第四章 15

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第四章 15

 小屋に戻ったふたりは、服のまま川へ飛び込んだのと変わらないほどにずぶ濡れだ。ティセは埃だらけの床板に両膝を折ってへたり込んだ。髪や衣服から滴り落ちる水が、あっという間に水溜まりを作る。リュイに背を向けて、ひたすら前方の床を見つめている。  リュイは暫し戸口のそばに佇んで、ティセの背中を見つめていた。そのうち、 「風邪を引くから着替えたほうがいい。僕は外にいる」  そう言って、音もなく扉を閉めた。軒先に立ち雨を凌ぎ始める。  薄暗い小屋のなか、ティセはひとり呆然とし続けた。濡れた衣服の冷たさも、普段はしない座りかたによる足の痛みも、どうにかしようという気さえ起こらない。先ほどのことが頭のなかに飽和していて、ほかのことはなにひとつ考えられない。屋根を叩く雨音も雷鳴も、遠く聞こえていた。  …………いまのはなに…………どうしてあんなことするの…………  前髪の先から落ちる雫を眼前に見ながら、くり返す。  ラフィヤカと戯れでするような口づけとは、まったく違う唇の触れかただった。なにか深くて怖いものを含んでいた。そも、リュイはあきらかに頬を叩こうとしていたのに、何故……。リュイが分からない。まるで知らないリュイがいる――――考えるほどに、ティセは混乱と戸惑いを深めていく。自分を包みきっていた底冷えするようなじわじわとした怖ろしさをよみがえらせて、冷えた身体を両腕で抱えるようにして座り込んでいた。  終わりがないかに思えた嵐だったが、ほどなくして雲が引き始め、にわかに空が明るくなってきた。まだ小雨は残るものの、雷鳴は遠くに消え去った。 「くしゅん!」  くしゃみがひとつ出て、ティセはようやく寒さを感じた。 「……風邪引いちゃう……」  言われたとおり、濡れた服を着替えた。  扉の向こうからリュイの声がした。普段と変わらない落ち着いた声音だ。 「ティセ、入るよ」  扉が開くと、小屋のなかは少しだけ明るくなった。ティセは胡座を組んでうつむいたまま、外の薄明かりを横顔で感じていた。リュイの姿は、とても見られなかった。 「もうすぐ止みそうだ。シドルもじきに戻るだろう」 「…………」  言葉も返せない。リュイは戸口に佇んで、目を合わせようとしないティセをしばらくじっと見据えていた。  やがて、ティセの真向かいへ移動した。そっと両膝をついて、じっとうつむくティセに呼びかける。 「……ティセ」  どうしても顔を上げられない。リュイを前にして指の先まで強張っていた。そんなティセに、リュイは戸惑いの滲む()を向ける。思い切りをつけるように、いちどゆっくりと瞬きをしてから、静かに語り始める。 「ティセ……すまなかった。…………応えてくれなくてもいい。けれど……おまえがシドルを心配するように、僕はおまえを心配するということを、覚えていて……」  耳には届いた、が、その顔を見る心の余裕がないように、言葉の意味を咀嚼する余裕がいまのティセにはなかった。だから沈黙を返した。 「…………」  沈黙を無言の拒否だと感じたのだろうか。分かった、というひとことが欲しいリュイは、再度困ったように瞳を揺らし、 「ねえ、ティセ……」  囁いて、返答を促すため、膝の上に置かれたティセの手の甲に、指先でぽつりと触れた。  瞬間、ティセは心臓がドクンと鼓を打った。思わずその手を大きく引いてしまい、  ――――しまった――――……!!  心のなかで叫んだ。  と同時にティセは見た。甲に触れたリュイの手が、一瞬にして凍りつき石のように硬くなったのを……。触るな!――――……そう告げたふうに、リュイには見えたのだ。  息の詰まるような切迫した静けさに包まれる。ふたりとも身じろぎもせず押し黙る。ティセは引いてしまった手を持てあまし、そのまま遣り場なく握り締める。  拒絶はリュイを最も傷つける…………知っていたのに、なんてことを――――……!!  下を向いたまま、頭のなかで喚きまくった。リュイがいまどんな瞳をしているか、顔を上げずともティセには分かる。ありありと目に浮かぶ。ラフィヤカの平手打ちを受けたあとの…………あの偏屈な男から「イブリアの世話になどなるか」と一喝されたときの、ばさりと裂かれた心の色を如実に映し出した、あの瞳だ。  ……知っていたのに……リュイを傷つけた――――……!!  ティセは激しく悔いた。顔はますます上げられない。目に入るのは、凍りついた右手と床に突いた両膝だけだ。けれど、瞳にも佇まいにも痛手を湛えて静止するリュイを、心の目で見据えていた。いま、その傷に少しでも触れようものなら、その心は敢えなく砕け散り、ばらばらに壊れてしまうかもしれない。  息を潜めるようにして、ふたりは長いこと向かい合っていた。  雨は完全に止んだ。小気味よい速さで雲が流れ、雲間から太陽が現れた。外は一気に明るさを取り戻し、開け放しの戸口から陽が差し込んだ。緊迫感に包まれたぎこちないふたりを、皮肉のように明るく清々しく照らし出す。  ふいに、リュイが戸口の向こうへ目を向けた。 「シドルが戻ってきた」  ティセはぱっと顔を上げ、シドルの姿を確認する。荷物を負った背筋をまっすぐにして、心持ち右脚を引き摺りながら、こちらへ歩いてくる。胸をほっと撫で下ろす。 「心配ないと言ったとおりだろう」 「…………」  リュイはもう傷心の色を消している。 「僕も着替える」  その言葉はまるで救いのように聞こえた。ティセは逃げ出すようにぱっと立ち上がり、シドルのほうへ駆けていく。 「シドル!! どこにいたんだよ! めちゃくちゃ心配しちゃったよ!」  シドルは眉毛をぴくりとさせて、 「すぐそこだ」  おまえに心配されるなど心外だと言いたげに返した。すぐそばまで来たティセを見て、目を丸くする。 「おまえ、何故頭だけそんなに濡れているんだ?」  言いながら、栗色の濡れ髪をがしりとひと掴みする。 「わ! ちょっと……! ……なんでもないよ!」  ふたりの様子を、リュイは苦しげな面持ちで見つめていた。が、すぐに小屋の戸をぱたりと閉めた。
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