笑している。そんなエリアスを見て、おじ様もちょっと復活したらしい。次に口を開いた時には、その言葉に好奇心をのぞかせていた。
「それで?どうやって、国境を越えた?検問所には、公の手が回っていただろう?容易には突破出来なかったと思うが…」
「ああ。奴隷商に身を売った。」
「…は?」
「密輸品として検問を越えたんだが、案外、上手くいった。」
「…」
「まぁ、その内、ハナトの検問所は手入れしないとマズいな。奴隷商とズブズブに繋がってやがるから、」
「ちょ、ちょっと待て!奴隷!?お前が奴隷だと!?」
「ああ。」
顔面蒼白で叫ぶおじ様、エリアスは飄々としてるけど、絶賛、エリアスの「主人」中である私は、おじ様の剣幕にビビりまくっている。
(ほらー!ほらほらほらー!)
やっぱり、駄目なやつ!こんな立派な部屋でお仕事をしているおじ様とため口が許される立場、それだけで、エリアスの「それなり」の高さがうかがえてしまう。
こっそり、エリアスの背中に隠れるように後退しておく。
「…何故、何故、そのような事態に…」
「あ?だから、国境越えるためだって。」
「他にいくらでも方法があっただろう?お前なら、単身で山を越えることも可能だったはず…」
「俺が野営嫌いなの、知ってるよな?」
「いや、だが、代わりに奴隷落ちを選ぶなど…」
おじ様が項垂れてる。私も、若干、エリアスはおかしいんじゃないかなーと思い始めてる。
「まぁ、それだけが理由じゃないがな。」
「…」
「奴隷紋がありゃあ…」
言いながら、エリアスが詰め襟をグイと押し下げた。
「流石にあの女も、諦めるしかないだろ?」
「…確かに、…いや、だが…」
エリアスの首筋にはっきり見える黒々とした契約紋。それを、痛ましそうな目で確認したおじ様が、深々とため息をついて。
「…お前は本当に、とんでもないことをしでかす。…契約紋など、奴隷契約を解消できたとしても、一生消せないではないか。」
「だから良いんだろ?…それに、まぁ、奴隷生活ってのも割と気に入っている。」
「…気に入っているだと?」
「っ!?」
そこで漸く、というか、全然望んで無かったというか、おじ様の意識がこちらへ向けられた。エリアスの背後から覗いていたのに、バッチリ目が合ってしまった。
「…もしやと思うが、そちらのお嬢さんが、お前の…?」
「ああ。俺の主人だ。」
「…」
「…」
躊躇なく言い切ったエリアスの隣で、私とおじ様の途方に暮れた視線が合った。
(…良かった、怒ってはいなさそう。)
安堵して、小さく頭を下げておく。
「あー、それで、まぁ、奴隷にはなっちまってるけど、それで問題なきゃ、俺を団に復帰させてもらいたいってのと、うちのマスター、良ければ騎士団で雇ってやってくれないか?」
(…騎士団。)
やっぱりね、やっぱりね。分かってた─
王宮で、傭兵みたいな、つまり、武力行使系のお仕事、そんなの、騎士団一択しかないと思う。ついでに多分、王宮内に部屋があるということは、目の前のおじ様はかなりの高位にある方、多分、「長」とか付きそうな役職。だから、腹を括る。もう、ここまで来たら、仕方ない。
エリアスの陰から、一歩、前へ─
「あの、初めまして、ステラと言います─」
23.囲い込み Side E
頭を下げるステラに、かつての上司がいらへを返す。
「…初めまして、ステラ嬢。…ロート騎士団団長、グレイ・ホーキンスだ。」
「っ!?」
隣で、頭を下げたままのステラの肩が震えた。ソロリと顔を上げたステラの視線が何故かこちらを向き、睨まれて─?
「…やっぱりやっぱりやっぱり。想定内で一番偉い人ー…」
「ステラ?」
「すみません!団長さん!エリアスの奴隷契約は即行で解消しますので!でも、あの、確かに契約紋は私じゃ消せないので、頑張ってお金貯めます!高位の治癒系の魔術が使える方なら、多分消せると思うので!それまで、少しお待ち頂ければ!」
「待て待て、ステラ。」
「待てないよ!っていうか、エリアスは!?エリアスの職位は!?」
「ん?」
「団長さんとため口とか、絶対、偉かったでしょ?管理職だったんでしょー!?」
「…退団前は副長だったな。」
「ほらねー!!」
涙目で勝ち誇ってくるステラの言動に笑う。多分、混乱してるんだろうが、本人はそれに気づいていないらしい。
「…ステラ、大丈夫だ。聞いてたろ?どうしようもない事情で、俺には奴隷紋が必要なんだ。消すつもりはない。」
「でも…!」
「それに、言ったろ?俺は、お前の奴隷って立場が気に入ってる。」
「っ!?」
「後は、…そうだな、よく考えてみろ、ステラ。奴隷契約が無くなれば、俺はお前から逃げ出してしまうかもしれないんだぞ?」
「っ!?」
欠片も思っていない言葉に、容易く顔色を変えるステラ。恐怖か不安か、蒼褪めた顔に満足する自分も大概だなと思いながら─
「…冗談だ、安心しろ。俺がお前から逃げ出すことはない。」
「…本当に?」
「ああ。…だが、俺の意に反して、お前から引き離される可能性はある。…だから、奴隷契約は解消しない。な?それでいいだろ?ステラ…」
「…うん。」
完全に納得できたわけではないだろうが、葛藤の末、己を失う恐怖に屈したらしいステラの姿に、どうしようもない愉悦が湧く。押し殺して、グレイに向き直れば、唖然とした男の表情とかち合った。
「…エリアス、お前…」
「なんだ?」
「…」
分かっている。過去の自分を知る者から見て、己がどれほど滑稽な姿を晒しているかは。だが、それでも構わないと思うほど、溺れているのは己の方。ステラにさえ、それを知られなければ問題無い。
「それで?俺の復職については、認めてもらえるか?」
「…ああ、それは、問題ない。…副長の座は空けてある。戻って来い。」
「…助かる。」
何の躊躇もなく、その地位を許す男に頭を下げる。長たる男の隣を空けておくなんて、容易ではなかったはずなのに─
「あー、それから、ステラ嬢の方に関しては、裏方、事務という扱いでいいのか?…騎士団に空きは無いが、他で良ければ、」
「あの!私!スクロール書けます!」
ステラの処遇に関して思案するグレイに、ステラが手を上げて自己申告する。
「それで、あの!騎士団でなくても、出来れば、そういう仕事が出来る場所に回して頂ければ!」
「…スクロール。…ステラ嬢は魔導師なのか?」
「うっ…、いえ、違います。その、騎士団での戦力になるような魔力を期待されているんだとしたら、非常に申し訳ないんですけど、そんな魔力は全然なくて、スクロールも『灯り』なら一日十本…、二十本くらいは作れる程度で…」
