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第四章 16
早朝の山間は、夏とはいえ肌が引き締まるほどひやりとしている。白湯から上る湯気は朝靄のように白い。零さぬように注意しながら、リュイの横に熱い湯呑みをそっと置く。
「ありがとう」
毎朝そうしているように、リュイは礼を言う。うん、と小さく返すティセは、普段と異なりその顔をまっすぐには見られない。声は硬さを含んでいる。
小鳥のさえずりが響くなか、ふたりは無言で簡単な朝食を取った。のち、荷物をまとめて準備を整える。リュイはすっと立ち上がり、
「行こうか」
よっしゃ、とティセも荷を背負い、山道を歩き始める。さわやかな朝の空を仰ぎ、
「今日は雲ひとつないね、日に日に空が秋っぽくなっていくみたい」
なにげない会話をしつつも、じつのところティセは話しづらさを覚えていた。
「ん……」
いつもの鼻音で返すリュイは、表面的にはなにも様子を変えていない。
まもなく、ティセはなにも言わずに踵を返し、少し後ろを歩くシドルのほうへと向かっていった。リュイといる居たたまれなさから逃れるために。
あれから数日が立っていた。リュイはなにもなかったように接しているけれど、ティセは居心地の悪さを覚えていた。ふたりでいるときはなにをしていても、ぎくしゃくしてしまう自分を感じ、改めようと思うのにどうにもできない。軽い調子で会話をするために、軽さを意識する必要があった。笑顔が自然に出せず、作らなければならなかった。たとえば、いままで調子よく動いていた足踏みミシンが突然不具合を起こし、異物でも挟まったかのように自在に動かなくなってしまった、ティセにとっていまのふたりはまさにそんな状態だった。ひどくもどかしく、疲労を覚えるほど不自然だった。
歩いているときはほとんどシドルと過ごしている。食事のときと就寝するときにだけ、リュイのそばにいる。どうしてこんなことに…………ティセはおおいに嘆きながらも、そうせずにはいられなかった。
奇跡みたいな一年の間に築いた最高の関係――――あのころのままのふたりでいたいと、ティセは願い続けてきた。このうえない相棒であるのは変わらずとも、関係のどこかに狂いが生じて変容し、同じようでいてまるで違う別のものに成り果ててしまう……ティセの怖れていたことは現実になってしまった。そしてそれは想像どおり、戸惑うほどの違和感と、切なさとぎこちなさをもった、居心地の悪いものだった。しかもその変容は第三者からでなく、リュイ自身からもたらされたのだ。何故……問い質したい気持ちになる。
何故……何故、あんなことするの……
あれはなんだったのか、応えてくれなくていいとはどういう意味なのか……。ティセは甚だ思い悩んだ。可能性のひとつとして、リュイは自分を好きなのかとも考えた。けれど、直後に見せたあの冷ややかな眼差しを思えば、それも違うように思える。結局、いくら考えてもその真意は分からなかった。
何故、何故…………頭のなかでくり返し非難しつつも、不思議なことに、リュイのした行為自体に嫌悪や不快感を覚えることは少しもなかった。いまでも無論、そのさなかであってさえ。厭だったわけでは決してない、それでリュイを好きでなくなることもない。ただ、凄まじい力で自分を縛り付け、自由を奪いきったことが、怖かっただけなのだ。何故厭だと思わないのか、そんな自分の気持ちもよく分からなかった。
あのころのままに――――……前の旅では、至近距離まで歩み寄り最高の関係を築き上げた、その途端に別れが訪れた。だからこそティセは、その続きの旅になることを心から願っていたのだ。
…………もしも男の子に生まれていたら…………
胸の奥でつぶやいた。男の子に生まれていたら、きっとこんなめんどうなことにはならず、あのころのままの最高の関係で旅を続けられたはずなのに…………そう、もっと都合良く、もっと理想的に、リュイとともに歩いて行けたはず…………。月のものが訪れるたびに重ねてきた思いを、ティセはまたひとつ胸に重ねるのだった。
