不器用なユノ

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不器用なユノ

 午後七時、自宅マンションの扉のノブに手をかけて、片桐は目をつぶった。 眉間の皺がここ一週間でさらに深くなったと部下に心配された。定年まであと十年ほどあるというのに、めでたく退職を迎えられなかったらどうしてくれよう。  外からマンションを見あげたときには、ベランダに洗濯物が干されたままだった。10月の夜、外干しする意味が分からない。  どうか今日は何事も起こっていませんように、と深呼吸して息を止め短く祈る。いっせいのせ、と勢いをつけて扉をひらく。 「うん?」  廊下の奥のキッチンから、なにやら焦げ臭いにおいがする。焦って靴を脱いで廊下へ一歩足を進めた片桐の体は小さくはねた。  照明が暗めで気づかなかったが、廊下のあちこちに水たまりができている。 「ユノ!」 「おかえり、片桐」  突き当りのキッチンから現れたのは、片桐の胸くらいまでしか背丈のない少年とも少女とも見える人物だった。 歳のころなら、13・4歳、肩あたりまである髪を後ろで結んでいる。白い半そでのシャツに、紺色の膝丈のキュロット、デニムのエプロンは明らかに長過ぎる。それが手から水滴を滴らせ、無表情のまま片桐の前に立つ。 「た、タオルを持って……いや、いい。こっちはわたしがやるから、ご飯を作りなさい」 「はい」  キッチンからのにおいは不穏さを増している。 ユノの首に装着されたチョーカーは「安全」のブルーのライトを灯しているのだが。 「ちなみに今夜は何だ」   キッチンへ戻りかけるユノに、靴下を脱ぎながら声を掛けた。 「おやこどん」 「卵は割れたのか」 「いいえ」   一礼するとユノはキッチンへと消えていった。片桐は、くらりとめまいがした。このままでは、白髪がよけいに増えるだけな気がする。 明日こそ、明日こそユノを「返品」してやる。つま先立ちでバスルームまでたどり着いた片桐は心に決めた。 「笈川っ!! モニターは終了だ。あいつは返品する、今日にでもに取りに来てくれ」   片桐が友人が社長を勤めるロボット製作ラボへ仕事上がりに怒鳴り込むと、とうの笈川は事務所でお茶を飲んでいた。 「あら、どうして? モニターとはいえユノは片桐の希望に沿った仕様にしたでしょ」  片桐とおなじく五十前というのに、テンパの長髪をピンクにそめている色白でふっくらした大学からの同級生、笈川。笈川はロボット工学を学びアンドロイドの会社を立ち上げた。会社は今や中堅どころだ。面会をしているオフィスには、見本の老若男女のアンドロイドが何体も並べられている。生身は数人しかいないのに、やたら視線を感じて息苦しい。 「どこがだ」 「場所を取らない大きさで、口数がすくなく、家事全般をこなせる」   片桐は男性事務員にすすめられた椅子にどかりと座り、出されたお茶を一気に飲んだ。 「最後の、最後のところが、規格外だろうが。奴が来てから我が家はさんざんだ。卵も割れないって、なんだよ、洗濯物は生乾きのままクローゼットにしまうし、掃除をさせれば床が水浸し、それに」  笈川は、片桐のクレームをはいはいと聞きながら、痩せた男性事務員にお茶のお代わりを頼んだ。 「元気じゃん、片桐」 「げ、元気なわけないだろう!?」   片桐の語尾は声がひっくり返ってしまった。 「毎日が気が気でないんだよ。おれは、もっと静かに……静かに暮らしたいんだ」  二人のあいだに短い沈黙がながれた。 「泉美(いずみ)のご法事はするの? 年明けに」   二杯目の茶に口を付けた片桐は首を横に振った。 「泉美にもおれにも、付き合いのある親族なんていないから、やらない」   そっか、と小さくつぶやいた笈川は、クッキーの個包装をやぶいた。 「今年は一緒に花見が出来なくて寂しかったよ。持病のあるわたしより、泉美が先に行くとは思わなかった」  笈川に比べて半部の体の厚みしかない事務員が片桐に目配せして、さりげなくクッキーの箱を片付ける。社長の体がこれいじょう大きくならないよう配慮してだろう。  片桐がパートナーをなくしたのは、年の初めだった。いつも通り、お互いに朝部屋を出て次に泉美に会ったのは病院の霊安室だった。 突然死だった。 