1人が本棚に入れています
本棚に追加
その日以来、気づくとあの人の事を考えるようになった。
勉強していても、友人とご飯を食べていても、バイトをしていても、こびりついたように頭から離れない。
早くもう一度あの場所に行きたいと思う気持ちと、行って会えなかった時の絶望感の間で心が揺れ、覚悟が決まるのに一ヶ月もかかってしまった。
梅雨が明け、よく晴れた日。少しだけオシャレをして木の下に立つと、男の人は変わらない姿で枝と枝の間を舞っていた。
「こんにちは。今日は良いお天気ですね。そんな風に動いて暑くないですか」
「……これは驚いた。また来たのですか」
穏やかで心地良い低さの声を聞けただけで、私も宙に舞えるような気がした。
「はい。あなたの事がどうしても気になって。私を覚えていてくれたんですか」
「人と話したのは久しぶりだったからね」
「え?」
「おや?私が人ではないとわかっていなかったのかな?」
男の人はフワリと私の前に再び舞い降りると、汗一つかいていない涼しげな顔で笑った。
「人では……。えっ?あなた人間じゃないんですか?じゃあ何?幽霊?」
「ははは。やはり面白い事を言う人だ」
思い切り表情を崩して笑う姿に、胸がドキッと高鳴った。
「私、そんなに変な事を言いましたか?」
「いや、すまない。私は、この桜の木と共に生きているんだ。人は私のようなものを精霊と呼ぶようだね」
「精霊?それって小さい女の子じゃないんですか?あなたは男の人だし、私よりも背が高いじゃないですか」
「ははは。また面白い事を。花や木にだって、人と同じように異なる命が宿っているんだよ」
「あ、成程。そうか……そうですよね。桜の精霊さん……なんですか。お名前はあるんですか?」
頭の中は大混乱しているのに、知りたい気持ちが上回って、無条件でこの人を信じようとしている自分がいた。
「名か。随分と昔には、霞と呼ばれていたな」
「霞さん」
「あぁ。消えてしまいそうだからだと言っていたなぁ」
名付けた人を思い出しているのか、霞さんの瞳が揺れたように潤む。
その人の事を霞さんは好きだったのかもしれないと思うと、心がザワついた。
「私もそう呼んで良いですか。私、今野スミレといいます」
「あぁ。勿論構わないが……。スミレは不思議な人だなぁ」
「私の?どこが?」
「他の者なら名を聞く以前に私の存在自体を信じないだろうに、スミレは思っていた精霊の姿と違うとは言っても、私が嘘をついているとは思わないのだね」
「本当だ。不思議ですね」
「信じてもらえるというのは、嬉しいものだなぁ」
霞さんが透けてしまいそうな頬をほんの少し赤らめ、ホロリと涙を一粒零した。その桜色の涙が堪らなく愛しく思えて、この人が何者でも構わない、そう思ってしまった。
最初のコメントを投稿しよう!