第一章 2

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第一章 2

 途中、たくさんの村びととすれ違った。誰もが厳しい目つきでティセを見て、手近な者とこそこそ陰口を叩くか、あるいは冷たく背を向けた。姿を見た途端、家の前で遊んでいる子供たちを力ずくで家に避難させた主婦もいた。まるで、悪いものから遠ざけるようにだ。これが、これから受け止めていかなければいけない現実なのだ。  校舎は校庭を挟んで初等部と中等部が建っている。なにも変わらない、コンクリートの壁についたシミの形も数さえも変わっていなかった。学校生活のあれこれを思い起こしながら暫し眺めたのち、意を決して教員室のほうへ向かった。  玄関口の小部屋に待機している用務員の男も変わっていなかった。ティセを見ると目を見開き、 「おうおう、ティセじゃないか! おまえよく帰ってきたなあ……」  しみじみと言ったあと、ひどく複雑そうな眼差しを向けつつ口髭を撫で回した。 「久しぶり、おじさん。あの……校長に会いたいんだけど……」 「うむ。ちょっと待ってなさい、いま会えるか聞いてくるから」  しばらく待っていると、用務員はなにやらニヤニヤしながら戻ってきた。 「会うってさ。校長室にいるよ」 「ありがとう」  ほかのどの扉よりも立派な作りの、校長室の扉の前に佇んだ。ティセほどこの扉を開けてそこへ入室した生徒は、創立以来ほかにいない。が、この日ほど開けづらいと感じたことはなかった。深く息を吸い、長々と吐き出した。  ……よし……!  軽く戸を叩いてから、間髪入れずに扉を開けた。  懐かしい校長室、調度品も部屋の匂いもそのままだ。校長は校長席に、いかにもわざとらしくふんぞり返って座していた。まるで、暴力団の首領かと思うような尊大さだ。顎を上げ、座っているのに見下ろすようにティセを見ていた。 「…………」  用務員のニヤニヤ顔の理由がよく分かった。ティセが来たと聞いた瞬間、すぐさまふんぞり返ったのだろう。  びしりと背筋を伸ばし、柄にもなく畏まる。 「お久しぶりです。たくさん心配させて申し訳ありませんでした。無事に戻りました」  深々と一礼し、頭を上げる。と同時に、戸棚の硝子戸がビリビリ震えそうな喝破が飛んだ。 「来るのが遅いっっ!!」  あまりの大声によろめいた。 「おまえが帰ったという知らせを聞いてから、もう二日目の夕方だ! 何故すぐに来ないっっ!? 来られん理由はないだろうっっ!?」  怒りに顔を赤くして、校長はまくしたてた。 「……いや……だって……」 「わしがこの一年どんな思いをしていたか…………おまえ……」  恨みたっぷりの声で呻く。 「……だからだよ。顔合わせづらくって……」  すると校長は、耳を疑うことを聞いたとばかりに、今度は身を乗り出した。 「なにぃっ!? 分かったうえでの家出かあ!! このクソガキめえ……」  あのとき、ティセは校長にだけ予告めいたことを口走り、翌朝家出したのだ。その決意を見抜けなかったと、止められなかったと、自責の念にかられているに違いない……ずっとそう思っていた。  ティセは神妙になって、 「本当にごめんなさい。信頼を裏切ったようなかたちになっちゃって、俺もつらかったよ…………でも、あの日だけは特別だったんだ…………もうリュイに会ってしまってたから……」 「その……一緒に旅をしていたという少年か」  こくりとうなずいた。校長はようやく落ち着きを取り戻し、座るようティセを促した。  真向かいの椅子に腰かける。改めて、懐かしい校長の顔をしみじみと確かめるように見る。ひとの好さそうな丸い顔と、そこに少々の威厳を付け添える整った口髭、長旅の間に敬愛の念をもって幾度も思い浮かべたその顔は、少しも変わりがなかった。  校長は煙管に葉を詰めてマッチを擦った。 「で、おまえさん、旅はどうだった?」  もわもわと上がる煙を眺めつつ、ティセは考えた。 「……ひとことでは言えないなあ……。楽しいこともおもしろいこともドキドキしたことも山ほどあったけど……同じくらいつらいことも怖いこともたくさんあった……ひとに騙されたり、ひどい目にもあったよ……。でも、いろんなものを見たし、いろんなひとと出会えたし、知らなかったこといっぱい知れたし…………家出する前の自分とは少しは変われたように思う。なによりも――――リュイに出会えて大好きな親友がひとり増えたことが、俺にとってはいちばん大きいかな」  校長は小さくうなずきながら話を聞いていた。 「みんなにはとんでもなく心配や迷惑をかけちゃったけど…………悪いけど後悔は少しもしてない。旅に出て本当によかったと思ってる」  まっすぐな声音で本心を語った。その凛々しい顔つきを、校長はひとしきり見つめ、 「……そうか、それはすべて、おまえの人生の糧になるだろう」  ティセはうなずく代わりに微笑みを返した。 「ティセや…………おまえさん、顔つきがずいぶん変わったな。顔を見るだけで、旅に出てどれほど変わったか、充分過ぎるほど分かるわい」  校長は目尻に慈愛を滲ませ、感慨深げに言った。  それから、煙草盆に灰をぽんと落とし、にわかに声を張り上げた。 「ところでティセや!!」 「な……なに? 