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第一章 1
厨房の設備は古びているが、掃除は気持ちよく行き届いている。奥の洗い場には盥がふたつ、左側は濯ぎを待つ皿や盆が山積みで、右側は濯ぎ終わったものを入れる盥だ。左から右へ、ティセは流れるような手際でてきぱきと片付ける。
最後の皿を右の盥のなかへ置くと、足首ほどの高さの腰かけから「よっしゃ!」と立ち上がる。前掛けで適当に手を拭いて、大鍋の掛かった竈へ向かう。真っ黒に煤けた鍋の底には、午前中にティセが丹精込めて作った馬鈴薯と菜の花の炒め煮が残っている。それをふたり分、持参した円柱形弁当箱へ取り分けた。そして、しっかりと留め金を掛ける。
配膳台の拭き掃除をしている女将を振り向き、
「じゃあ小母さん、いちど帰るね。またあとで」
弁当箱を軽く掲げて感謝の気持ちを表した。女将はシミだらけの顔におおらかな笑みを浮かべ、
「はい、お疲れさん、また夜ね」
ティセは勤め先の食堂をあとにした。ぽかぽかとした春の日差しを浴びながら、ナルジャの目抜き通りを小走りに帰宅する。ほんの少し行っただけで、もう汗ばんできた。
「あったかーい……」
しみじみと思う。なんとはなしに、ひつじ雲の浮かぶ青空を見上げた。
今年の春は早くから気温が上がり、つい微睡んでしまいそうな暖かさとなった。遙か北方に連なる神々の棲まう山から、清らかな雪融け水が流れきて、例年にない早さでナルジャの村を潤した。
山岳地帯を除けば、わりあい温暖であるイリアの冬の寒さは、さほど厳しくはない。けれど、ひとびとは早い春の訪れに心を躍らせて、そわそわと浮き立っていた。ティセもそのひとりだ。頬を撫でる風に暖かさと春の香りを感じるたび、なにか嬉しいことが待っているような気になって、自然に口元が綻んだ。十七歳の新しい一年を迎えたばかり、特別に素敵なできごとがあればいいと、ティセは心から願っている。
なだらかな坂道を上りきれば、眼下には水田が広がる。幾頭もの牛やロバ、あるいは農夫たちが代掻きに精を出す。生まれたときからなにも変わらない、巡りめぐる春の風景。長閑で心安まる、愛すべきナルジャの春だ。もうしばらくすれば、俗で卑猥な田植え唄が聞こえてくる、ティセはますますうきうきしてくるのだった。
「ただいまー」
「おかえりなさい、ティセ」
足踏みミシンがどかりと構える仕事部屋兼居間へ顔を出すと、母の横にはラフィヤカがいた。娘らしい鮮やかな黄緑色の伝統衣装――――丈が膝まである上衣と裾がすぼまった脚衣――――が、目に明るく飛び込んだ。
「おう、ラフィヤカ、来てたんだ」
「うん、もう帰るけどね」
ラフィヤカは作りかけの衣装を丁寧に折りたたみ、薄布に包みながら返した。
「今日は仕事休み?」
「ジャールのほうはね。これから帰って、店番しながら家のことしないと」
ラフィヤカは中等部を修めたあと、週に数日、隣町ジャールにある衣料品店で働いている。そのほかの日は家業である商店の手伝いと家事を担っている。そして、空き時間をやりくりして、ティセの母親から洋裁を習っているのだ。
洋裁を習い始めたのは、三年ほど前にティセが家出をした少しあとからだという。ティセは旅から帰還したあとにそれを聞き、とても驚いた。もとよりお洒落好きで服飾には大変な興味を持っていたラフィヤカだが、着飾るのが好きなだけで針仕事は大嫌いだったはずなのだ。衣服の綻びを繕うのさえ嫌厭していた。
どうした気まぐれや成りゆきでそんなことをしようと思ったのだろうかと、初めは不思議に思った。しかし、熱心に母へ質問をするラフィヤカと、楽しげに答え助言を与える母を眺めているうちに、ティセははたと気がついた。洋裁を習おうと考えた、本当の動機に。それは、独りぼっちになってしまった母を慰めるため、心を支えるために始めた行為だと。
母はどれだけ助けられたことだろう。ティセは言い尽くせないほどラフィヤカに感謝した。その優しさと厚い友情に涙が込み上げた。幼いころから、どちらかといえば素っ気ない態度で接してきた自分を恥じ、おおいに反省した。そして、かけがえのない親友のひとりなのだと改めて大切に思った。
いまではラフィヤカは本当に洋裁が大好きになり、いつかジャールに自分の洋品店を持つのが夢だという。
ラフィヤカは壁に掛けてある鏡の前に立ち、絹糸に似た自慢の黒髪に乱れがないかを確かめる。しなやかな指先でまとめ髪のほつれを撫でつけ、長い上衣の裾のめくれを直す。と、思い出したように振り向いた。
