記憶

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記憶

 深い木々に囲まれた離島の奥には、遥か昔に建てられた古い木造家屋があった。  私たちはそこをタダ同然で借りて、しばらくの間二人で暮らした。  電気も水道も通ってなかったけど、昼は明るい日差しが射し込み、夜は光り輝く星空が広がり、心が解き放たれたような気持ちだった。  雑草が生い茂った荒野を少しづつ整え、持ち込んだ苗を植え、種を蒔いた。  この新芽が大きくなる頃にはどんな生活をしているのだろうと、未来に希望を馳せた。   「優月(ゆづき)、愛してる」   「私も」    彼と私は砂浜に腰掛け、寄り添いあいながら地平線に沈みゆく太陽を眺めていた。  熱射にさらされていない初夏の浜辺は、裸足で歩いても寝転がってもへっちゃらだ。  もっとも、ここは海水浴用に人工的に手が加えられたものではないから、私たちの他には人はいないし、そんなことをしようとする人間は、私の他には存在しないのだけど。    私はドサッと後ろに背中を倒した。  サラサラの砂に時折混じる枝葉や石が、薄手のシャツのみの上半身を稀にチクチク刺激する。   「寝心地悪ーい」   「じゃあ、もうベッド行く?」    彼が意地悪そうに笑いながら言った。  この島に来てから色々な手入れを怠っているらしく、短く清潔感のあった髪の毛は無造作に伸びっぱなしだ。  かけていた縮毛矯正は取れ、強めの天然パーマになっているし、肌は小麦色にこんがり日焼けしている。  以前のきちんと整えた眉に、折り目のついたシャツ、ほのかに香る整髪剤の匂いも嫌いじゃなかったけど、野性味のある今の彼も、これはこれでやっぱりときめいてしまう。   「ううん、もうちょっとここにいたい」   「そっか」    太陽が消えていく境目は、青と橙が入り交じった独特の色をしている。  入学前実家に住んでいたころは、一歩家の外へ出れば毎日この景色を見ることができたから、貴重だとは思わなかった。  悲しいときはよく一人でたそがれて、心を落ち着けていたけど、いつしか都会色に染まってこうすることはなくなっていた。  東京の空が狭いのも一理あるけど、私には心を打ち明けられる人ができたのだ。  しんどい私に気づいて暗いところから拾い上げてくれるのは、いつも彼なんだ。   「(より)くん、私ずっと頼くんのそばにいていいよね?」    今は幸せだけど、いつか、この幸せが崩れてしまいそうで怖い。  幸せは永遠じゃないこともあると、大人になった私たちは知ってしまったから。    私が彼の腕を引き寄せると、彼はぐっと私の腰を引き寄せ、大きな手で頭を撫でた。   「そんなの、もうそうするしかないだろ? 俺はここで、ずっと優月と生きていくよ。俺がいなくなったら優月すぐ泣いちゃうから、面倒みてやらないとな」    頼くんはそういって繋いだ手に力を込めると、柔らかく笑った。      日が完全に落ちて、今日も暗闇に星が散りばめられた。  ネットもインフラもろくに整備されていないのに、毎日が充実していて、とても満ち足りていて、世界はなんて素晴らしいのだろうと思った。     「……それにもう、引き返せないし……」   「頼くん?」    ふと、彼は顔に影を落とした。  どうしたのだろうかと覗き込めば、わずかに口をぎゅっと結んで罰の悪そうな顔をしていた。   「いずれこうなるとは思っていたけど、遥か先の未来の話でどこか他人事だと思っていた。充分に準備したつもりだったけど、いざというと不安がつきまとうな」   「私なら幸せだよ?」   「俺が駄目なんだ。絶対にうまくいくという保証はないし、君にもしものことがあったら俺は……」    腰を抱く彼の手がかすかに震えているのに気付き、私は気丈にふるまった。   「私はあなたの隣が一番幸せなの。忘れないでね。あなたと会えなくても、ずっと心の中にあなたがいるって」    彼の手の甲に私の手のひらを重ね合わせ、そっと撫でる。  骨張った男らしい彼の手に触れると落ち着くのは私の方で、暖かい体温から彼の想いが流れ込んできて、私の指先から爪先まで、彼に包まれている心地になる。   「優月……」   「頼くん」    低く艶のあるで呼ばれると、何もかも手放して彼との逢瀬に溺れたくなる。  いや、もう溺れている。  私にはやっぱり彼しかいないし、彼がいればいい。   「頼くん」   「優月」   「頼くん……」    幸せだ。  茜色から深い青に染まる夜の始まりも、橙から空色に変わる朝の訪れも、いつもより何倍も美しく見えた。           「優月」    頭上から若い男性の掠れた声が聞こえてきて、私はぱちりと目を開けた。  明るく茶色に染めた髪はワックスでがちがちに固められ、オーダーメイドのシワのないスーツの袖からのぞくスマートウォッチは、磨き上げられ光沢がある。  紫色のネクタイは、彼が父親に貰ったものだろう。私にはよくわからない高級感漂うロゴが刻まれている。  隙のない身なりをした青年は、寝ている私を一瞥すると、冷たい声で言い放った。   「お前いつまで寝てんだ阿保。弁当も用意せずに朝から呑気に寝てられるなんて、本当にいい御身分だな」    ハッと起き上がりスマホの側面にある電源を押すと、午前六時半。いつもの起床時刻から三十分過ぎていた。   「ごめん、今すぐ準備するね」    私はこの青年と結婚を前提に同棲している。
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