「なるほど。」
「あ!でも、あの!書くだけならもっと書けます!一日、五百本くらいなら!」
「五百…?」
「っ!いえ、あの、気合入れればもう少し!今までの最高記録は九百四十六本だったので!それくらいまでなら!」
訝しむようなグレイの言葉に焦り出したステラを止める。
「ステラ、それは駄目だ。どれだけ働くつもりだ?」
「うっ…」
「…一日でなく、時間単位で言ったらどうなんだ?どの程度作成できる?」
「…時間で言ったら、一時間で六十本くらい、かな?」
「…」
それはつまり、九百を超える数を作成するには、単純計算で十五時間以上、スクロールを書き続けることになるわけだ。
「…駄目だ。」
「…」
牽制を込めてステラを見つめれば、気まずそうに逸らされた視線。横から、グレイの咳払いが聞こえて、
「あー、そうだな。ステラ嬢。…門外漢の私では詳しいことは分からんのだが、一時間で六十本こなすという時点で、君が非常に優秀な人材だということは分かる。…身体を壊すような働き方をする必要はないと思うが?」
「…ありがとうございます。…ただ、あの、正確に言いますと、スクロール書けるのは書けるんですけど、そこに魔力を込めるには、魔導師の方のご協力がどうしても必要で、…私、本当に書けるだけなんです…」
「ふむ…」
思案しだしたグレイ。ステラの所属先に迷っているのだろう。
ロートにはハイマットと違い「魔導省」というものが存在しない。王宮魔導師は居るが、所属は王家直属。その他に、騎士団に所属する者や、魔術の塔という研究機関に在籍する者もいるが、国の機関としての「魔導省」のようなものは存在しない。グレイの手の届く範囲での斡旋となると─
「…騎士団預かり、ということにも出来るが、それではステラ嬢の能力が活かせないだろう。…この件は上に相談しておく。ステラ嬢の才能をここで埋もらせてしまうのは惜しい。」
「…才能。」
「ああ。…申し訳ないな、ステラ嬢。少し時間をくれ。」
「っ!いえ!あの、それは、もう、はい!こちらこそ!よろしくお願いします。」
頭を下げるステラに、グレイが笑う。
「そうだな。では、ステラ嬢、君を推薦するにあたって、いくつか確認しておきたいことがある。いいだろうか?」
「はい!勿論です!」
「ありがとう。…ではまず、出身はハイマットということで良いか?」
「はい。」
「ふむ。歳は?」
「十八です。」
「は?」
「…なに?」
思わず聞き返したのは、グレイと同時だった。
「…十、八…?」
グレイの視線が痛い。いや、だが、しかし、自分だって知らなかったし、信じがたい。
(…こんだけ落ち着いてて、まだ、十代…?)
思わず、自分との歳の差を計算してしまう。
(…九つ差か、…まぁ、アリだろ?)
納得して、グレイの視線は無視することにした。
「…あの?」
微妙な空気を感じ取ったらしいステラが見上げて来る。それに、何でもない顔で、
「いや、すまん。ステラは落ち着いているからな。二十歳は超えているだろうと思っていたんだ。王宮での勤めも長いと言っていなかったか?」
「あー、はい、そう、ですね。社会人経験は長いですから、落ち着いてる?かは分かりませんが、まぁ…」
「王宮…、ステラ嬢はハイマットの王宮で働いていたのか?それに、社会人経験が長いというのは?」
「あー…」
ステラが、困ったような顔で見上げて来る。そう言えば、ステラの過去、魔導省に勤めるようになった経緯などは聞いたことがなかったことに気づき、ステラの言葉の続きを待った。
「…実は、その、魔導省には八年ほど勤めてまして…」
「っ!?」
「なんとっ…!」
驚いた、なんてものではない。八年前、成人前の十歳という若さで国の機関で働き始めていたというのか─?
「…その、昔、ですよ?昔は、私、そこそこ賢い子どもでして、それで、まぁ、スクロールとかも読みこなしてしまったものですから、魔導省からお声がかかって…」
「…十歳でスクロールを読んだのか?」
「って言っても、あの、『灯り』とかの簡単なスクロールの話で、攻城魔導機なんかの専門的なものに関しては、未だにさっぱりで…」
「ああ、うん、いや、そんなものまで読みこなされてしまっては、こちらも対処に困るので、それは構わんのだが…」
驚きを通り越して、若干、呆れ気味のグレイの言葉に、ステラが気まずそうに視線を逸らす。
「…本当に、今は普通の、一般人なので、どこかでひっそりスクロールでも書かせて頂ければ…」
萎れてしまったステラに、グレイが苦笑して頷く。
「…分かった。…安心して欲しい。悪いようにはしない。待っていてくれ。」
24.初めて…
疲れた─
騎士団長室を出て、エリアスと並んで歩く廊下、思わずため息が零れる。再就職先の幹部クラスの方との面接だったのだから、これで疲れないほうがおかしい。しかも、ろくに心構えも出来ていないままだったから、余計に。
(…でも…)
騎士団長だと名乗ったおじ様、グレイ・ホーキンスさんの言葉を思い出して、胸がキュッとなる。思わず、足が止まった。
「…ステラ?」
「…才能、って言ってもらえました。」
「?…ああ、グレイが言っていた、ステラの才能というやつか。…才能、だろう?」
「…」
スクロールを「書く」ことしか出来ない。ろくに魔力注入も出来ない。無能だと言われ続けて、悔しくて、でも、それでも、書き続けることしか出来なくて、それを、今、自分を全然知らない人に、こんな風に評価してもらえるなんて、思ってもみなくて─
「…ステラ、おいで。」
「…」
伸ばされた手に引かれて、エリアスの腕の中に納まる。途端、速くなる心音に、胸元の石を握り締めた。
「…おかしいな?俺も、今まで散々、ステラはすごいと褒めてきたつもりだったんだがな?」
「…でも、それは、私がお願いしたからで、エリアスは逆らえなくて…」
「ああ、なるほど。…それは、まぁ、俺の、力不足、言葉足らずだった…」
「…」
「…ステラ?」
名前を呼ばれると同時、エリアスの両手が、頬に添えられる。上を向くように促されて─
「もっと早く言うべきだった。」
「なに…?」
「ステラ、お前は凄い。スクロール作成の技術そのものにも敬意を覚えるが、それ以上に、お前が今まで続けた努力、折れずに、腐らずに、ここまで来たお前のその不屈の意志に敬意を表する。…よく、頑張ったな。」
「…」
なんで─
(なんで、今、そんなこと、言うの…?)
