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高校三年生になる少し前から、奥野くんは突然塾に来なくなった。
最初は体調でも崩したのかな、と思ってたんだ。高校は別だったし、共通の友人もいなかったから。だけど。
「え、と。田尾 さくらさん? 北高の」
「そう、ですけど」
奥野くんと同じ制服の知らない男子生徒に声を掛けられて、無意識に引き気味になってしまった。
「あー、その。奥野に頼まれたんだ」
それだけ言うと、その男子は机の上に封筒を置いてあたしから目を逸らし立ち去った。
いったいなんなの? わけもわからず開けた封筒の中の手紙を、あたしは一生忘れない。瞬きでシャッターを切ったみたいに、脳裏に焼き付いてる。
短い、とても短い奥野くんの言葉。
『田尾。今までありがとう。楽しかった。さようなら』
文字を目でなぞると同時に席を立ち、あたしはさっきの男子を追い掛けた。バタバタという足音に驚いたように立ち止まる彼を、塾の玄関を出たところで何とか捕まえる。
「教えて! 何があったの?」
「……、……奥野の親父さんの工場、倒産して、……破産、して、あいつ高校やめて家族のために働くって……、っ」
中退するの⁉ じゃあ、大学、は。──もう、それどころじゃない、んだ。
あたしには何もできない。電話、しようにも番号も知らないってその時初めて気づいた。でもさ、知ってたって何て言うの? 退学残念ね、でも友達だよ、って?
それを奥野くんがどう思うか、わからないけどわかる。きっとそんな言葉欲しくないってことくらいは。
あたしと男の子の間を、風に乗った桜の花びらが吹き抜ける。春の嵐。少し離れれば、建物の中から見れば、きっと綺麗なピンクの嵐。
だけど真っただ中のあたしには、……たぶん目の前の子にも、冷たくて厳しい、身を切る嵐。
あの頃はみんな、まだマスクもしてなかったんだ。あたしは大学も、もうあと一年で卒業する。来年の今頃は新入社員。彼、はどうしてるんだろう。
結局は知らん顔して過ごしてきたあたしに、そんなこと思う権利あるのかな。
あれ以来、桜を見るたび思い出す。それだけじゃない。自分の名前さえ引き金になる。何年経っても、ずっと。
記憶の中の懐かしい彼の顔は、高校生のあの日のまま。「何もできない」を言い訳に、何もしようとはしなかったあたしだけが年を取る。
──桜なんて嫌い。“さくら”も嫌い。
~END~
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