「顔色、ちょっと良くなったじゃない。ユノと暮らし出してから、生活にメリハリついたんじゃない?」   言われて片桐は笈川から視線をはずし、自分の頬をひと撫でした。 「おれの生活を気遣う笈川には感謝する。だが、あれはナシだ。返品する」  ユノが来る以前の片桐の暮らしは、ただ職場と住まいの往復だけだった。日々、泉美の写真やフォログラムを繰り返し見ては、あまりに急だった別れを恨んだ。 「そんなあ。せっかく泉美にもそれとなく似せて作ったのに」 「それこそ、要らぬ気遣いだ」  性別のないアンドロイドのユノは、どことなく泉美に似ていることに、とっくに気づいていた。けれど、つんとした鼻や少し目じりの下がった黒目勝ちの瞳も、無表情でいられるとなんだか泉美との思い出を台無しにされているような気持になる。 「まだ十日くらいよ。新社員だって試用期間が3ヶ月あるじゃない。それくらいは使ってみて」 「人事課勤めのおれでも、採用しない」 「ユノには、最新のAIを搭載しているんだよ。一緒に生活していくうちに、学習して片桐の生活をサポートできるようになるから。それに、ユノと同じ型のアンドロイドのモニター、残っているのは片桐だけなんだ」 「はあ?!」  笈川は顔の前で両手を合わせて、片目をつぶって見せた。 「みなさん、AIが育つのに付きあってくれなくて。お願い、データが取りたいのよ、お願い」  それはそうだろうと、片桐はあきれてため息をついた。 「たしか、笈川製作所の次世代の期待の星になるって、言ってたくせに」 「今だってそう思っている。ユノタイプは、一緒にやって学習させるのが効果的だって言ったでしょ。面倒がらずに、ユノをサポートしてあげて」  それこそ逆だろうと、片桐は眉間にしわを寄せた。 「とにかく、ひと月くらい同居してみて。成功の暁には、それ相応の報酬を支払うって約束は守るからね」  片桐は昨夜の焦げたところと生なところ半々、おまけに殼入りの親子丼を思い出していた。あれをまだ続けろというのか。片桐は肩を落とした。  笈川に拝み倒され、片桐は渋々と笈川のラボを後にした。八時近い電車の吊革につかまって、川をわたる電車の窓から立ち並ぶマンションやアパートの明かりを見た。  あの中にそれぞれの家庭があり、別々の人が住んでいると思うと、どこか不思議な気持ちになる。そして、どの窓の中にも自分が一番愛した人がいないという絶望感も味わうのだ。  いつしか窓には雫が線を引き始めた。  駅に着くと、雨は本降りになっていた。傘を持ってこなかった不運さを舌打ちして改札を抜けると、駅舎の出入り口の扉のそばに、小さな人影があった。初秋の冷たい雨が降る中、半袖に膝丈のキュロット姿のユノは寒々しく目立っている。 「ユノ?」  片桐の声に気づいたのか、ユノが顔をあげた。肩に買い物バッグをかけている。商店街で買い物をした帰りらしい。 「どうしたんだ、こんなところに」  ユノは片桐に傘を差し出した。 「GPSで片桐が帰るの分かった」  片桐のモバイルのGPSをユノは捕捉できるようになっている。便利といえば便利、四六時中監視されているようで、窮屈といえば窮屈だ。 「あ、ありがとう」  ユノは小さくうなずいた。さっきからずっとユノのチョーカーは赤紫色に明滅している。危険と安全が半々らしい。傘を片桐にわたすとユノは踵をかえして雨の中へと出ていく。 「ちょっと待てっ」  片桐はユノの後を追いかけたが、ユノは人波をかいくぐり先へと行く。必死に追う片桐はユノを止める方法を思い出した。 「止まれ!」  ユノは突然動きを止めた。マスターの声でだけできる強制停止だ。5秒間動きを止められる。ようやく追い付いた片桐はユノを傘の中へ入れた。 「ユノは防水加工してある」  強制停止が解けたユノは片桐を見上げた。ユノのチョーカーはまだ赤みがつよい。片桐はユノから買い物バッグを外すと、自分の肩にかけた。 「片桐が濡れる」 「大丈夫だ」  二人の会話に、道行く人が振り返る。アンドロイドが生活に溶け込んでいるとはいえ、少年少女型は周囲からあらぬ誤解を受ける危険性がある。チョーカーがアンドロイドと分かるように光るのは、トラブル回避のためだ。 「何か買い物をしてきたのか」  片桐はそろそろと言葉を選んでユノに話しかけた。 