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スミレ
夕方から大雨になる。
確かに天気予報はそう言っていたのに、どうして無視してしまったんだろう。
雨ばかりの日々の少しの晴れ間に、今日の予報はハズレだと都合の良い解釈をして部屋を飛び出してしまった。
街中なら雨宿りできるお店もあったのに、よりによってどうして河川敷のマラソンコースまで来てしまったのか。自分の勘の悪さが憎らしい。
雨の勢いが激しくて顔が痛い。心が折れかけた時、運良く公園が現れ、慌ててトイレの屋根下に駆け込んだ。
真っ黒な雲から落ちてくる雨は、そう簡単に止みそうにない。心細さで、この場所が世界から忘れられた空間のように思える。
味気ない公園に一本だけ立っているあの大きな木も、青々とした葉っぱに隠れて泣いているみたいだ、と感傷に浸っていた時。
葉っぱの隙間を縫うように、何かが動いたような気がした。
木に登った猫が下りられずに困っているのか、風で舞ったビニール袋が引っ掛かっているだけなのか。気になると確認したくてたまらなくなった。
雷の音は聞こえない。落ちてくる心配はないだろうと、懲りずに勝手な解釈をして走り着いた木の下は、葉っぱに守られているのか思ったより雨粒があたらなかった。
頭上から聞こえてくるカサカサという音の正体を確認しようと、ゆっくり顔を上げた私の目に、透けてしまいそうに白い何かが映った。
ソレが枝から枝へステップを踏むように動く度、枝が細かく揺れ、葉っぱが踊った。雨粒が楽しげに弾かれて、小さな光の輪が産まれる。
その異様で美しい光景に、怖いと思うのも忘れて見入ってしまっていた。
「そこの方。もしや、私の姿が見えているのですか?」
突然ソレが発した声をどうしてあんなに自然と受け入れられたのか、自分でもよくわからない。きっと、あまりにも穏やかで、身構える事さえ忘れてしまったんだと思う。
「はい。でも、ハッキリは見えません。動いているのはわかるけれど、姿は捉えられないんです。まるで大きな布のよう」
「ははは。面白い事を言う。近づいたからといって、私の姿を捉えられるかはわかりませんよ」
フワリと優しい風が頬に触れ、目の前に消えてしまいそうに色の白い男の人が舞い降りた。
「み……見えます」
「私はどんな姿ですか」
おかしな事を聞く人だと思いながら、真っ直ぐ見つめてくる目を見返した。
「淡いピンク色の着物を着ています。透き通るように白い肌で、薄い茶色の瞳……」
「そうか。ありがとう」
思わず一歩近づいた私を、牽制するように男の人が視線を逸らす。
「あの……ここで何をしているんですか?こんなに濡れたら風邪を引きますよ」
「私は雨に濡れるのを厭うた事はないよ。それに、雨も上がった。さぁ、この隙に帰りなさい」
ハッとして周りを見ると確かに雨は止んでいたけれど、遠くの空には相変わらず雨雲が浮かんでいて、タイミングを逃したらまたここから離れられなくなるのが目に見えていた。
答えを貰えなくて心残りだったけれど、男の人の有無を言わさぬ言い方に、大人しく立ち去ることしかできなかった。
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