命じてもいない、願ってもいない。それに、ここはエリアスの本拠地、今のエリアスに、私に阿る理由なんて一つもない。私の方が、エリアスに頼り切り、彼の意志に反することなんて出来ない状況、なのに─
「…なんで…?」
「ん?本気でそう思ってるからだろ?ステラ、お前は凄い。自分の力で、しっかり立ってる。お前自身の力で、誇りを失うことなく。」
「っ!?」
もう、どうしようもなくて、涙があふれた。そんなみっともない顔ごと、エリアスの優しい腕の中に抱き込まれる。
「…だけどな。ステラはステラで立てるってこと、分かってはいるんだが、それでも、どうしても駄目な時、倒れそうになった時は、俺がお前の側に居たい。…だから、ステラ、その時は、他の誰でもなく俺を選べ。」
「っ!」
そんなの、とっくに、私はもう、エリアスじゃなくちゃ駄目で─
言葉に出来ない想いの代わり、エリアスの腕の中、何度もうなずいた。何度も何度も、ずっと、この腕を離して欲しくなくて。
25.屈辱 Side M
朝から不穏な空気。上司である室長が姿を現さないまま、始業から一時間ほど経ったあたりで、その人達は姿を現した。
(…監査?)
王宮の全ての部署を統括する、王家直属を意味する黒い制服に身を包んだ男達、その後ろから現れた男の姿に、不安がどんどん膨らんでいく。
「…スクロール室の人間は、全員、揃ってるかな?」
男、魔導省長官の言葉に、この場で一番年かさの同僚が立ち上がり、返事を返す。
「ケートマン室長がまだ、」
「ああ。彼のことはいいよ。それ以外は?」
「…ステラという職員が一人、…休暇中で…」
「ステラ?…それが、ケートマンの言っていた『体調不良で休んでいる』という人物かな?確か、一週間以上、無断で欠勤しているとか?」
「…はい。」
「なるほどね。…ケートマンの弁によれば、そのステラという職員の不在が、現在の君達スクロール室のろくでもない生産性を招いているらしいが、誰か、反論するものは?」
「それは…」
答えに窮した男の視線が周囲をさ迷う。だが、誰も名乗り出るものはいない。
(それはそうよ…)
あの女が責任を放り出したこと、それが原因の全てなのだから。
誰も反論しない状況に、長官が口を開く。
「…理解したよ。それじゃあ、君達、ここに居る者は、全員、クビだ。」
「なっ!?」
「そんなっ!?」
(…なに?…この人、何を言って…?)
突如告げられた信じられない言葉に、数人が悲鳴のような声を上げる。全員が混乱する状況、男が、鼻を鳴らして、
「…と、言いたいところだけどね。そうなると、流石に、この先の業務に支障が出るから、クビにはしない。」
混乱していた状況に安堵の雰囲気が広がる。男が再び口を開いた。
「ただし、このまま何の処分も無しという訳にもいかないからね。君達には減俸処分を科す。一年間、五割の減俸だ。」
「そんな馬鹿な!?」
「無茶です!そんな!」
上がる抗議は当然のこと、私だって、そんな給料では生活が成り立たない。だけど、上げた抗議の声に、男から返ったのは冷めた眼差し。
「…文句があるなら辞めてもらって構わないよ。何人か減ってくれた方が、こちらとしても助かるしね。」
「っ!?」
男の言葉に、抗議の声を上げていた者達が黙り込む。
「…話は以上だ。ああ、それから、暫く監査の人間がうろつくけど、そちらは気にしないでいい。君達は君達の業務を進めてくれ。」
「…」
言い捨てて監査の人間と話し始めた男に、同僚たちが己の仕事へと戻っていく。
(そんな…)
正気だろうか。減俸、それも五割減、そんな状況で働き続けるなんて無謀もいいところ。なのに、あっさりと男の言葉に従ってしまった同僚たち。歯向かう意志も見せない彼らの姿に苛立つ思いを押し殺し、自分も、手元の作業に戻ろうとしたところで─
「君が、ミリセント君?」
「っ!?」
呼ばれた名、顔を上げれば、いつの間にか目の前に立っていた男と目が合う。
「…は、い。」
何とか返した返事に、男が「そう」と呟いて、
「君は、クビね。」
「っ!?」
今度こそ、絶対に受け入れられない言葉に、立ち上がる。
「何故ですか!?減俸でさえ納得いかないのに、クビだなんて!しかも、私だけ、」
「君、生産性が著しく悪いんだよね。完成品の質もお粗末としか言いようがないし。君、ここ、四年目だよね?一体、今まで何してきたの?」
「っ!?それは!ですから、それは、私の教育係だったステラという者の責任で!」
「それはおかしいな。先日までは何の問題もなかったものが、そのステラって職員が休んだ途端、君のスクロールの質が落ちる。…おかしいこと言ってるって、自分で分からない?」
「っ!それは!」
一瞬、言葉に詰まる。だけど、このままでは、確実にクビになってしまうから、
「作業を分担していたんです!あの女は魔力が全然無いから、代わりにスクロールを書いて、私がそこに魔力を注入していました!」
「…なに?どういうこと?」
「ステラは、あの女は雑用だったんです!スクロール作成の下準備はあの女の担当で、」
「ちょっと、待て。…君は、自分の担当スクロールをそのステラって職員に書かせていたわけ?」
「っ!私だけじゃありません!スクロール室の者はみな、彼女に書かせていました!」
「…なるほど、ね。」
怒り、呆れ、だろうか、男の鋭くなった眼光。それが、周囲、この部屋に居る者、全員に向けられる。
「…今回の異変、漸く合点がいったよ。けど、だとしたら、とんでもない問題だな。君達は、その状況を放置していたのか?何の疑問もなく?」
「それは…」
「ああ、ということは、その職員の欠勤も、ただの休暇というよりも『逃げ出した』と考える方が正しいのかな?彼女の居場所、誰か抑えてるの?」
「いえ…」
「はぁ、まったく、信じられないね。分業だとしても片寄りすぎ、職員一人に依存した生産体制なんて大問題じゃないか。」
「っ!それが問題があるんだったら、室長に言って下さい!私達は室長の指示に従っただけです!責任なら室長に!」
「…残念だったね。ケートマンは、もうこの部屋の責任者ではなくなったよ。」
「え…?」
男の目、底冷えのする冷たい眼差しを向けられて、身体が震えた。
「彼は解雇された、だけじゃないけど…。不正が発覚してね。彼が魔導省に戻って来ることは二度とないよ。」
「っ!?」
「まぁ、彼だけでなく、この部屋にも色々問題があるらしいことは分かった。失踪者の捜索も行わないといけないようだしね。…君達には、今後、調査に協力してもらうことになるから、覚悟しといて。」
(そんな…)
追い詰められた状況。回らない頭で、何とか、この場を切り抜けたいと思うのに─
「ああ、それから、君、ミリセントだっけ?君のクビは取り消さない。君は明日から来なくていいよ。」
「っ!?」
「ただ、連絡はつくようにしといて。」
言うだけ言って、背を向けた男が歩き出す。監査の人間に何事かを告げた男が部屋を出ていく姿を呆然と見送って─
(っ!何なの!?何なの!?何なのよ!!)