「そうそう、カイヤの話聞いた?」
「いや、知らない、なんの話?」
「カイヤったら、先月の進級試験でいちばん取ったんだって! それで今年は
奨学金をもらえるそうよ。昨日カイヤのおばさまがうちのお店に来て、誇らしそうに話してた」
ティセは驚いて大きな声を上げる。
「ほんと!? へええ! すごいなあいつ!」
ティセが旅から戻ったとき、カイヤはジャールにある高等部へ進学していた。四人の悪童仲間のうち、進学したのはカイヤだけだ。ほかの三人は家業に専従するか、勤め人になる道を選んでいた。
「子供のころから成績は良かったけど、いまじゃ高等部いちの秀才か! ただのクソガキだったのになあ」
からから笑うと、母は呆れ顔でティセを見て、
「あなたにクソガキなんて言われたら、カイヤもさすがに怒るわよ」
ねえ、とラフィヤカに同意を求めた。
「ふふふ。ナルジャいちのクソガキはあんただったじゃないの」
とても反論はできないので、「そうだっけ?」と斜め上を向いた。
進学を決めたカイヤだが、真面目に勉強に取り組むようになったのは、じつのところティセが帰還してからだ。家出という強引な手段であったとしても、ひとつの夢を自力で叶え、別人のように明るく、かつ大人びて戻ったティセを見て、強い衝撃と憧憬と、そこはかとない嫉妬を覚えて発奮したのだった。むろん、そんなカイヤの胸の内を、ティセは知らない。
遅い昼食を用意するため台所へ向かうついでに、帰るラフィヤカを戸口で見送る。
「じゃあ、またね」
「おう」
ラフィヤカはいつものように顔を寄せてきた。きゅっと尖った顎を上げ、無言で乞う。ティセもいつもどおりに、その唇に軽く唇を寄せる。ちゅっ、とほんの小さな音が上がる。にっこりと微笑んで、ラフィヤカは女の子らしい小股歩きで去っていった。
二枚の盆を台所の卓に並べ、朝のうちに炊いておいた白米を盛る。さらに弁当箱へ詰めてきた惣菜と、作り置きの辛味と酸味の強い漬けもの、素焼きの鉢に入った市販の乳酪を盛りつける。最後に舌を休めるための、やわらかな辛味をもつ玉葱を適当に切ってあしらった。
「母さん、昼飯できたよー」
台所から仕事部屋の母へ声をかける。はあい、と返事がしてすぐに、母は手を洗いにやってきた。
仕事部屋の隅で、母と昼食を取る。
「今日のおかずは我ながらいい出来だよ、また腕が上がっちゃったかなあ」
白米と惣菜を指先で混ぜながら自賛した。母は目で微笑んで、
「うん、とってもおいしいわ!」
「だろ?」
「あなたみたいな子に、女らしく料理の才があったなんて本当に驚きよ」
ティセは苦笑いを返す。
日々、母と向かい合って食事を取る。ふたりきりの食事は大家族のそれのように賑やかではないけれど、いつでも和やかに雑談と微笑みを交えて行われている。
「今晩は鶏肉だよ。驚くほど安かったんだ。煮込みと漬け込んで焼くのとどっちがいい?」
「そうね、焼いたのがいいかしら」
「じゃあ、店へ戻る前に仕込んでおくね」
「夕飯が楽しみだわ」
母は嬉しそうに微笑んだ。
日々の食事を作るのは、以前とは異なり、基本ティセが担うようになっていた。旅から帰還して二年が立とうとしている。家出前とは、あらゆるものごとが変化していた。
帰路をともにしたアズハー一家は首都イリスを目指していたため、ティセはひとり、ナルジャにもっとも近い駅で汽車から降りた。そして、ナルジャまで二日かけて歩いて戻った。
正午に村のはずれに到着し、自宅へ戻るまでの間に、幾人かの村びととすれ違った。皆、驚愕しきったように目を瞠り声も出ない様子で、悠々と歩くティセを眺めていた。さながら、真昼の幽霊でも見たかのように。
シュウを出る前に、もうまもなく帰ると手紙を送っていた。この親不孝な娘と再会するとき、母はどんな態度で迎えるだろう……怒るだろうか、泣くだろうか、もう縁を切ったと冷たく告げられてもしかたがない…………内心そう思いながらも、背筋を凛と伸ばして懐かしい自宅への道のりを歩いていたのだった。
「ただいま、母さん」
母はティセを見て、一瞬我を失ったように呆けた顔をした。のち、崩れ落ちまいとすがりつくようにティセを抱きしめて、ひたすらに泣いた。ただただ、さめざめと泣いた。
その日は、日暮れとともにラフィヤカが訪れた。突然、家の外から荒い息交じりの呼び声が聞こえて、ティセはどきりとして慌てて外へ出た。ジャールの勤務先から戻ってすぐにティセの帰還を聞き、息を切らして駆けてきたのだ。ラフィヤカはなよなよした平手打ちでティセの頬を打ち、それから母と同じくすがって泣いた。いつまでも、しくしくと泣いていた。
