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親方と黄金のシャチ(童話)
その人が、いつから町にいたのか、誰も知りませんでした。
ゼムの親方。その人は、そう呼ばれていました。いまはさびれた港町で、日がな一日、のんびりとつりをして、くらしていました。
「こんにちは」
町の人たちは、親方に会うと、かならずあいさつをしました。
「また、あの話を聞かせてくださいね」
それは、親方に対する、あいさつのしかたなのでした。ゼムの親方は、昔、七つの海をめぐった、一流の魚つりなのでした。港の見える小高い丘に立つ親方のうちをたずねると、親方は客人を心からもてなし、せがまれると、昔の、海の話をして聞かせました。
「そのころの海は、いまよりもずっと青く、広々としていた。わしらは、大波がきたら、いまにも飲みこまれてしまいそうな、ちっぽけな船で、旅をしたものだ。あるときは、大くじらを求めて、またあるときは、悲しい唄を歌う、人魚を求めてじゃ」
人々は、親方の夢のような話を、決してその通りには、信じていませんでした。全部が宝石で出きた島や、山よりも大きな魚が、本当にいるとは、思えなかったからです。けれども、人々は、親方のうちをたずねることを、やめはしませんでした。それほど、親方の話は、心から人の魂をうつ、ひびきをもっていたのでした。
「黄金のシャチの話をしてください」
親方の話が、ひととおり終わると、おとずれたひとたちは、みな、きっとその話をせがみました。全身が黄金のウロコでおおわれた、巨大なシャチの話は、人々の、そして親方の、お気に入りでもありました。
「わしらは、船のうえに、釘づけになっていた。いくら先に進みたくとも、風はなく、たくわえた食料も、残り少なくなっていた。夏の太陽は海の上では、より強く照りつけ、ほおにあたる風は、熱湯のように熱かった。
そのときじゃ!
わしらは、水平線の向こうに、なにかが動いているのを見つけたのじゃ。そいつは、ものすごく大きな魚で、背ビレだけでも、人間の二倍はかるくある〈シャチ〉じゃった。おまけに、そいつの体は、信じられないくらいに輝いていた。体じゅう、黄金のウロコでおおわれていたのじゃ! わしらは、おそれよりも先に、不思議と神聖(しんせい)な気持ちにさらされてしまった。そのときのわしの気持ちを正直にいえば、神に出会った、とでもいえるじゃろうか。わしらが、呆然(あぜん)として、眺めている間にも、そいつは、わしらのほうに、近づいてきた。海がわれだすのじゃ。わしらは、なにもすることができなかった。海鳥がさわぎだした。すると、ふいに、そいつは、わしらの前から、姿を消してしまったのじゃ。
そののち、空に雲が広がりだし、風が起きた。わしらは、助かったのじゃ。わしらは、いそいで、いちばん近い入り江に入り込むと、人々にその話をした。誰も信じてはくれなかった」
「けれども、ボクたちは、その話を、信じていますよ」
「うん、そうじゃったな。ありがとう」
親方は、いつものように、苦いコーヒーをひくと、それを、たずねてきた人たちに、勧めるのでした。
単調な、同しような日々が続き、親方は、いく度もいく度も、同じ話をし続けました。親方の目はかすみ、耳はもうほとんど聞こえなくなったのに、自分の話だけは、しっかりと憶えていたのでした。けれども、その話も、だんだん、だんだんと、おかしくなり、しまいには、黄金のシャチのこと以外、なにも話せなくなってしまいました。子供たちに、いくらせがまれても、もう、大勢の海賊と戦った話や、戦争のとき、味方の軍艦をみちびき、安全に岬を越した話などは、できなくなっていたのです。
町の人々は、うわさします。
「親方も、もう、長いことないね」
「あたしは、子供のころから、親方の話を聞いて、育ったんだ。親方がいなくなったら、淋しいね」
「オレだって、子供のころは、黄金のシャチが、いつ、うちの港に現れないかと、何日も、見張っていたことがあるんだ」
「人魚の唄も、もう一度、聞きたいわね」
ここに住む人々にとって、親方とは、町そのものでした。親方のいない町なんて、考えられません。となりや、まわりの村の漁民たちが、そっくり都会にでていってさえ、人々が、この町にとどまったのは、もしかしたら、親方の話聞きたさ、だったのかもしれません。
「ねえ、わたし、親方に何か贈りものしたいわ」
集まった人々の中の誰かが、そういいました。
「賛成だ」
「オレも、そう思う」
「あたしも……」
そうして、次の祭の日に、みんなで、親方のうちをおとずれる計画を立てたのでした。
「親方のびっくりする顔が、今から、目にみえるようだ」
気のいい漁民たちは、その日を楽しみに、それぞれの家へ、仕事へと、帰っていきました。
コンコン。
ノックの音がしました。
(風、だろうか?)
ドアを開けてみても、そこには、誰もいません。親方は、重たい足をひきずると、寝台に横になりました。しばらくして、親方は、耳の底から、かすかな音楽が、聞こえてくることに気がつきました。なつかしいひびき。海のにおい。塩の香りが、親方の胸を、いっぱいに満たします。
(少し、くたびれたようじゃな)
親方は、そのまま体をのばすと、それっきり、動かなくなりました。見たものでなければ、決して語ることのできない、やさしい笑みを、いくすじも深くきざまれた、顔のしわの中に残して……。
親方は、静かに息をひきとったのでした。
「こんにちわ。親方いる!」
「親方、プレゼントもってき……」
「親方!」
彼らにとって、その日は、生涯忘れることのできない、祭日になりました。
「親方。せっかく、黄金のシャチの置物を作ってきたのに、あんた、あんまり自分勝手じゃないか!」
あるものは泣き、あるものは目をつむり、あるものは唇をかみしめて、誰もが、その場に立ちつくしました。
そのときです。
「おーい、沖に、黄金のシャチがきてるぞ! みんな、きてみろ。親方のいったとおりのシャチだ。みんな、でてこーい!」
声は、親方の部屋の中で、いく回も、いく回も、こだましているようにきこえました。
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