急に」  怖い目でティセを睨み見て、 「少しはわしに悪いと思ってたようだなあ」 「もちろんだよ」 「ならば、わしの言うことを聞け」 「え……」  ティセはきょとんと目を開く。 「校長命令だ。明日から中等部へ戻れ。戻って卒業しろ!」  ナルジャではほとんどの子が中等部までは修めている。不良と呼ばれ、傷害事件に次いで家出事件まで起こしたティセだからこそ、なおのこと中等部を卒業し、せめて平均に並べという意味だ。この村で暮らしていくためには、地に落ちた信用と評判を地道にこつこつと回復させていくよりほかはない。ティセは放棄した二学年へ戻ることになった。  学年度はすでに始まっていた。だいぶ遅れて二年生の学級に加わった。級友はかつての一学年後輩たちだ。顔だけは全員知っている、当然ながら皆もティセを知っている、家出前の、内に籠もり荒れていたティセをだ。  初めのうちは、誰もがティセを怖がり避けていた。しばらくは仲良く話せる級友ができず、学校生活は楽しくなかった。けれど、やがて皆、ティセはもはや暗い翳もきつい棘も消していることに気づき、認識を改めた。  すると、ほんの一部を除いては、皆ティセと仲良くしたがり、旅の話を聞きたがった。家出は誉められることでは決してないが、思春期の少年少女たちにとって、世間や常識や倫理からの逸脱は、ときに英雄的な行為として目に映ることもある。いつのまにか、ティセは中等部の人気者になっていた。かつてのガキ大将が紆余曲折を経て、人気者として返り咲いたのだ。  父の死以来、学校生活に居心地の悪さを覚えていた。思いもよらず、その楽しさを取り戻した。中等部は二年制、一年にも満たない復学生活であったが、失われた日々の分まで楽しく過ごした。受け入れてくれた歳下の級友たちと、復学を命じた校長に、ティセは深く感謝した。おかげで勉強にも身が入り、中等部はそれなりによい成績で卒業した。  しかし、村の大人たちの多くは厳しかった。通りを歩けば冷たい視線をつねに感じ、挨拶をしても横を向かれ無視された。聞こえよがしに中傷の言葉が飛んできた。どこからか石や物を投げつけられたのも一度や二度ではない。  中等部へ通いつつ、家事の多くを担うようになっていたので、毎日のように商店へ買いものに行った。が、まるで見えていないように振る舞われ、売ってもらえないこともしばしばだった。ある商店に入ろうとした際には、店主の老夫に真正面から桶の水をぶちかけられた。頭からびしょ濡れになり、心が凍るような思いを耐えながら、前髪や袖口から滴り落ちる雫を見つめていた。  けれど、ティセが一等つらくやるせなかったのは、家に戻り「売ってもらえなかった……」と母に小さく告げる瞬間だった。告げると、母の顔はどこか苦しげに歪んだからだ。  それでも弱音を吐かず、文句も言わずに耐えた。すべては自分の行為がもたらせた結果なのだから、逃げずに受け止めなくてはならない。そして、変えていかねばならない。周りの意識や評価を変えるのは自分の力量次第――――……校長と、あの女神のように優しかったハマの宿の女将の言葉は、ティセのなかで芯になっていた。  いやがらせに遭っても(こだわ)らず、努めて平然と穏やかに振る舞った。売ってもらえなくても、何度でも「こんにちはー」と明るく顔を出した。そうして少しずつ……………ほんの少しずつではあるが、認識を改めてくれるひとびとが現れた。  固く拒んでいたひとが終始無言ながらも、初めてものを売ってくれた。次に行けば「ありがとね」、ぼそりとひとこと返した。次は「いらっしゃい」、そしてついには、わずかに笑みを見せた。その笑みを見たとき、疲労に勝る喜びが胸にじんわりと広がった。  帰還したティセの様子に誰よりも驚いたのは、もちろん母親だ。つねに暗い顔つきをして口数の減っていたティセが、自然な明るさを漂わせて和やかに会話する。いらだちを処理できず、内に籠もって鬱鬱としていたのが嘘のように解き放たれている。膠着状態にあった母娘の不和を、ティセはすでに清算していた。かつて母に向けていた眼差しは不快感に満ちていた、いまそこには、愛しかない――――……。  小言を言えば「うるさいよ」と鋭く吐き捨てた娘だったが、もう小言など必要ないのだと母は知った。ティセに対して認識をいちばん改めたのはほかの誰でもない、母親なのだった。  帰還後しばらくして、母は言った。 「母さんはもうなにも反対しないから、あなたのしたいように生きなさい。その代わり、困難も結果も全部自分で受け止めて背負う覚悟を持つのよ。それなら母さんはあなたを応援するし、できるかぎり手伝うわ」  驚きのあまり、完成したばかりの煮込みの鍋をひっくり返してしまうところだった。思わず背中に抱きついて、涙声で返した。 「母さん、ありがとう……」  そんな母がただひとつ、ティセに命じたことがある。  ――――俺は止めて、私と呼びなさい――――  相変わらず、身につけるのは落ち着いた色合いの胴着と脚衣…………つまり男の身なりをし、栗色の髪の毛は以前よりは若干長めといえど、女としては常識はずれな肩には触れない短さだ。けれど、母の要求を受け入れて、ティセは自分を私と呼んでいる。
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