「おかず、ユノは作れない」  片桐は思わず首肯する。 「そうじ、できない」  廊下は水たまりができるし、リビングはものが散乱している。 「せんたく、できない」  乾燥機を使えばいいものを、ユノはなぜか外干しにこだわる。  ついさっきまで、同様のことを笈川に言っていたくせに、自身の欠点をあげるユノに片桐は聞いていていい気がしなかった。 「教える、こんどから教える」  ユノのチョーカーが徐々に青色になってきた。片桐は車道側を歩き、ユノに車からの水しぶきがかからないように気を付けた。ユノの足元は、スニーカーだ。長靴を買った方がいいだろう。長すぎるエプロンも手直ししたほうがいいだろうし、季節に合わせた服も揃えてやった方がいいかもしれない。  いままでユノの行動にばかりが気になり、ユノ自身には目がいっていなかったようだ。片桐はわずかばかり反省する気持ちになった。  ようやく部屋にたどり着くと、片桐のコートやズボンのすそはすっかり雨に濡れてしまっていた。 「先にバスタオルを取ってきてくれ」  ユノは靴を脱ぐとバスルームへかけていった。廊下に小さな足跡がついていく。これはあとから拭くしかないか、と片桐は早く休むことを諦めた。ユノはすぐにタオルを持って玄関に戻ってきた。 「あれ?」  ユノの首元が赤く明滅している。片桐は思わず周囲を見渡した。危険なものはこれといって目につかない。  と、ユノははでな音を立てて倒れて片桐は悲鳴を上げた。 「バッテリー切れかーっっ!!」  なぜかユノは自分で充電ができな仕様だった。片桐の家に来て倒れたのはこれで二度目だ。  放っておくのはなんだか目覚めが悪い。ユノの腕からタオルと取ると、片桐は足だけ拭いてユノを抱き上げリビングへ行きソファに寝かせた。  ユノの髪から水気をふき取り、うなじの後ろをスライドさせて専用ケーブルを差し込み充電を始めた。 「困ったな」  いかなアンドロイドとはいえ、服を脱がせるのには抵抗がある。苦肉の策として、水を吸った靴下とデニムのエプロンだけをそろそろと外し、あとはバスタオルでユノの体を包んだ。  片桐が風呂からあがると、ユノは目をつぶり、体を胎児のように丸めている。そうしていると、本当の子どものように見えた。  充電はおよそ三時間ほどだが、朝までスリープモードにしたままでも差し支えない。  ユノのタイマーをセットすると片桐はキッチンのフライパンにあった焦げたしょうが焼きと、買い物バッグにはいっていた、ほうれんそうのおひたしやコロッケをテーブルに並べて遅い夕食をとった。  ――おかず、ユノは作れない。そうじ、できない。せんたく、できない。  笈川のところで自分でも言っておきながら、ユノの口から同じことを言われると、どれだけ酷いことを口にしたか分かる。アンドロイドとはいえ、片桐は年端もいかない子供をいじめたような気持ちになった。 「後味が悪いだろ」  食器をシンクに持っていくと、せめてユノのエプロンの丈くらいは直そうと思った。笈川から渡されたユノの服は二着ずつある。雨に濡れた分はすでに洗濯機の中だ。もう一着のエプロンをユノの鞄から取り出すと、ソーイングボックスを探した。 「たしか、泉美(いずみ)の仕事部屋だな」  泉美が亡くなって以来、ほとんど足を踏み入れていなかった。ユノが来てからは、荒らされるのを用心して扉に鍵を付けていた。リビングのチェストから鍵を持ってきて開ける。四畳半ほどの狭いスペースに作業用の机と、机の上には画材が並べられてある。  イラストレーターだった泉美は、仕事のほとんどを自宅でしていた。何色もの色鉛筆、マーカー、カラーインクにパステル。様々な画材が使い勝手のいいように配置されている。泉美はアナログで絵を描いていたから、道具が多かったのだ。  亡くなった日は、新年のあいさつを兼ねて雑誌の編集者と打合わせをすることになっていた。打合わせ先の喫茶店で心筋梗塞で倒れ帰らぬ人になったのだ。  部屋の中にはまだ泉美の気配が残っているように感じた。付箋のつけられた本や、試し塗りされた画用紙、椅子に乗せられたくぼんだクッション。泉美は今たまたま外出しているような気がする。マンション下のコンビニまで、ちょっとアイスクリームでも買いにでも行っているような……。  