帰還の一報は、瞬く間に村中へ広まった。しかし、それを聞いてその日のうちにティセに会いに来たのは、ラフィヤカだけだった。近所のひとびとも、幼いころから親しくしていた馴染みの商店のおばさんも…………同級生たちはむろんのこと、四人の仲間と子分のナギさえ会いには来なかった。
誰もが簡単には自分を赦しはしないのだ、ティセは早くも厳しいものを感じて、覚悟していたとはいえ、やはり憂鬱になった。
翌日の夕方近くになり、ようやくカイヤが会いに来た。ふと窓の外を見遣れば、いつからそこにいたのか、前の小道にカイヤが佇んでいた。ためらいを色濃く滲ませた顔つきをして、戸口のほうをじっと見つめていた。
「やっと来たか……」
ティセは独りごち、堂々と胸を張りつつ無言で戸口に立った。カイヤは一瞬、ためらいが極まったように顔を強張らせた。が、すぐに改め、薄い唇を不満げに結び、ティセをきつく睨めつけた。暫しふたりは睨み合った。
のち、ティセは心持ち顎を上げ、にやりと不敵に笑んだ。悠然と片手を上げて、
「よう!」
途端、疎遠になる前まで、時間が一気に巻き戻ったかのように、もうひとりの親友との距離が縮まった。カイヤは苦々しげに声を低め、
「おーまーえーはぁぁぁ…………」
つかつかと歩み寄りつつ、
「よう、じゃねえよ! おまえはほんとに莫迦だ! ほんとに阿呆だ! イカレてるっ! この糞ったれ!」
罵詈雑言を浴びせた。目の前までやって来て、今度は小さくつぶやいた。
「……でも……相変わらず……かっこいーな……」
ティセは思わず大きく吹き出した。カイヤの両腕をがしりと掴み、
「ひっさしぶりだな、カイヤ! 会いたかったよ。おまえ背ぇ伸びたなあ! 見上げるようじゃん、驚いた!!」
掴んだ両腕も、最後に会ったときよりたくましくなっていた。けれど、色素の薄い頭髪や、頬骨のやや張った頬ににきびがぽつぽつとあるところはまるで変わらず、なにやら心が温もってくるほどに懐かしかった。
明くる日の昼下がりには、カイヤに連れられてほかの三人――――プナク、ラッカズ、ススト、そして子分のナギが家に訪れた。初めに顔を合わせた際は、誰もが昨日のカイヤのようにためらい気味の表情だった。が、すっかりとわだかまりを消し去ったティセの明るい様子を見て、ほどなく態度を和らげた。
「おまえ、俺たちがどれだけ心配したと思ってんだ! ばーか!!」
出っ歯のプナクは真っ白な歯をむき出して莫迦と吠えた。
「ごめんごめん、それについては謝りきれない……ほんとごめん」
「ま、おまえならいつかなにかしでかすと思ってたけどな」
ラッカズは吊り目でティセを睨みつつもニヤリと笑んだ。
「……おまえには言われたくないな……」
「ナルジャ史上、前代未聞の非行だよ! 外国に家出するなんてよ!」
スストはさらにひとまわり太ったようで、小太りどころでなくなっていた。
「あははっ! そうかもね。イリスに家出なら聞いたことあるよな」
家出前、彼らとあれほどぎくしゃくしていたのはいったいなんだったのか…………そんなふうに思うほど、自然に打ち解けていた。ティセはおおいに笑いはしゃぎながらも、心底不思議な気持ちに包まれていた。同時に、自分を赦し、ふたたび受け入れてくれた仲間たちに心から感謝し、しみじみと幸せを感じていた。
けれど、ナギだけは違った。真剣な眼差しを向けて、
「ティセ姉……おかえり」
言ったきり、かつての元気と脳天気はどこへやら、口をつぐんで押し黙り、なにか思い込んでいるような顔つきをしてティセを眺めていたのだった。欠点である軽率さが顔に滲み出ていたナギとは思えない表情だ。ナギは自分を赦してくれないのだろうか……そうも思ったが、そうではなくもっと別のなにかを感じた。相変わらず子猿に似ていたが、初等部も高学年に上がり、急に内面が大人びたのだろうか。ティセはそう考えるしか分からなかった。
本当に親しいひとびととは、こうしてすぐに和解し、ほとんど元の関係――――……どころか思いも寄らず、疎遠になる以前の望ましい関係にふたたび戻ることができた。
しかし、待っていても絶対に訪れては来ないひと――――……否、こちらから会いに行くべき――――行かなければいけないひとが残っていた。校長だ。おそらく校長は、ティセ自ら顔を見せに来るのを、いまかいまかとやきもきしながら待っているだろう。
仲間たちが帰ったあと、ティセは西日の照りつける通りを歩いて学校へ向かった。
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