山間の集落の茶屋で、リュイとぎこちなく昼食を取り、ひと休みをして再出発。ほどなくティセはシドルのもとへと向かう。ともにいられない申し訳なさを、じんわりと胸に覚えながら。
道は緩やかに上下し、曲がりくねりつつどこまでも続いている。前を行くリュイの姿はしばしば見えなくなった。ときおり、売りものの羊の群れを連れた農夫や、数羽の鶏を入れた大きな鳥籠を背負った行商人とすれ違う。男の身なりをした異国の少女と、つい見上げてしまうほど大きな若者を見て、誰もが目を瞠っていた。
雑談にひと区切りがつくと、シドルは前方をじっと見据え始めた。なにかを考え込んでいるような顔つきだ。のち、ティセをちらりと見遣り、
「おまえたち…………喧嘩をしているのか?」
どきりとした。ほとんどシドルと歩いていることについて、いままでなにも問われなかったので気にしていないと思っていたが、やはり怪訝に思っていたようだ。
「……そんなことないよ……」
なにげなく否定したものの、嘘がわずかに零れてしまう。顔を曇らせたティセをシドルは暫し眺めていた。前を向き直し、
「…………いいのか、あいつ放っておいて」
言われれば胸が痛む。が、ティセは伏し目になって、
「……いいんだ……。おまえといるほうがいい……」
いまはリュイと居づらい、本音を率直につぶやいた。
「…………」
やや間を置いたのち、シドルは冗談めかした口ぶりで、
「なんだ、おまえ……そんなに俺が好きか」
にやりと笑って茶化した。
途端、心臓がぎゅっと音を立て、顔が強張った。冗談で言っていると充分に理解しているのに、ティセはそれを受け流すことができなかった。顔色がさっと変わり、意に反して神妙になってしまう。動揺を隠すようにうつむき加減で歩を進めたが、手も足も緊張していて、全身に不自然さを滲ませてしまう。
すると、シドルははっとしたようにニヤニヤ笑いを止めた。そこはかとなく緊張感を放った。隣を歩くティセにも、手に取るばかりにそれが伝わってくる。
……シドル……気づいちゃった……
頬がかあっと火照りだし、真っ赤に染まっていくのがありありと分かった。ティセはますます神妙になる。戸惑いと恥ずかしさに瞳を揺らす。なにも返せない、返す言葉も見つからないが、緊張で唇が動かない。ふたりは黙って歩き続ける。
ティセは自身の心のなかを見据えた。胸に溢れている想いには気づいていた。けれど……――――シドルが好き……――――いまはっきりと認識し、理解した。好き、という言葉をもって、この想いを説くことができるのだと――――……。
やがて、シドルは前を向いたまま、ぽつりと問うた。
「本当か、おい……」
「…………」
ティセは意を決して立ち止まる。顔をしっかりと上げて、まぶしいものを見つめるような眼差しでシドルを見上げる。頬の火照りと耳の熱さを感じつつ、戸惑いを隠しきれないシドルの目を見て、思うままを告げる。
「私…………おまえが好きなんだと思う。誰かを好きになったことないから、よく分かんないけど…………おまえのことめちゃくちゃ恰好いいと思うし、ずっと見ていたいと思うんだ…………」
気恥ずかしさに瞳と唇をかすかに震わせる、ティセの告白を、シドルは言葉に詰まったような顔をして聞いていた。語り終えれば、ふたりの佇む山道はしっとりと静まった。頬の火照りとシドルの戸惑いを宥めるような涼やかな風が、すうと流れた。
ひどく困らせてしまったみたい、ティセはそう思い、
「あの……迷惑だったらごめん…………いま言ったこと、忘れてね」
返答を待たずに、ふたたび歩き始めた。
拭いきれない緊張感を漂わせながら、ふたりは黙りこくって山道を行く。リュイだけでなくシドルともぎこちなくなってしまったら、とても厭だ……そんなことを考えて沈んでいた。そのうちシドルが名を呼んだ。
「ティセ・ビハール」
角のない素直な声音だった。見上げれば、顔つきも真摯だ。
「ひどく驚いた。……けれど、迷惑ということはない」
「そ……そう?」
「そんなことを言われたのは初めてだ。……決して忘れない」
「……それなら、よかった……」