少し前までは全て上手くいっていた自分の人生。それが、この短期間に、あっという間に失われようとしている。魔導省という周囲に羨ましがられる職場、給料も申し分なく、友人に囲まれて、順風満帆だった私の人生が─
「っ!」
反射的に、部屋を飛び出した。廊下を進む男の後姿を追いかける。
(あり得ない!こんなの!絶対にあり得ない!)
「…長官!」
「…」
振り向いた男の面倒だと言わんばかりの表情、ひるむ心を奮い立たせる。
「あの女を!ステラを見つけて下さい!ステラさえ居れば、全て上手くいくんです!」
「…言われずとも、捜索はするよ。…魔導省の魔導師が勝手に職場を離れることは許されないからね。」
「それじゃあ!」
「だけど、君には無関係。何度も言うけど、君はクビ。魔導省とは今後一切関わるな。」
「っ!」
取り付く島のない返答に、必死に言葉を探す。何か、男の考えを翻意させられる何か。私の強み、あの女に関して、何か─
「っ!待って下さい!私!私は、ステラを知っています!あの女の顔も分かります!捜索に協力させて下さい!」
「…なに?」
「ステラの顔!知っている者は限られると思うんです!あの女、スクロール室に籠りっぱなしでしたし、他部署に友人もいませんでした。」
「…」
「それに!私なら、ステラの書いたスクロールを見分けることが出来ます!スクロールを書くしか能がない女だから、絶対、どこかで書いてるはずです!だから、もし、あの女の書いたスクロールが見つかったら!」
「…それは、どうだろうねぇ?この国中に彼女の書いたスクロールが出回っているんだろう?それを元に追跡するっていうのはねぇ…」
「魔力も!あの女の魔力なら分かります!痕跡でも何でも、捜索チームに加えて頂ければ、必ず!必ず、役に立ってみせますから!」
「…」
必死に、言葉を連ねる。ここで認めてもらえなければ、私は何もかもを失ってしまう。だから、ここで、何としてでも─
「…まぁ、君の言うことにも一理あるね。いいよ。君を捜索チームに入れてあげよう。」
「っ!ありがとうございます!」
「ただし、言ったからにはそれなりの成果を上げてもらうよ?出来なければ、当然、クビ。それは変わらないからね。」
「はい!分かりました!」
言って、男に頭を下げる。それでもまだ値踏みしてくる視線を感じながら、叫び出したい気持ちを必死に押し込めた。
(許さない!あの女!絶対、許さないっ!!)
脳裏に過ぎる女の顔、思いつく限りの罵倒を並べ、心に誓う。
(必ず見つけ出す!)
見つけて、二度と、絶対に自分に歯向かうことのないよう、徹底的に痛めつける。身体ではなく、心を。私をこんな目に会わせた報いは、必ず受けさせる─
26.絶望 Side K
長時間に及ぶ尋問、スクロールの横流しに関しての執拗な聞き取り調査に、最後になんと答えたのかは分からぬまま、朦朧とした頭で魔導省を後にしたのは宵闇の頃、追跡の魔術付きとは言え、一旦、帰宅が許されたのは、己の身分がまだ辛うじて貴族籍にあるためだろう。それも、妻の実家の爵位ではあるが─
(…クソッ、どうする、…どうすれば…?)
昨日の夕刻、自邸へと訪れた王宮監査官に問答無用で連れ出されてから丸一日以上が過ぎている。その間、睡眠どころか、ろくな休息も与えられずに続いた尋問、魔力を用いたそれは、気力で対抗できるものではなく、マズいと思いながらも、ゴート商会の名を口にしてしまったことだけは覚えている。
(…ひとまず、家に帰って、逃亡の準備を…)
そこまで考えて、思いだす。自身の「家」が既に自分のものではないことに。昨日、監査の急襲を受けたと同時に、家は差し押さえられてしまっている。封鎖された屋敷に力ずくで押し入れば、直ぐにも再逮捕されてしまうだろう。
(クソッ、しかし、金も持たずに逃亡するのは無謀過ぎる…)
魔導省の追跡魔術だけならば、まだ何とかなる。だが、今や、ゴート商会にも追われる身、闇雲に逃げて逃げ切れるものではない。魔導省への差し入れ代わりに離縁届を置いていった妻の実家も当てにはならない。
(…そうだ…)
脳裏に浮かんだのは一人の女の姿。金で繋がった関係とはいえ、それだけで割り切れるほどの浅い仲ではない。共に逃げてくれるほどではなくとも、金を融通してくれるだけの情けはあるはず。
進路を変え、大通りを通いなれた方角へと進む。周囲への警戒を怠らずに歩くこと十数分、見えてきた家の窓からもれる灯りにホッとする。そのまま、家の扉を小さく叩けば、
「…はい?」
「…俺だ。」
「っ!」
扉の向こうで、慌てたような気配。扉が、直ぐさま開いて、
「ディー!良かった!無事だったのね!?私、あなたが捕まったって聞いて!」
「サリー、すまん。迷惑をかけるが、」
「いいのよ!とにかく、中へ入って!直ぐに食事を用意するわ!あなた、酷い顔よ?」
「…ああ。」
招かれた室内の温かさに、込み上げるものをグッと飲み込んだ。目の前の、温かな肢体に手を伸ばし、抱きしめる。
「…すまん。本当に、お前に迷惑をかけるつもりはなかったんだ…」
「…何を言ってるの。私はいつでもあなたの味方よ?…それより食事は?ちゃんと食べられたの?」
「ああ、…いや、そう言えば、何も食っていないな。…それどころではなかった…」
「そう。可哀想に。…座って?スープで良ければ直ぐに出せるから。」
「…すまん。」
再び謝罪を口にし、困ったように笑う女に促されてテーブルへとつく。出された食事、湯気の立ち昇るスープを口に運んだ。決して料理が得意とは言えない女の作ったスープ、いつもなら、文句の一つや二つ、口にしてしまうそれが、今はどんな高級料理よりも旨いと感じる。
「…今まで、すまなかった。」
「あら?何を謝ることがあるの?」
「…私は、今まで、お前を金で買った女だとしか思っていなかった。心無い言葉をいくつも口にした。」
「そんなこと、気にする必要ないのに。」
「ああ。…だが、お前は、帰る場所もない俺をこうして迎え入れてくれている。」
「…」
「…なぁ、頼みがあるんだ。」
「なぁに?」
こちらを見つめる女が笑みを浮かべる。何故だろう、その笑顔が遠くに見えて─
「…私と、一緒に、逃げてくれないか…?」
たまった疲労ゆえか、口が上手く動かない。意識が朦朧としている。
「逃げる?それは駄目よ。」
「…なぜ、お前は、私を…」
身体から力が抜けていく。椅子の上に座る力を失った身体が、床の上へと崩れ落ちた。見下ろしてくる女の視線。
よく、見えない。遠ざかる思考に、一つだけ、疑問が生まれた。
「…サリー、お前、私が捕まったと、なぜ、知って…?」
「ああ。それは簡単よ?ゴート商会の旦那に教えてもらったの。」
「…ゴート…」
「ええ。あなたがここに来たら教えて欲しいって。あなたを動けないようにするお薬ももらったわ。それに、さっき合図を送ったから、そろそろ、迎えが来るんじゃないかしら?」
「…迎え…」
「ええ、あなたのお迎え。」
こちらを見下ろす女、その後ろに、黒い人影─?