片桐は頭を一つふると、クロッキー帳や資料が詰まった棚の下から木製のソーイングボックスを見つけてリビングへと戻った。  翌朝、片桐は出勤時間ギリギリに飛び起きた。 「おはよう、片桐」  ユノは、慌ただしく出かける準備をする片桐に挨拶をした。片桐はユノの服装をネクタイを絞めながら横目で確認した。  ユノは電源が入ってから着替えたらしく、シャツはミントグリーンのものになっていた。エプロンは、昨夜片桐が悪戦苦闘してボタンを付けなおし、長さを調節したものを身に着けている。 「じゃあ、行ってくる」  玄関で靴を履く片桐にユノは小さな包みを差し出した。どうやらおにぎりらしい。 「お弁当」 「お、おう」  初めてのことに、片桐はうろたえ気味に答えて受け取った。ユノは片桐の絆創膏だらけの指先を見ているようだ。 「エプロン、ありがとう。片桐」  ユノは片桐を見あげて、ほほえんだ。片桐は思わず目を見張った。家に来て、初めて見るユノの表情だった。 「いってきます」  ユノの笑顔は嬉しいと感じるが、心の片隅では今日はどうか大きな失敗はしないでくれ、と片桐は思った。  胸に抱いたおにぎりは、じんわりと温かった。  その日の夕方、帰宅した片桐はユノと上がり框に並んで座り靴を磨いていた。  靴クリームを塗っただけの靴が三足、並べてあったからだ。笈川の助言に従い、ユノの不手際にイラつく前に、一緒にやってみようと思ったのだ。 「ユノ、おにぎりごちそうさま」  ユノはきょとんとした表情で片桐を見た。その表情は少年少女そのもので、片桐は見つめられると気恥ずかしくなったが、思い切って礼を言った。 「ありがとう」  頬の熱さや、やたらと跳ね回る心臓に片桐自身がうろたえた。たかが、機械人形に五文字を言うだけだというのに。 「……はい」  ユノはいたって冷静で、片桐に教わったとおりに靴を磨いている。ありがとうなんて、泉美にだって言ったことなかったんじゃないか。  片桐は記憶をたどった。家にいる泉美が家事をやって当たり前、泉美より収入の多い自分はやらなくてあたりまえ。そんなふうに疑問にすら思わなかった。  結果、残された片桐は家事がまともにできなかったのだ。笈川が心配して、ユノのモニターを押し付けてきたのも、仕方ないと言えば仕方ないことなのだ。  そういえば、ユノが来る前の室内はずいぶんと荒れていたと片桐は思い出した。持ち帰り弁当やコンビニから買ってきた弁当の箱やビールの空き缶がテーブルや床に散乱し、クリーニングから帰ってきたシャツやズボンがソファの上に投げ出されていたのだ。  できない、できないとユノを責めていたが、今は以前より数段片付いている。  片桐はユノと一緒に靴を磨き上げた。  靴磨きを終えたあとに、片桐はユノと一緒にキッチンへ立った。包丁を手にして、先日ユノが失敗した親子丼を作ってみた。やったことがないだけで、料理なんて簡単だろうと片桐は卵を割った。 「片桐、へた」 「うるさい」  ユノが作った親子丼と五十歩百歩の出来栄えだった。  それからの片桐は、ユノとまさに二人三脚で家事を進めるようになった。  土曜日か日曜日には、ユノと大物の洗濯をした。  ベッドのシーツやバスタオルを、ユノと天気の良い日には外に干す。  秋晴れの小春日和、夕方までにはだいぶかわくだろう。それでも湿気は残るだろうから仕上げに乾燥機を使うことを教えないと、と片桐は思った。  風にゆれる真っ白いシーツの横に、四階のベランダの手すりにつかまって目をつぶるユノがいる。 「きもちいい」  何気ない言葉に片桐は思わずユノを振り返って見た。AIには、感覚的なことがわかるのだろうか。 「こういうの、きもちいいって片桐は言う」 「まだ言っていないけどな」  ユノの頭をひとなでして、洗濯カゴをかかえて室内に戻る。そういえば、ベランダで遠くを見ている泉美を覚えている。  こんな秋の日に。休日、いつまで寝ている片桐を起こしに来た。散歩に行こう、と。片桐が断ると、泉美はベランダへ出てしばらく室内へ戻ってこなかった。  泉美の希望に何回応えただろうか。半分もあっただろうか。  ユノの姿が泉美と重なる。片桐は不意にこぼれた涙をぬぐった。今日は掃除もユノとやろう。それから散歩に行こうか。 「ユノ、もう入れよ」  ユノは風に乱れた髪を結いなおしながら、うなずいた。 