ほっと息をつく。と、ふたりの間に漂っていた緊張感は途端に消えた。ティセは心から安堵した。迷惑でないのならそれでいい――――……ただ想いを受け止めてくれるだけで、溢れるほどに嬉しかった。
通りがかった集落で親切な農婦からマンゴーを頂いた。夕食後の茶菓に皮を剥く。ねっとりした舌触りととびきりの甘さを期待させる、じつに瑞々しい橙色の肌が現れる。ティセは手のひらの上で食べやすい大きさに切り取って、
「ほら」
ひと欠片をリュイに差し出した。
「…………」
リュイは差し出された実を一瞬見据え、のち、
「ありがとう、そこへ」
草の上に置いた空の湯呑みを目で指した。
……まただ……
ティセは頭でつぶやきつつ、無言で湯呑みに実を載せた。
リュイはなにもなかったようにティセに接している。ほとんどシドルと歩いていることについても、ひとことも言わない。なにも気にしていない、しこりなど残していない、そんな様子でいるけれど、ひとつだけ変わったことがあった。あれ以来、ティセに少しも触れなくなったのだ。
たとえば肩を軽く叩いてなにかを促したり、手助けのために手を添えたり、普段はしていた自然な所作を一切しなくなった。マンゴーのひと欠片のようにさほど大きくないものを手渡せば、決して手では受け取らず、そこへ置けという。少しでも指先が触れあって、ふたたびティセに手を引かれることを怖れているのだろう。いま剣の稽古をしたとして、足さばきに失敗して転んでも、きっともうリュイは手を貸さない。
触るな――――……そんな意味ではなかった、ただ驚いてしまっただけだ。しかし、思わず引いた手は、想像以上にリュイを傷つけてしまっていた。改めて、ティセは激しく後悔する。
ごめんね……ごめんね、リュイ……
けれど、悔恨の思いとともに、別の思いも湧き上がる。そこまで気にするリュイに、あっさりと深手を負ってしまうリュイに、うっすらと腹立たしさを覚えていた。呆気なく心を裂かれてしまう、以前にも感じた空恐ろしさをリュイに感じていた。ともすれば本当に厄介なひとなのだと、ティセはしみじみと思う。
「ん……美味しい」
とびきりの甘さに暗緑の瞳が微笑む。ティセはなんとも言えない胸のつかえに似たものを覚えつつ、
「はい」
もうひとつ切り取って、湯呑みの上にそっと載せた。
山地をようやく抜けて、行く道は平坦になった。いよいよヌワラバードの町が近づいてきた。幾つかの小さな町を順調に過ぎて行けば、数日後には辿り着く。シドルの隣を歩きながら、ティセはひと足ごとに胸に切なさを重ねていく。
「もうすぐヌワラバードだ……」
前方を歩くリュイの後ろ姿よりももっと遠くを見つめて、ぽつりとつぶやいた。
ふと気づけば、シドルがこちらを見下ろしていた。なにか言いたげな、ことのほか真面目な面持ちだ。もの寂しさを溶かし込んだ眼差しで、ティセをじっと見据えている。
「……どうかした?」
この奇妙な旅が終わるのを、シドルも少しは心残りに思っているのだろうか……。ティセの問いかけに、シドルはなにも返さなかった。
その晩はある町の宿に泊まった。リュイと夕食を済ませたあとは、シドルの部屋で過ごしていた。ティセはひとつしかない椅子に逆向きに跨って、背もたれに両腕を預けて寛いでいる。椅子を取られたシドルは寝台に腰かける。
言おうか言うまいか、といったふうに間を置いたあと、シドルは言った。
「おまえ……いつも俺といるけれど、いったいあのチビはなにも言わないのか?」
ティセは思わずきょとんとする。まさかとは思いつつ、
「……チビ!? …………それ、リュイのこと?」
「ほかに誰がいるんだ」
目を見開いて、
「どこがチビなんだよ!」
大きな声で反論した。シドルは平然と、
「事実だ」
「チビじゃないよ全然!! どう見たって平均よりは背が高いだろう? おまえが大きすぎるだけだっ!!」
教え諭すようにシドルは返す。
「一般の平均よりはな。……確かに俺は同期生のなかでも目立って大きかったが、あいつはハジャプートとしては平均に満たない。当時もいまでもだ。だからチビだと言うんだ」
「……そ、そうなんだ……」
「背丈はともかくとしても体格すらひどく華奢だ。ハジャプートとしては貧相だ」
「…………」