「お待たせしました。ケートマン室長。…おや、まだ意識があるのですね。流石は、腐っても魔導師。大したものです。」
「…」
恐ろしい声、だが、それがなぜ恐ろしいのか、上手く、思考が─
「ご安心下さい、室長。あなたの存在は我が商会が責任を持って、隠匿致しますので。魔導省にも決して見つからぬよう、その髪の毛一本、爪の先まで、有効活用させて頂きます…」
「…」
「室長ほどの魔導師というのは、なかなか手に入らないものですから。…我が商会も、本当に運が良かった。」
「…」
「…どうか、安らかにお眠り下さい。…あなたにとって、これが最後の…」
27.護るための武器 Side E
「…エリアス、マズいことになった。」
「…何があった?」
呼び出された上司の執務室、開口一番の不穏な台詞に、警戒を強める。
「ステラの存在がバレた。」
「…バレたってのは、ハイマットの奴らにか?」
「ああ。…一応、前の職場を逃げ出したって話を踏まえて、秘密裡にことを進めていたんだが、先ほど、宰相を通して確認があった。『ハイマット出身のステラと言う魔導師に心当たりはあるか』と。」
「…」
「すまん。ここ数日、騎士団の備品中心にスクロールを作成してもらっていただろう?それを押さえられて、否定のしようがなかった。」
「…なるほどな。」
いつかは、現れるだろうと思っていた追っ手。思っていた以上に早く現れた奴らに、それだけ、向こう側の焦りを感じる。
(…今更、だがな…)
今更、ステラを追ってくるなど、取り戻そうなどと、ムシが良すぎる話。だが、どれほど理不尽であろうと、このままでは、まず間違いなくステラを奪われてしまう─
「…エリアス、逃げるなら今だ。」
「…なに?」
「午後に、宰相閣下の執務室でハイマットの使者との面会が予定されている。その場にステラを連れてこいとの命令だ。…逃げるなら、今しかない。」
「…」
てらいも無くそう口にする男に、何度、感謝を捧げればいいのか。だが─
「…いや、逃げるつもりはない。」
「…しかし、そうなれば…」
「ああ。…最悪、連れ戻されるかもしれんが、…悪い、その時は、俺は団ではなく、ステラを選ぶ。…あいつについて、ハイマットへ行く。…許せとは言えんが…」
「それは、構わん。…当然だろう?…だが、あの子のあちらでの扱いを考えれば…」
「ああ、まぁ、そうならないために、少しくらいはあがいてみせる。」
「…なにをするつもりだ?」
疑問を浮かべる男の前に、書類を差し出す。ずっと出しあぐねて、肌身離さず持ち歩いていた書類。
「これは…?」
「悪いな、グレイ。…少しだけ、付き合ってくれ。」
28.追いかけてきた悪夢
エリアスを見た瞬間に固まった。騎士団の詰所の片隅、机を貸してもらってスクロールを書いていた私の前に現れたのは、ザ・騎士様なエリアス。いつもの簡易服じゃなくて、かっちりした正装。詰襟だから、奴隷紋が見えないことにホッとしたのも束の間、エリアスの固い表情に、嫌な予感がヒシヒシと─
「…ステラ、すまん。ちょっと、つきあってくれ。」
「…いい、けど、どこに?」
「…」
立ち上がり、部屋を出る。黙ってエスコートしてくれるエリアスの手に導かれて向かったのは王宮。しかも、騎士団長室があるのとは明らかに違う方向。王宮のど真ん中を進むエリアスに、もう、本当に嫌な予感しかしなくて─
「…ステラ、すまん。」
「あの、多分、エリアスが謝ることじゃないとは思うんだけど、これ、どこに行くの?」
「…宰相閣下に呼ばれてる。」
「宰相…」
国の、トップもトップ。一生、お目にかかることなんてないはずの存在が私を呼んでる─?
「…ハイマットから使者が来ているそうだ。…ステラを探していると。」
「…」
あ、詰んだ─
瞬時に頭に浮かんだ言葉、ブンブンと頭を振って打ち消す。
「あの、その使者っていうのは偉い人?私のこと分かるかな?最悪、『人違いです!』って誤魔化せたり…?」
「…どう、だろうな?」
半信半疑っていうより、多分、無理じゃないかなーな雰囲気のエリアスに、嫌な汗がバンバン流れ出した。
(探してる…。探してるって、アレだよね?捕まえて、連れ戻されるってやつで…)
そんなの絶対嫌だから、頭の中でグルグル思考を巡らす。
(逃げ道、逃げ道…)
考え込む内にたどり着いた大きな扉。エリアスが足を止めた。
「ステラ、大丈夫だ、安心しろ。」
「…」
「いざとなったら、俺がなんとかする。…何ともならなくても、俺がステラの側を離れることはない。…ずっと、一生、お前の側に居る。」
「…エリアス。」
こんな場所で、こんな時でなければ、涙が出るくらい嬉しい台詞。プロポーズみたいなそれが、今はただ悲しくて仕方ない。
(エリアスに、こんなこと言わせたくなかった…)
騎士団のみんなと居るエリアスを見た後だからこそ分かる。エリアスの居場所はここだ。私がどうなろうと、エリアスはここを離れるべきじゃない。
(だから、私が、どうなろうと…)
暗くなる思考を無理やり追い払う。まだ、チャンスはある。逃げられるなら逃げきる。折角、ここまで来たんだから、何としてでも─
(よし…)
胸元、下げたお守りを握り締め、覚悟を決めた。
一度、こちらを確認したエリアスが、目の前の扉を叩いた。入室を許可する声、エリアスが開けてくれた扉の向こう、見えた人物の姿に愕然とする。
(…な、んで…?)