「今夜はシチューを作ってみよう」  片桐がウィンナーを炒めながらユノに話しかけた。ユノと片桐は朝食と弁当を作っている。 「シチュー、こないだ焦がした」  ユノが卵をそっと器のへりにぶつけて、殻にヒビを入れる。慎重になりすぎているのか、より目になっているし、チョーカーは赤く光っている。  片桐はハラハラしながら見守っていると、ユノは器に卵を割り入れた。 「片桐、できた」  ユノが自慢げに卵を入れた器を片桐に見せる。それを受け取り、片桐は玉子焼きを作る。 「よくできた。えらい」  褒められるとユノは得意げに笑い、チョーカーは青く澄む。 「材料の買い物、行って来てくれ。こんどは成功させよう」  ユノは大きくうなずいた。  一緒にキッチンに立つうち、片桐の料理の腕は少しずつ上がっていった。今では、手作り弁当持参で出勤する日が多くなった。弁当はユノの不格好なおにぎりのときもある。  もうユノが来る以前のように外食やコンビニ弁当に頼ることはめっきりと減った。  ユノは生乾きの洗濯物を、乾燥機に入れるようになった。  そうじのとき、ユノはなんでも水拭きにするのはやめて、モップや掃除機を扱えるようになった。毎日の整頓やモップかけはユノが担当し、高いところの埃を落としたり、水回りは片桐が受け持った。 「あんまり作りすぎないようにしないとな」  食べるのは片桐一人だ。作りすぎると、何日も同じ料理を食べるはめになる。 「ユノも食べられたら、いいんだけどな」  ユノがただ向かいの席に座るだけでなく、と片桐は思った。  一人と一機の共同生活は一か月半が経過した。  季節はゆっくりと冬へと移っていく。 「ただいま」  片桐は玄関でマフラーをはずした。ユノの出迎えがない、と足元を見るとユノの靴がなかったことで、ユノが定期点検で笈川のもとへ行ったことを思い出した。 「あ、そうだった」  玄関は暗くなると自動で灯りがつくから忘れていた。リビングへ行き、自分で照明のスイッチを入れる。  見慣れた部屋が、なんとなくがらんとして見える。泉美が亡くなった時のことを思い出して足がすくむ。 「広さは変わっていませんよ、と」  片桐はため息をひとつつくと、着替えて夕飯を作ろうと思った。  翌日、ユノを迎えに笈川のラボへ行くと、笑いをこらえている笈川が迎え出た。 「なんだよ、ユノになにかあったか」 「……ない、ない。ちゃんと正常だったわ。ここにサインね」  プルプルと体を震わせながら、専用のペンを添えてタブレットを片桐に差し出した。 「なんだよ、気持ち悪いな」  突っ返されたタブレットを胸に抱えて、笈川は堰を切ったように笑い出した。 「だから、なんだよ!」  ひとしきり笑ったあと、笈川は目じりにたまった涙を拭いた。 「ユノのこと、大切にしてくれてて、嬉しかったのよ。だって、ユノにかわいい恰好させてさ」 「それはっ」  片桐が言い返す前に、ユノが笈川の後ろからひょっこりと顔を出した。  ユノはダブルのベストに膝丈のハーフパンツ姿だった。どちらも緑をベースにしたチェック柄だ。 「こーんなの、どこから買ったのよ」 「ネットで一式セットのを買った。子供の服なんてわからん」  片桐がぷいと横を向くと、ユノはサンドベージュ色のオーバーを羽織って帰り支度をした。 「シャツもパンツも新しいし。それに靴まで」 「靴は片桐とみがく」  ユノの応答に、ふふふと笑いながら笈川は片桐を見た。 「あんまり変な格好で、電車に乗れないだろうが」 「だんだん可愛くなってきたでしょ?」 「そんなわけあるか。異常がないなら、さっさと帰るぞ」  笈川は含み笑いをしながら、ユノと片桐を見ている。 「そうだ、笈川。泉美の……法事とまではいかないが、春あたりにちょっとした集まりはしようと思う。泉美の仕事関係者には迷惑をかけたわけだし」 「それはいいわね」  笈川がゆったりとほほ笑むと、署名して返されたタブレットの表示を点検しながら笈川は尋ねた。  と、ユノのチョーカーが、一瞬かすかに赤くなった。片桐はユノを見たがいつもどおりの無表情だ。 「何か、要望があるなら言って欲しいわ」  見間違いだったかもしれないと、片桐は視線を笈川にもどした。口元に指を当て、片桐は少し上をみてから言った。 「あ……飲み食いできるように、ならないか」 「何で?」 