3.慈雨

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3.慈雨

   本日はしとしとと雨が降っていた。  雨があまり降らないこの国では恵みの雨だ。  今頃は農作業の民が喜んでいる事だろうと、宮殿のような屋敷の一角で、一人の若い男が思いを巡らす。  男はラグに胡座を組み、複数ある大きなクッションの一つに腕を乗せて寛いでいた。  肩より伸びた癖のある黒髪を一つに束ね、深い蒼の瞳を持つ目を細めて何をするでもなく雨を眺める。 「……何処に居る……」  眼光鋭く眉間にシワを寄せた男の名はライル・ナジャーハ。  言わずもがなこのナジャーハ家の跡取り息子だ。  とは言え、数月前までは跡取りはライルの弟であった。  ところが意識を取り戻し体力が落ちている事以外障害も無いと分かったとたん、跡取り息子の座に勝手に戻らされた。  弟は気を悪くしたかと思えば「これで肩の荷が下ります」と心底安堵した様子であった。  長い間の寝たきり生活で落ちてしまった体力は、本人の気質からか無理に無理を重ねて一月も経たずに取り戻した。  そして努力を惜しまない彼は、一年の空白期間を物ともせずに取引先との信頼も取り戻したのだ。  そんなわけで、今ではすっかり皆から認められる跡取り息子である。  まさに奇跡の復活、と言えるだろう。しかし、当の本人の顔は険しい。  元々あまり笑わない険しい顔の人物であった為あまり表情は当てには出来ないが、とにかくライルは不満を抱えているのだ。 「何故こうも見つからないのだ……」  ライルの嘆きは誰に聞かれる事もなく雨音に消される。  彼は探していた。目を覚まして自由に動けるようになってから、目が回るほど忙しない日常の合間を縫って探し続ける。  彼の心を占めるのはただ一人。顔も知らない人間だ。  分かっているのはリクという名とおそらく若い男だろうという事だけであった。 「リク……」  ライルが体が動かせなくなった一年間。  まぶたすら開けられずに意思疎通が出来なくなり、皆は次第に手のかかる人形のように扱いだしたのをライルは覚えている。  そう、ライルは寝たきりの間も意識はあったのだ。  しかし、意識があるからこそ苦痛だったとも言える。  当たり前に出来ていた日常動作が一切出来ず、下の世話までされる始末。成人男性が何も出来ない赤子のように扱われるなど屈辱でしかなかった。  意識の浮き沈みを繰り返す中、腫れ物を扱うように慣れない手付きで体を拭かれたり更衣をされたのを覚えている。  それは次第に雑になっていき、本人の前で遠慮のない不平不満をもらすようになる。  それを聞いたところで文句も言えず、怒りは情けなさに変わり、己が生きている意味を失っていく。  いつまでこの意味のない人生は続くのか、そう途方に暮れていた頃だった。 『こんにちはライル様』  久しぶりに名を呼ぶ者が現れた。  知らない声のその人物は、一つ一つの動作をライルに報告しながら体に触れる。まるで話しかけるように。  丁寧に、しかし手際よく体を綺麗にして労いの言葉をくれる。  久しぶりに人として扱われたようで、死んでいた心が蘇っていく。  それでも、きっと今だけだろう。ライルが目覚める可能性が低いと分かれば、この人物も周りに感化される。  手がかかるだけの置物のように扱い、事務的に作業をこなして、時にライルを嘲笑うようになるだろう。  もうこれからの人生に期待などしてはいけない。希望を持てば持つほど惨めになるだけなのだから。  だから期待などしない。これからも人として扱ってほしいなど、手がかかるだけのお荷物が望んではいけないのだ。  そう、諦めていたのに…… 『髪が伸びてきましたね。僕が切っても良いでしょうか』 『あ、背中が赤くなってる。体を横に向けますね』 『今年は果物が豊作らしいです。ライル様は甘い物は好きですか?』  すべての記憶を鮮明に覚えているわけでは無いが、残された彼の記憶を手繰り寄せれば、そのどれもが心地よいものだった。 『ライル様の手って大きいですよね。それにゴツゴツしてて……今朝食べたパンに似てます』 『僕は見たことないけど、ライル様の瞳は青だって聞きましたよ。濡れたブドウみたいな綺麗な目なのかな』  何かと食べ物に例える顔も知らない青年。  時にマッサージをしながら、時に顔を拭きながら毎日ライルへと話しかける。  ライルの予想に反して、何日経とうが青年の態度は変わらなかった。  次第に、ライルは青年を心待ちにするようになる。彼と接している時だけ、自分が尊厳のある人間に戻れた気がした。  彼に触れたい、彼と話したい、己の瞳の色を見たら、今度はどんな食べ物に例えるだろうか。 『今年もそろそろ、ミランの花が咲きそうです』  爽やかな風を頬に感じながら、毎年見ていたミランを脳裏に思い浮かべた。 『一斉に咲いたら豪華な折り菓子のようで、きっと綺麗ですよ』  相変わらず食べ物に例える彼がおかしくて、動きもしない顔で笑った。 『いつか、一緒に見られたら良いですね』  いつか、一緒に──  忘れかけていた、希望を思い出す。  以前のように当たり前の生活が出来たなら。自分で歩いて、顔を洗って、様々な食事を味わって、仕事をして。そんな、当たり前の生活が……  もし願いが叶ったなら、お前と共にミランの花を見たい。  色とりどりの花を見下ろして、色とりどりの折り菓子を用意しよう。  甘い物ばかり話す彼だから、花より折り菓子に釘付けになりそうだ。  諦めていた心が久しぶりに抵抗を始めた。  こんなところで終わってたまるか。まだ彼と一言も話していないのに。 『いつか、一緒に見られたら良いですね』  何度も彼の声が心に木霊する。それは、ライルの心臓を打つ。  ドクリドクリと鼓動が大きくなり、つま先まで血液が巡る感覚を覚え、視界に、光を宿した。 『──…………そう、だ……な……』  最初に視界に写ったのは、月明かりを反射した僅かな光。その光すら、眩しく感じる。  これは夢だろうか。  久しぶりの光に驚いたのか、乾いた瞳に涙の膜が張った。  涙を拭おうとして、自分の手が涙を拭った。手が、動いた。自分の手が、自分の思った通りに動いた。 『……っ、』  こめかみを溢れる涙が伝ったのを今でも覚えている。  あの日の喜びをどう表そうか。  絶望から抜け出したあの日を、一生忘れる事は無いだろう。  奇跡の復活の噂は風のように屋敷だけでなく国中に広がった。  驚くほどの努力と気力で、あの日の威厳を取り戻していく。  もう恐れる事は何もない。一度すべてを失ったのだから。あとは取り戻していくだけなのだから。  なのに、なのに── 「なぜ、お前だけは思い通りにいかないんだ」  居ないのだ。何処を探しても彼だけが。  己の世話をしていた者を集めても、それらしき人物は居なかった。リクの話をしても、皆知らないと首を振る。  ならば、と、何百と居る使用人の名簿にすべて目を通し、『リク』の名を持つ者達に会ったがそれらしい人物は居なかった。  夢のような人物が、夢のように消えてしまった。 「……いや、夢のはずがない」  夢で終わらせてなるものか。  今でも鮮明に思い出す彼の声。顔も分からず名も宛にならないのなら、残った頼りは彼の声だけ。  だから今日もライルは、彼の声を探し続ける。  ミランの花がとっくに枯れ果てた日の出来事だ。  
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