「っ!居た!」
「っ!」
こちらが認識すると同時に、あちらも気づいた。座っていたソファから立ち上がったかつての同僚、ミリセントがこちらを指差し、大声をあげる。
「やっぱり居た!長官!あの女です!あの女、やっぱり、こんなところに隠れてたんですよ!」
「…ミリセント、やめろ。下がれ、座れ。」
「っ!」
ミリセントが「長官」と呼んだ相手、直接目にするのは初めて、それでも、魔導省内で彼を知らない人間なんていない。
(…まさか、長官が…)
「…」
「…」
雲の上の存在だった。その人に、値踏みするように見据えられて、身体が動かなくなる。怖くてたまらないと思った瞬間─
「…騎士団副長エリアス・リューセント、ステラ嬢をお連れしました。」
(…エリアス。)
騎士の礼を取ると同時、私を、長官の視線から庇うようにして立ったエリアス。そのことに、勇気を得て、
「…ステラです。お召しにより、参上いたしました。」
頭を下げる。ミリセントが居る以上、人違い作戦は却下。だから、大人しく頭を下げ、相手の出方を待つ。
宰相閣下と思しき人物の許可の元、ミリセント達の向かいに座らされた。向かいの二人に対して、私は一人。背後にエリアスが立ってくれてはいるけど、宰相はご自分の執務机に座られたまま。だから、多分、これは静観?されている?
(…隣国から物言いがついた人間なんて、そう簡単に味方出来ないよね。)
しかも、私はこの国で何の実績も上げていない。魔術大国であるハイマットの不興をかってまで私をこの国に引き留める理由なんてないのだ。
それから、よく見たらもう一人。ザ・魔導師な老人が、宰相よりも更に遠く、窓辺近くに座っている。ロートの王宮魔導師?だろうか。関係者として呼ばれているのかもしれないけれど、その距離の遠さは宰相以上。
結局は、私一人─
(怖い怖い怖い…)
睨んでくるミリセントは無視できても、その隣、感情の見えない長官は、格が違い過ぎて逃げ出したくなる。その視線がこちらをじっと見つめたまま、
「さて、じゃあ、何から話そうかな?」
「…」
「ステラ君、きみ、ここに居るのは魔導省が嫌で逃げ出したってことであってるかな?」
「…はい。」
長官が落ち着いた声で話すから、答えにくい質問に、思わず正直に答えてしまった。
「…まぁ、私の方でも、君のことについては詳しく調査させてもらったよ。スクロール室の状況から、君が相当ひどい待遇を受けていたことは把握済みだ。君が逃げ出したくなった気持ちはわかるよ。」
「…」
「それで、どうだろう?こちらには、君のスクロール室での待遇を改善する用意がある。それを加味した上で、うちに戻ってきてはくれないかな?」
「それは…」
長官の横で思いっきりこちらを睨みつけるミリセント。彼女を無視して、考えてみる、…振りをした。だって、そんなの、本当は、考える余地なんてない─
「…すみません。ハイマットには帰りません。」
「…理由を聞いても?」
「…私は、もう、魔導省に対して不信感しかないんです。八年間、魔導省で働いてきましたけど、その結果が、あれで、もう、魔導省で頑張る意味なんて、全然、持てなくて…」
「…」
吐露した胸の内、それに、諦めたように嘆息した長官。ひょっとしたら、このまま、私のことなんて捨て置いてくれるんじゃないかと期待が生まれる─
「…だったら、残念だね。」
「あの、それじゃ、」
「残念だけど、我々は強制的に君を連れ帰ることになる。」
「っ!?」
「君には同情している。出来れば、君自身の意志で戻ってきて欲しかったと願うくらいにはね。」
「だったら…!」
「君も、魔導省に勤めていたなら分かっているはずだ。魔導師の辞職には所定の手続きが求められる。上司の許可は勿論、守秘義務に関する制約のあれこれもね。当然、それら無しに他国への移籍なんて認められるはずがない。」
「…」
「…ガンガルド魔導師長。」
「っ!?」
長官が口にした言葉に、驚いて顔を上げる。『ガンガルド魔導師長』、世界中の魔導師が所属する魔導師協会、そのトップの名に、窓辺に立つ老人が鷹揚に頷いてみせる。
「魔導師長においで頂いたのは、今回の問題が君一人の問題ではなく、国家間の問題になる可能性があるからだ。」
「国の、問題…?」
「逃亡が君自身の意志であれ、見方によっては、ロートがハイマットの魔導師を引き抜いた、そういう風に見えるということだよ。ガンガルド魔導師長にはどちらの主張に正当性があるか、公平な判断を仰ぐためにおいで願っている。」
「そんな…」
「君も、まさか、国家間の争いを望みはしないだろう?」
「っ!」
男の言いたいことは分かった。静かな瞳で、男は脅しているのだ。「私一人の我儘が、国同士の諍いを生む」と。
(…そんなの、ズルい…)
だって、そんな、そんなことを言われてしまえば、何も言えなくなってしまう。だって、エリアスにも、お世話になってる騎士団のみんなにも、とんでもなく迷惑をかけてしまうから─
(ううん、迷惑なんてものじゃ…)
流石に、戦争、なんてことにはならないと思う、だけど─
「…ステラ。」
「っ!?」
不意に、背後から肩に乗せられた手。護衛のはずの、多分、発言自体許されていないエリアスに呼ばれた名前。
(…無理、やっぱり、無理。)
私はチョロい。エリアスのたった一言に、もう、決めてしまった。
国の問題になろうが何だろうが、私は、絶対、エリアスを手放せない。それはもう、どうしようもなくて、それに、エリアスの居場所は、絶対にここだから─
29.社畜のたしなみ
覚悟を決めて顔を上げる。意図せずミリセントと視線が合った。
「っ!ステラ!あんた、いい加減にしなさいよね!?あんたの無責任でどれだけ私達が、」
「ミリセント、黙れと言っている。」
「っ!?」
ミリセントの恨み節は、長官の声にぶった切られた。それでも、睨むことだけはやめようとしない彼女の態度に、逆に気持ちが奮い立つ。
ミリセントや周囲の扱いに耐えてはきた。それが仕事を円滑に進める手段だと思っていたから。だけど、私だって、悔しかったし、怒っていた。それを、忘れることなんて出来ない。
胸元、握りしめたクォーツに魔力を流す。いつもとは違う、「再生」の術式を起動すれば─
『ステラ君、またかね?何度も言っているだろう?何度言われようと、君の辞職は認めない。』
「っ!?」
「これは…?」
石から流れ出した音声に、目の前の二人が驚きの表情を浮かべる。なおも魔力を流し続ければ、
『大体、ここ以外のどこで、君みたいな無能がまともに働けると思うんだ?仕事が辛いからと直ぐに逃げ出す人間など、どこも雇うはずがないだろう?』
「これは、…この声は、ケートマンか?」
「あんた!これ!?こんなの盗聴してたの!?」
(盗聴?)