「何でって、食事さ。食事するとき、おれだけ食べて向かいの椅子にユノがただ座っているっていうのは、なんだか落ち着かない」 「スリーブモードにして、別室にでも片付けてたらいいじゃない」 「片付けって、製作者のくせに冷たいことを言うもんだな!」  思っていたよりドライな返答に片桐はおののいた。 「片桐はユノと一緒に食事がしたいのね。いやあ、片桐がそこまでユノを気に入ってくれてよかったわあ」  笈川はユノを背中から抱きしめた。小柄なユノは笈川の二の腕に挟まれ埋没する。  なんだか笈川の策にまんまとはまった気がして、片桐は頬が熱くなる。 「いいから、頼んだぞ」  片桐は笈川の腕の中からユノを引っ張りだし、ラボを後にした。  帰りは夕方という時間帯にあたり、電車は混んでいた。座席はすでに埋まっていて、片桐は吊革につかまりユノを隣に立たせた。  片桐はついさっき、ユノが一瞬だけチョーカーを赤く光らせたことが気になった。単なる誤作動みたいなものだったのか、確信が持てない。  アンドロイドが暮らしに馴染んで久しい。今、電車の中にも数体のアンドロイドがいる。視覚障がい者をサポート、老人の付き添い、確認できないがシッターのアンドロイドもいると思う。  それからすると、ユノは特殊だろう。家事代行ではなく家事支援、人が手伝わないといけないアンドロイドだ。  ずいぶん可笑しな存在だ。そんな思いを巡らせてばかりいたら、車内はいっそう込み合ってきていた。  ユノを見ると、チョーカーが赤く発光し始めていた。押し寄せる人に危険を感じているらしい。 「ユノ」  片桐は自分の体に捕まるようユノの手を引き寄せ、あいた腕でユノの背を抱いた。ユノは片桐の体に手をまわし胸に顔を埋めた。発光色が赤から徐々に青に変わってゆくのを確かめて片桐はほっとした。  満員の車内から、遊園地帰りらしい女の子の声がした。「たのしかったね。またつれてってね」  たまにはユノと遠出をしてみるのもいいかな、こんど電車でのんびり出かけてみようと片桐は思った。  師走に入ると、片桐は仕事がたてこみ帰宅が遅くなった。加えて、ささやかだが泉美のイラスト集を作ることにした。春の集まりのときに、参加者へ配ろうと思ったのだ。  ユノは一人で出来ることが増えて来て、帰宅すると夕食が準備されていることが多くなった。とはいっても最後のひと手間は片桐がやらなければならないのだが。  少しは家事をユノに任せて、イラスト集を作る作業に帰宅後の時間をあてられた。 「片桐、もう寝る時間だ」  ユノに声をかけられても、泉美が描き残したものを見始めるとなかなかやめられなかった。  パステルや色鉛筆、水彩絵の具で塗られたファンタジー世界の住人たちは泉美が残していった命の証だ。  見ているうちに、片桐は涙していた。  急死した泉美には、もっと描きたいものがあっただろうと、思ってしまうのだ。  ユノはキッチンの小さな椅子に座り、片桐を見つめていた。チョーカーは紫色だった。  イラストの選定もだいぶ進んだ日のこと、片桐は夕食後、お茶をいれるユノに声をかけた。 「リビングにユノのソファを置きたと思っている。充電やスリーブのときに、いる場所があればいいだろう」  ふだんユノはリビングのソファを定位置にしている。電源を取りやすい位置にあったソファを使っているというだけで意味はないが、そこは泉美の定位置でもあった。ユノがその場所を占領するのは、どこか抵抗があった。  それに、ユノへのクリスマスのプレゼントとして新しい居場所を設けるのは、うってつけのことだと思ったのだ。もうすでに何種類か目星もつけてある。  ユノは対面式キッチンの向こう側から片桐を見ている。 「だったら、ユノ、部屋が欲しい」 「部屋?」  年頃の子どものような返答に、片桐は面白みを感じて吹き出した。 「部屋って、うちには空いている部屋はないだろう。そうだな納戸を片付ければ……」  ユノは湯呑を運んできて片桐の前に置いた。 「リビングのとなり。部屋、使ってない」  片桐は持ち上げた湯呑を落としそうになった。 「だめだ、あそこは泉美の部屋だ」 「泉美、いない。つかってない」  片桐は不意をつかれて言葉を失った。泉美がすでにいないことを目の前に突き付けられた片桐は、視線を落とした。 「いや、だめだ」 「なぜ? 