スミレ

2/3
前へ
/9ページ
次へ
その日以来、気づくとあの人の事を考えるようになった。 勉強していても、友人とご飯を食べていても、バイトをしていても、こびりついたように頭から離れない。 早くもう一度あの場所に行きたいと思う気持ちと、行って会えなかった時の絶望感の間で心が揺れ、覚悟が決まるのに一ヶ月もかかってしまった。 梅雨が明け、よく晴れた日。少しだけオシャレをして木の下に立つと、男の人は変わらない姿で枝と枝の間を舞っていた。 「こんにちは。今日は良いお天気ですね。そんな風に動いて暑くないですか」 「……これは驚いた。また来たのですか」 穏やかで心地良い低さの声を聞けただけで、私も宙に舞えるような気がした。 「はい。あなたの事がどうしても気になって。私を覚えていてくれたんですか」 「人と話したのは久しぶりだったからね」 「え?」 「おや?私が人ではないとわかっていなかったのかな?」 男の人はフワリと私の前に再び舞い降りると、汗一つかいていない涼しげな顔で笑った。 「人では……。えっ?あなた人間じゃないんですか?じゃあ何?幽霊?」 「ははは。やはり面白い事を言う人だ」 思い切り表情を崩して笑う姿に、胸がドキッと高鳴った。 「私、そんなに変な事を言いましたか?」 「いや、すまない。私は、この桜の木と共に生きているんだ。人は私のようなものを精霊と呼ぶようだね」 「精霊?それって小さい女の子じゃないんですか?あなたは男の人だし、私よりも背が高いじゃないですか」 「ははは。また面白い事を。花や木にだって、人と同じように異なる命が宿っているんだよ」 「あ、成程。そうか……そうですよね。桜の精霊さん……なんですか。お名前はあるんですか?」 頭の中は大混乱しているのに、知りたい気持ちが上回って、無条件でこの人を信じようとしている自分がいた。 「名か。随分と昔には、(かすみ)と呼ばれていたな」 「霞さん」 「あぁ。消えてしまいそうだからだと言っていたなぁ」 名付けた人を思い出しているのか、霞さんの瞳が揺れたように潤む。 その人の事を霞さんは好きだったのかもしれないと思うと、心がザワついた。 「私もそう呼んで良いですか。私、今野スミレといいます」 「あぁ。勿論構わないが……。スミレは不思議な人だなぁ」 「私の?どこが?」 「他の者なら名を聞く以前に私の存在自体を信じないだろうに、スミレは思っていた精霊の姿と違うとは言っても、私が嘘をついているとは思わないのだね」 「本当だ。不思議ですね」 「信じてもらえるというのは、嬉しいものだなぁ」 霞さんが透けてしまいそうな頬をほんの少し赤らめ、ホロリと涙を一粒零した。その桜色の涙が堪らなく愛しく思えて、この人が何者でも構わない、そう思ってしまった。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加