違う、目の前で堂々と吐かれた暴言を「録音」していただけ。室長がケートマンに代わった直後、仕事の苛烈さにぶっ倒れ、「もう無理だ」と悟った時に、自分で作った「録音機」。だから、彼の声だけじゃなくて─
『は?ステラ、あんた、魔導師でもない雑用のくせに、わたしに意見する気?あんたの意見なんて、ここじゃ雑音以下なんだけど。黙っててくんない?』
「っ!?」
「…これは、君の声か?」
流れたミリセントの声に、長官の眉根に皺がよる。不快を現すそれに、だけど、心は全然、凪いだままで、
「…音声は他にもあります。ご希望でしたら好きなだけ聞いて頂いて構いません。…けど、つまり、これが私の魔導省での『日常』だったんです。…長官、私のことをお調べになったということですが、この件はご存じでしたか?」
「いや、これは…」
「そうでしょうね。…総務課の方にも何度か直接、辞職願は出してみたんですけど、突っ返されましたし、長官宛てに直訴の手紙も書いてみたんですけど、返事はありませんでした。…その後、特に調査もなく。」
「…」
「…これでも、一応、色々、自分なりに待遇改善に動いたつもりだったんです…」
なにせ、こちらは前世持ち。魔導省ほどではなかったけれど、十分にブラックと言って差し支えなかった会社で、ボイレコは必需品だった。会社を辞める妄想だって、それはもう、具体的手段まで調べまくったのだから。
仕事内容だけでなく人格まで否定され続けた場所に、もう、どれだけ言われようと戻る気なんてない。今この場で「音声」を流したのは、それを分かって欲しかったから。なのに─
「…これは、そうだね。確かに、こちらの落ち度。魔導省の管理体制については、一度、見直す必要があるね。」
「…」
「だけどね?だからと言って、君をこのまま手放すわけにはいかない。これでも、私は君の実力をかなり評価している。だから、君の意志を多少無視してでも、君には魔導省に戻ってもらうつもりだ。…引くつもりはないよ?」
「…」
諦めろという長官の眼差し。かつての職場のトップに「評価する」とまで言われて、本当なら、嬉しくてたまらないはずの言葉。だけど、今は、それが足枷にしか思えなくて、全部を捨ててしまいたくてたまらない。
(…もう、いいよね…)
だから、ずっと、自分でも認めたくなかった言葉を口にする。ずっとずっと、自らの負い目だった事実─
「…そもそも、私は魔導師ではありません。」
「なにを馬鹿な。魔導師でなければ、どうやって魔導省の職員になれたと?」
「…さっきの録音、聞かれたでしょう?私は、その魔導省の同僚にも魔導師と認められないくらい魔力が少ないんです。」
「…彼女の暴言には根拠がない。ただの誹謗だよ。」
「では、私が魔導師だという根拠は?何をもって魔導師だと定義されるんですか?」
「…魔術学園で魔導を修めた者は、」
「私、学校行っていません。十歳からずっと魔導省勤めなので。」
「…」
否定すれば黙り込んだ長官。言葉を探す様子に、「もういいでしょう?」という気持ちになる。
(魔導師なんて資格試験もないんだから、定義しようがないんじゃない?)
それでも、長官は口を開くことを止めない。
「…君は、魔導省で働いていたよね?それは、君が魔導師だからだろう?」
「それなら、事務や清掃には魔導師以外の方も勤務されていました。ああ、食堂の方もそうですね?」
「…君の給与は魔導師の給与体系に準拠していたはずだ。ミリセント達と変わらぬ額を受け取っていたんだからね。」
「…それは調べたんですね…」
だったら、何故、その先も調べないのかと疑問に思ってしまうが、結局、「私のことを調べた」というのは表面上のことに過ぎないんだなと分かって、少しだけ落胆する。もう、何も期待なんてしないと思っていたはずなのに─
「…私、一日、十五時間くらい働いていました。」
「まさか…」
「勤怠、…総務課で管理されている、スクロール室への入退室記録はお調べになりましたか?調べてもらえれば直ぐに分かることだとは思いますが、私の平均勤務時間は十五時間でした。」
「…」
「単純に考えて、他の人の二倍働いていたと自負しています。」
だって、それが上司命令だったから─
「ちなみに、年間休日は平均で二十日くらいです。特にここ三年は月の休日が一日ということもざらでした。」
「…」
それで漸く、同僚達と同等の給料。自分で言って、少し遠い目になってしまう。なんか、認められたかったからとはいえ、そんなに働いて、馬鹿みたいだと思ってしまったから。
その遠い目になっていた向こうで、ここにきて初めて聞こえた声─
「…聞いていた話とだいぶ相違があるようだが…、ふむ、今までのステラ嬢の主張が真実であれば、確かに、彼女は魔導師と呼ぶには足らぬであろうな。」
「魔導師長…」
自虐的な捨て身の主張だったけれど、魔導師協会の逆お墨付きを頂いて、漸く、身体の力が抜ける。ホッとして、ソファに沈み込みそうな身体を必死に支えた。
「…もしも…」
横から、今度は宰相閣下の声が聞こえた。そちらに視線を向ければ、
「…もしも、今、彼女の述べた扱いが、貴国の魔導師の扱いだと主張されるなら、我が国はステラ嬢の保護に全力を尽くそう。」
「っ!」
今更、ではある。ガンガルド魔導師長の言質を得てからの発言、ズルい気もするけれど、それが国同士の交渉なのだとしたら、もう、喜んで、全力で乗っかるしかない。
(ありがとうございます!ありがとうございます!)