使ってない」 「使ってなくてもだめだ」 「なら、何時からなら、いい?」 「何時からって……」  座ったままの片桐はユノから見下ろされて、たじろいだ。高性能AIは人間の心の機微までは図れないのか。 「泉美が亡くなって、まだ一年も経っていない」 「二年経てばいいか?」  片桐は頭を振った。違う、そうじゃないと、思わずユノの手を掴んで隣に座らせた。 「泉美はおれの大切な人だった。今も思い返さない日はない。それは何年経っても変わらないことなんだ」  ユノはうつむき、片桐に握られた手だけを見つめていた。 「人は、忘れる」  ふうっと片桐を見つめたユノのチョーカーは赤く発光し、それきり首はがくっと落ちた。 「バッテリーか……」  片桐は顔を両手でおおった。  人は、忘れる。  ユノは片桐に体をあずけ、目を閉じていた。  翌朝、ユノは前夜のことはなかったかのようにふるまった。毎朝のように、二人でキッチンに立ち、片桐は弁当持参で出勤した。  昨夜のことは、たんなるバグだったのだろうか。初期のAIは、バグのせいで重大なミスを犯すこともあったと記憶している。けれど、そんな出来事があったのは片桐が子供のころの話だ。  今回のことは、重大と位置付けるものではないのかも知れない。少なくとも、生命を脅かされたのではないのだ。  命は脅かされなかった。けれど、精神(こころ)はどうだろうか。AIは理解することはないのだろうか。亡くなった人を悼む気持ちを。  その晩、帰宅した片桐は玄関までユノが迎えに来ないことに違和感を覚えた。ユノは何を差し置いても、玄関まで片桐を出迎えるのだが。 「ユノ?」  どこからか物音がする。まるで大掃除するような音がリビングの扉の向こうからする。大量の物をプラスティックのゴミ箱へ無差別に放り込むような音だ。 「ユノ、どこだ」  足早にリビングへ飛び込んだ片桐が見たのは、泉美の部屋の扉が大きくひらき足の踏み場もないほど散らかされたアトリエだった。 「何しているんだ!」  ユノは片桐の声に反応すことなく、アトリエの物を次々にゴミ箱へ放り込んでいく。クレパス、ペン、カラーインク、何本もの筆。 「止めるんだ、ユノ!」 「片付ける」  なおも片桐を無視してユノは作業を続ける。小さな額に飾った泉美の作品も、スケッチブックも、無差別に片端からゴミ箱の中へと入れていく。  片桐はユノの背後から腕を掴んだ。振り返ったユノのチョーカーは今まで見たことがないほど、赤く光り、見たことがないほど目を見開いていた。 「片桐、泉美いらない。いつも悲しい顔する」  言われて片桐はユノの腕を掴んだ力が抜けた。ユノは腕を振りほどき、なおも執拗に泉美のものを捨てていく。 「……止まれ!」  片桐の声にユノは止まった。片桐は素早くユノのうなじを開け、緊急停止のスイッチを押した。  ユノが倒れるのと同じくして、ゴミ箱に入れられた画材も床に散らばった。  片桐は、目を開けたままま床に倒れているユノを見下ろした。 「どうして」  片桐は力なくユノの横に座りこんだ。  つい先日訪れた笈川のラボへと片桐は一人で出向いた。 「……というわけで、それ以来ユノはスリープ状態、ということね」  笈川は片桐の手土産のマドレーヌを何個か目の前に並べた。 「AIに人の心は分からないものかな」 「そうね、人ではないから。でも人間だって、共感性の強弱は人それぞれ。AIもまたしかり」 「そんなばらつきがあるのか」  コーヒーを運んできた男性事務員が、カップを置くのと引き換えに自然な動作でマドレーヌを一個だけ残して片していった。 「住む環境や、どんな人からどんな言葉をかけられるかによって違ってくるって最初に説明したよ?」  そうだったと片桐は思い出した。ユノのモニターを決めた辺りは、泉美を失った悲しみでろくに人の話など耳に入らなかったのだ。 「泉美の部屋を全部消そうとしていたようだった。画材もスケッチブックもひとまとめにゴミ箱に入れて。初めてユノが怖いと思った」  笈川は目の前に置かれたコーヒーカップに視線を固定して、腕を組んだ。 「さすがにモニターを続けて欲しいとは言えないね。やめてもいいよ。今日これからすぐに社員を回収に向かわせるし」 「回収したら、ユノはどうなるんだ」  コーヒーを一口飲んでから笈川は答えた。 