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最後に見たあいつは顔を歪ませ、苦痛に満ちた表情をしていた。
もし本当にオレのことを好きならば、きっとあいつは今頃苦痛の中にいるだろう。思い人を心に秘めながら、別の人と愛を誓わなければならないのだ。そしてこれからの人生全てをその人に捧げるんだ。
それは一体、どんなに辛いことか・・・。
でも実際はそんなことないのだろう。
あいつはきっと一時の気の迷いでオレのところに来ただけで、勘違いを起こしただけなのだ。今頃彼女の元に戻って、幸せにしてるはずだ。
案外本当にケロッとして、オレのことなんか忘れてラブラブ新婚生活を送っているかもしれない。
そう思ってオレは無意識にため息をつく。
自分で思いながらせっかく癒えてきていた傷を抉ってしまった。
やっぱりロクなことを考えない。
そう思って残った酒を一気に煽った。
でもそれでもきっと、家に一人でいるよりはマシだったと思う。適度なざわつきと、見れば直ぐに目を合わせてくれる友人がいるのだから。
マスターが目でおかわりを聞いてくれる。
それにオレは軽く首を振った。
今日はもう帰ろう。
一気に飲み干したお酒で適度に酔いが回り、頭がいい感じにぼわっとしてる。多分これならもう余計なことは考えないだろう。そう思ってオレは立とうとした。とその時、隣に誰かが立つ気配がした。
ここに座った時は話しかけないで欲しい時だと知らないということは、常連ではないのか?それにしてはマスターが止めなかったのはなぜだろう。いつもならやんわりとオレの周りを人払いしてくれるのに。そう思ってマスターを見ると、他の常連と話していた。
まあ、四六時中オレだけのために目を光らせている訳にもいかないか。
オレはそいつに付き合う気がないことを示すために、そのまま立ち上がろうとした。けれどカウンターに置かれた手に身体が固まる。
人差し指の付け根にある小さなほくろ。
そいつは動かなくなったオレの隣に静かに腰かけた。
「別れてきたよ」
落ち着いたその声に、オレは反射的にそいつを見た。
「彼女に土下座して結婚をやめてもらった。それであちらの両親にも告げて父親に殴られた。うちの親からも激怒されて勘当されたよ。で、結婚をやめた理由を正直に話して会社も辞めた」
淡々と話すには物騒なその内容に、オレは呆然とそいつを見てるしか無かった。
「お前に言われて、オレが今まで全てのことから逃げてきたことに気づいたんだ。それでオレはまた、彼女から逃げようとしているんだってことも。だから今度はちゃんとけじめをつけてきた。オレは彼女と一緒にはなれない。彼女を愛していないから。だから今度はちゃんと逃げずに彼女と決着をつけてきた。嘘も誤魔化しもせず、ちゃんと話して分かってもらった。泣かれたけど、こんなオレと一緒にいるよりずっといいと思う」
そいつのその言葉に、見たこともない彼女が泣き崩れている姿が目に浮かんだ。オレはそんなつもりでこいつを帰したわけじゃない。オレを忘れて彼女と結婚して欲しかったのだ。なのにこいつは・・・。
「キャンセルのための全ての手続きも、キャンセル料も全部オレが払った。それから彼女と暮らしてた家を出る時に、オレの貯金も全部置いてきた」
見ればそいつの傍には大きなキャリーケースがあった。
家を本当に出てきたのか?
さっき親から勘当されたって言ってたけど、じゃあこいつは今どうしているのだろう。
「ごめんな、もう顔も見たくないって言われたのに突然来て。でも知って欲しかったんだ。オレはお前が好きだって。そして今度こそ、お前から逃げないって」
そしてそいつは立ち上がる。
「それだけ知っていて欲しかったんだ」
そう言ってキャリーケースを持った手を、オレは咄嗟に掴んだ。
「・・・どこに行くんだ?」
そんなオレに一瞬驚いた顔をしたけど、そいつは直ぐに困ったように笑った。
「オレの顔なんて見たくないと思って・・・とりあえず伝えたいことは伝えたし、お前の前から消えようと・・・」
「どこに?」
そのままやんわりとオレの手を離そうとするそいつの手を、オレはもう片方の手で上から押さえる。
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