弛みそうになる顔を必死で引き締める。長官も、もう、それ以上は言うべき言葉もないのか、黙り込んでしまった。これで解放される、そう安堵していたら─
「ふざけんじゃないわよ!」
「っ!」
「何よ!自分は魔導師じゃないなんて言い逃れ!そんな言い逃れで逃げ出そうなんて甘いのよ!十五時間がなに!?そんなの、就業内で仕事を終わらせられないあんたが無能なだけでしょう!?いいからさっさと戻って、あんたはあんたの仕事をしてりゃいいの!」
「…」
ミリセントの怒声も、宰相閣下の「保護」の言葉を頂いた後は、痛くも痒くもない。内心、「ふふん」て余裕かましてたら、それが伝わったのか、ミリセントの顔が真っ赤に染まった。
「ステラっ!!あんた!」
「止めろ、ミリセント。…それ以上、醜態を晒すな。」
「っ!ですが、長官!あの女!」
「…君の心意気はよく分かったよ。…そうだね、君をクビにするという話、あれは無かったことにしよう。」
「本当ですか!?」
「ああ。…君の言葉通り、君には君の仕事をしてもらうよ。…何時間かかろうが、それが十五時間以上であろうが、君の生産ノルマ、それを達成するまで、働き続けてもらう。」
「え…」
「君の言葉の通りだ。君が無能でなければ、何の問題もないはずだね?」
「そ、れは、あの、でも…」
「言っておくけど、私は君にムカついてる。…逃げられると思うなよ?」
「っ!?」
見る見る蒼褪めていくミリセント。今の彼女の生産ノルマがどれくらいかは知らないけれど、この様子だと、相当厳しいものが課されているらしい。そんな彼女を放って、長官がこちらを見据えた。
「…どうやら、君のことは諦めるしかないようだね、ステラ君。」
「…そうして頂けると助かります…」
「…本当に残念だな。僕は、本気で君を評価していたんだけれどね?」
「…ありがとうございます。でも、あのすみません。」
頭を下げれば、「仕方ない」と言葉を返された。そのまま、宰相閣下に退出を命じられる。どうやら、ここから先は「国同士のお話し合い」ということらしい。
場違い過ぎる場所からの解放、もう、ミリセントの視線がこちらを向くことはない。席を立ち、エリアスと連れ立って部屋を出る。背後で閉まる扉の音に、漸く、息がつけた。
30.乙女の秘密【終】
宰相閣下の部屋をお暇した後、今回の面会は非公式なものではあるけれど、文章として残しておく必要があるとエリアスに言われ、騎士団の詰め所へと連れてこられた。
エリアス自身は団長に報告があるからと退出してしまい、部屋に残されたのはエリアスの部下であるレドとキールと私の三人。二人は、エリアス直属の部下らしく、最初の挨拶の時から好意的に接してくれている。
そのレドの顔が、今は壮絶に歪んで─
「…ちょ、これ、酷いってか、すげぇムカつく。聞いてるだけで、相手半殺しにしたくなるくらい腹立つんだけど?」
「…確かにな。」
テーブルを挟んで向かいあうレド。そのテーブルに置かれたクォーツから再生される音声に、本気で憤ってくれている。キールも、離れた席で聴取?を取りながら、冷静に同意してくれるから、笑ってしまう。
「ステラ?これ、笑いごとじゃないからな?」
「うん、分かってる。けど、ありがとう。…私、友達も居なかったから、こんな風に怒ってくれる人もいなかったんだよね。」
「…」
「だから、今、ちょっと、二人の優しさを噛み締めてる。」
「やばい、喜びの閾値が低すぎる。」
「うん、そうかも。…その状況に居ると感覚鈍くなっちゃうけど、やっぱり、ちょっと異常な状況だよね、これ。」
「…それに気づけたなら、もう案ずる必要はないかもしれんが。」
「てか、俺らが見張っててやるから。ステラを絶対、二度と、こんな目には会わせない。」
「…ありがとう。」
優しい言葉に甘やかされて、目の前、再生を終えたクォーツを回収する。手に取ったそれを、レドが興味深そうに覗いてきた。
「…これ、このサイズで録音機なんだろ?すげぇもん作るよなー。」
「うん。でも、これ一個成功するまでにすっごい数失敗してるから、量産とかは無理かも。…石の裏にね、細かーい字で術式彫ってるんだ。」
「どれ?」
のぞこうとするレドに見えやすいように、ひっくり返した石を、レドの前に差し出す。確かめようとしたのか、レドが触れた手が、ちょど術式の起動に重なって─
『…お疲れ様。』
「っ!?」
「はっ!?えっ!?何!?今の副長の声!?」
流れ出した音声に冷や汗が流れる。
「っ!駄目!レド!手ぇ放して!」
「いやいや、ちょっと待って、これは、もうちょっと聞かないと!」
「駄目だってば!」
石を取り上げられてしまった。高く掲げられた石に手が届かない。その間にも音声は垂れ流しで、
『…今日一日、よく頑張ったな?…疲れただろう?』
「ぎゃーっ!!マジだ!マジで副長の声!!なのに、別人!!」
「返してー!!」
「…レド、止めてやれ。さっさとステラに返せ。…というか、俺の精神状態に良くない。今すぐ止めろ…」
「いやいや、キールも一緒に聞こうぜ!副長の甘い囁きとか!貴重過ぎる!」
「私のだからー!聞いていいのは私だけー!!」
『…ステラは偉い。よくやってる。』
「はは!本当だ!ステラって言ってる、こりゃ、ステラ専用だな!」
「返して!」
「いや、マジでやべぇ!これ、絶対、他の奴らにも聞かせて、…」
言いかけて動きを止めたレドの手、そこに握られた石を奪い返そうとして気が付いた。
(…あれ?)
「レド、なんで固まってるんだろう?」そう思ったのは一瞬、異変の原因は直ぐに分かった。固まったレドの視線の先、詰め所の扉が開いていて─
「…」
「…」
(…能面。)
能面が居た。能面と目が合った。と思ったら、エリアスだった。イケメンは怖いくらいの無表情でもイケメンなんだなと現実逃避してたら、
「…消せ。」
「っ!?」
地を這う重低音。
「…今すぐ、消せ。」
「だ、駄目!!」
「あ?」
「っ!私の!私のだから!こっそり一人で聞く用だから!」
「…今、この瞬間、レドとキールにも聞かれてるようだが?」
「気を付ける!もう、こんなことにならないようにするから!」
「…いいから、消せ。」
「あー!!ダメ―!!」
素早くレドに近づいたエリアスが、石を奪い取った。それを目の前に差し出され、目線だけで威圧される。「消せ」と─
「…本当に消さなきゃ、駄目?」
「…」
「…だって、これ、私のお守り…」
「…」
「…辛い時とか凹んでる時に、エリアスの声で励ましてもらったら、また頑張ろーって思えるから、…出来れば、消したくない…」
「…」
エリアスの手から回収したクォーツを握り締め、声の主に懇親のお願いをする。冗談ではなく、本当に心の支え、一生のお守りだから。
「…エリアス?」
「…」
エリアスが深い深いため息をついた。呆れたようなエリアスの態度に、「許された?」と気が弛んだ一瞬─
「…そんなものより、本物の方がよっぽどいいだろ?」
「っ!?」
「こんなもの、ステラにはもう必要ない。」
「っ!?!?!?」
耳元まで顔を寄せたエリアスの囁き声。思考が停止する。
「俺の声が聞きたいなら、好きなだけ、…いつでも聞かせてやる。…な?」
「っ!ひと!人前!エリアス!人前だよ!?」
「…なんだ、二人きりの方がいいのか?…レド、キール。」
「はっ!」
「あ!はい!出ます!秒で!」
上官の意をバッチリ汲んだレドとキールが、あっという間に部屋を出て行ってしまった。部屋にエリアスと二人、残されて─
「…さて、二人きり、だな?…お前の望んだ通り。」
「っ!?」
抱きしめられた。
「…ステラ、消す、よな?」
「っ!?」
追い詰められた状況。抱きしめてくれる腕の力強さと耳元で囁かれる声があれば、何でも出来そうな気がする。だけど、自分の体温で温められた石の中、ここに入っているものもまた、この世に二つと無い宝物で─
「ステラ…?」
「っ!!」
結局、エリアスの説得に私が折れたかどうか、私がエリアスの囁きボイスを消去出来たかは、私だけの秘密にしておく。
ただ、これだけははっきりわかっていること。
衝動買いも、たまには悪くない─
(終)
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