確かに細身だが筋肉は充分につけている、貧相とはほど遠いと内心思った。が、シドルの観点からは的を射ているのかもしれない。
苦々しげにシドルは続ける。
「小さいうえに華奢だ。いかにもひ弱に見えるのに、実際に手合わせをすれば同期生のほとんどが勝てない。……ますます胸くそが悪い。嫌われるはずだ」
最後は吐き捨てるように言った。ティセは呆れと気懸かりを半々にして、
「……チビとか貧相とか…………ねえ……それ、リュイに言わないでよ!?」
「分かった分かった」
投げ遣りに返し、改めて問う。
「それで、あいつはなにも言わないのか?」
ティセはなんとなく神妙になる。やや伏し目になって、
「……言わないよ。だって…………誰といたって私の自由だ、なにも悪くないのになにを言うのさ」
視線を逸らして答えるティセを、シドルはなにか言いたげにじっと見ていた。
幾つかある客室の灯りが概ね消え、往来から届く物音や人声も止んだ。ティセは欠伸をひとつして、
「眠くなってきちゃった。じゃあシドル、また明日ね。おやすみ」
椅子に跨っていた脚を上げ、よっ、と立ち上がる。すると、シドルは寝台に腰かけたまま右腕をすかさず伸ばし、ティセの右手首を取った。はっきりと握力を感じる、力の籠もった取りかただった。
「な、なに……?」
シドルの顔つきは真剣だ、まっすぐにティセの顔を見据えている。ティセははっとした。目を見つめたまま、シドルは言う。
「何故あいつの処へ戻るんだ?」
「え……」
「どうせ明日も俺といるんだろう、ここにいればいい」
「…………」
真剣な眼差しと手首の取りかたに、ティセは胸がどきどきしていくのを感じていた。堅固さの滲むシドルの右手からは、行かせない、という意志が伝わってくるようだった。とてもその目を見ていられずに、ティセは伏し目になる。胸の高鳴りに戸惑いながら、握られた手首をじっと見つめた。沈黙が流れる。
ここにいればいい――――……頭のなかでくり返す。その言葉は促しや許可ではなく、ここにいろ、命令に近い依頼のようにティセの耳には聞こえていた。ここにいればいい……くり返せばますます胸がときめいて、身体中が緊張していく。
何故戻るのか、ここにいては駄目なのか…………別れの日は迫っている、それまでシドルといてはいけないの…………ここにいろ、シドルの依頼に応えたい――――……ティセは胸を苦しくさせて逡巡する。
何故なのか、自身にもよく分からない。ティセのなかでそこへ戻らずにいることは、してはいけないことだった。心のどこかが、そう命じている。
わずかに目を上げて、覚束ない口調で問いかけに答える。
「……うまく言えないんだけど…………旅をしている間はリュイのいる処が私のいる処で…………だから……そこに戻らないと駄目なんだ」
シドルは暫し、ティセの顔をまじまじと見ていた。やがて、声を低くして、
「……おまえは本当のところ……」
なにか言いかけて、
「いや……」
すぐに打ち切った。ぱっと手を離し、
「行け」
顔を見たまま、ひとこと告げた。
気分を害しただろうかと一瞬思ったが、不機嫌な様子はとくになかった。ティセはもやもやしたものを胸に覚えながらも、
「……うん、じゃあまた明日、おやすみ」
小声で返し、シドルの部屋を出た。
部屋へ戻ると、リュイはいつでも就寝できる体勢で本を読んでいた。戻ってきたティセにそっと目を遣って、
「おやすみ」
変わらない穏やかさで言い、枕元に本を閉じた。その手で短剣を取り、毛布を被る。ティセは努めて平常を装って、
「おやすみ、私ももう寝る」
ランプを消して寝台に入った。
毛布を被ったものの、ティセはなかなか眠りにつけなかった。眠気などどこかへいってしまっていた。ここにいればいい――……その声や言葉つき、眼差しを幾度も思い返していた。握力と、意志をはっきりと感じた手首の取りかたをそこへよみがえらせ、止まない胸の高鳴りに息を苦しくさせていた。病気みたい……頭でつぶやきつつ、胸にほの甘いものが滲み広がっていくように感じていた。
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