「今回の暴走、というか不調の原因を調査するし、そのあとは処分する」 「……処分っ」  片桐は声を詰まらせ、手指を握りしめた。 「ユノは破棄する。ボディもメモリーもリセット」  笈川は何度も口にしてきた言葉なのかも知れない。片桐は落ち着かない気持ちになった。笈川は事務員にタブレットを持ってくるよういいつけた。 「ここにサインすれば、モニターは終了。ユノは回収します」  出されたタブレットを目の前にして、片桐はじわりと汗をかいた。ユノとの生活を終わらせれば、もう手間のかかる同居人に振り回されることはなくなる。  一人の部屋に帰って、泉美を思って静かに暮らせる。数か月前に理想としていた暮らしに戻れる。  けれど、それでいいのか。  片桐はユノの小さな手の感触を思い出していた。この手を離せば、ユノはもう片桐のもとへは帰らない。 「片桐」  声を掛けられて、片桐は歯を食いしばっていたことに気づいた。 「いちど、ユノと話したい」  片桐は椅子から立ち上がると、コートを着て通勤バッグを手にした。 「そうしといで。もしかしたら」 「もしかしたら?」 「新しいAIの可能性が分かるかも」  笈川は残りのマドレーヌをゆっくりと口に運んだ。  ユノと何を話せばいいのだろうか。  泉美の部屋をめちゃくちゃにした理由を問いただす?  なぜ、どうして、と問い詰めてユノは何かしら言い訳をするだろうか。  部屋につき、リビングの扉を開けるとユノは片桐がユノのために購入した籐製の大きな円形のソファに横たわっている。  片桐が新しく買い足した、コットンの長袖のシャツにひざ下まである細身のパンツに、ふわふわの長靴下を身に着けて、ユノはソファのうえでスリープモードで眠っている。  片桐は、ユノの耳の後ろを押してスリープモードを解除した。 「ユノ」  ゆっくりと目を開いたユノに片桐は声を掛けた。 「片付ける」  跳ね起きたユノは、先日の続きを始めようとした。片桐はユノを押しとどめて、ソファに座らせた。ユノは最初落ち着きを失い、部屋を何度も見渡すように視線を振ってから、ようやく片桐を見た。 「泉美、いない」 「そうだな」  ユノの隣に片桐は腰を下ろした。 「いないのに、いる」  ユノは片桐の胸をまっすぐ指さした。 「そこに」  チョーカーは青。いたって安全だ。ユノは暴走していない。  片桐は指さされたとこに手を当てた。  AIは人の心の機微を読めない……そんなことはなかった。ユノは【わかっている】のだ。 「泉美、いない。ユノ、いる。ここに、いる、のに」 「そうだ、ユノはここにいる」  片桐はユノの手をそっと握った。小さく、温度はあまり感じられない手だ。 「ユノは人は忘れるって言ったけど、おれは忘れない。泉美のことは忘れられないと思う」  うつむいたユノは無表情だ。まるで家に来た時ばかりのころのように。 「でも、ユノの手をもう離すことはできないよ」  笈川からの帰りの電車で思った。電車の窓から見える無数の窓の中の一つに、自分を待つ者が今はいるのだ。 「ここに、ユノもいるよ」  片桐はユノの手を自分の胸に当てた。  ユノの体がかすかにふるえている。 「ご、ごめ、んなさい」  ユノは六文字の言葉をぎこちなく声にした。それは片桐が、ありがとうの五文字を口にした時のように。 「うん」  片桐はほほえんだ。  チョーカーは何故か、かすかに赤く光り、うつむいたユノの頬をうっすらと紅色に染める。  まるで恥じらうように片桐と視線を合わせなかった。 「片桐……」  あまりに小さな声に、ユノの口元に耳を寄せた片桐の頬にユノは口づけた。  AIの可能性と笈川は言った。  ユノのAIは何かを見つけたのかも知れない。  片桐はユノを引き寄せ抱きしめた。 「ずっと一緒だ」  ユノは片桐の胸に顔をうずめた。満員電車のときのように。  それから、一人と一機はずっと一緒に暮らした。  ずっと一緒に。  片桐が亡くなるまで。  片桐の死と同時にユノは動かなくなった。  のちにユノは、奇跡のAIと呼ばれた。  けれどそれは、片桐とユノが過ごした時間を説明するには、なお足りない言葉だった。
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