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大学生活も折り返しに入った、三年生の春のことだった。
「うちの農園の隣に大きな病院があるだろう。そこの息子がおまえと同世代なんだってよ、優月。会ってみないか? 院長がおまえを気に入って、せがれに是非とおっしゃっているんだ」
父が龍平との縁を運んできた。思ってもみないことだった。
好きな人も気になる存在もいなかったら、あるいは高嶺の花のような男性に恋していたら、地元の病院の跡継ぎの婚約者となる未来に少しは乗り気になっていたのかも知れない。
しかし私は父が思っているより積極的だったのだ。
梅雨のある日、雨がしとしと降り続いていた。
太陽が隠れた世界は薄暗く、自然と土気が下がる。数人と連れ立って帰宅の途についたけど、雨音に負けて話し声がよく聞こえない。
いつもなら会話についていこうと耳を澄ますけど、このときは雑音が味方になってくれた。
今から話す話は、人を選ぶ。
私はビニール傘の柄を握りしめた。
「頼くん、聞いてくれる? 私、婚約者ができたの。卒業したら結婚するの」
私は独り言のように語りかけた。
最後尾の頼くんにだけ聞こえるように。
「……」
「え、今なんて言った?」
「婚約」
「君が?」
「うん、私が……」
彼は呆然と立ち尽くした。
立ち止まったから、前方集団との距離が開いてしまった。友人たちは突然消えた私たちをどう思うんだろう。
「……誰と?」
「地元の……わかんないけど……病院の人……」
「……そっか……」
"おめでとう"と言わない彼に安堵した。
そっか、と早足で歩いていってしまったらどうしようかと思った。
何を考えているか分からないけど、私の両親のように喜んでいる声色ではなかったから、一段回目は突破した。
はしたないと思われようが、私は彼が欲しかった。
「だから……その……、良く知らない人と結婚する前に、普通の恋人みたいなことして欲しいの」
「……」
「い、一回! 一回だけでいいから……」
察しがいい彼は、恐らくその意味をすぐに理解しただろう。夕闇と大きな傘に隠れて、表情は読み取れなかった。
「……誰でも一緒だよ、別に大したことないと思うよ。俺より多分、そいつの方が上手いと思うよ」
「……私じゃ興奮しない?」
「そういうことじゃないけど」
遠回しに断られ、胸が痛む。けれど私はめげてはいられない。
「私は頼くんがいいんだけど」
「俺は俺をお勧めしない」
「何で?」
「何でも」
後から聞いた話では、恋愛経験の少ない自分では私を満足できるか自信がなかったとのことだったが、そんなの私が知る由もない。
「私はあなたがいいんだよ。頼くんが好きなの、お願い」
広げた傘に勢い良く突き刺さる雨は、次から次へと露先へと雪崩れ込んだ。彼の靴先はしっとりと濡れている。
困らせるのはわかっていたけど、言わないという選択肢はなかった。
彼はしばらくその場へたたずみ、真摯な眼差しを私に向けた。
「俺も好きだよ」
「じゃあ……!」
「でも、だからこそ一時凌ぎじゃなくて、ずっと俺の彼女になるというなら付き合ってあげてる」
私たちの周りから雨音が消えた。
私は婚約内定してると言っているのに、ずっととはどういうことだろうか。話を聞いてなかったのか。
首を傾げると、頼くんはスラスラと話し始めた。
「そうだ……計画を立てよう。三年生が終わるまでに単位を全部取り終わる。平行して卒論を書き始め、いつでも提出できるようにしておこう。完成したら信頼できる友達に託して、後は二人でどこか遠くへ逃げよう。婚約の話を断ることが許されないなら、逃げてしまえばいいんだよ。俺だって君を他の男にやりたくない。これからもずっと一緒にいようよ、半澤さん」
頼くんは本気だった。
話が変な方向へ向かおうとしていたけど、当時の私は気づくことはなかった。頼くんに誘われた、という嬉しさで胸がいっぱいで、その他のことはどうでもよかった。
無謀とも言える計画は遂行され、翌年のゴールデンウィークに旅行へ行くと言い残し消息を絶った。山手線に乗ったらスマホは電源を落とし、足跡がつかないように切符を券売機で購入しながら進んだ。途中下車して二駅先まで歩いたり、バスやタクシーを利用したりしてカメラに捉えられる可能性も考慮した。
その甲斐があってか、この離島での生活は半年以上見つかることはなかった。島の最奥のタダ同然の建物は、いずれリフォームするつもりで借りた。頼くんは既に在宅でアルバイトをしていたので、本腰を入れて多くの案件を受注していた。私にできそうなら手伝った。
そうしてふた月ほど過ぎた頃、新しい命が宿り、二人で飛び上がって喜んだ。
「赤ちゃん!? 本当に!? やったぁ、ありがとう優月!」
「頼くんにそっくりな赤ちゃん、絶対可愛いだろうな」
「俺は優月に似て欲しいんだけど」
「なんで? 天パだから? とっても可愛いよ大好きだよ」
「……」
唇が触れたと同時に、当時の駆け落ちしたいきさつも、脳内がお花畑だったことも全て思い出した。
|(私が一夜限りの思い出を迫らなかったら、こんなことにはなっていなかったってことよね……)
私は血の気がひく思いがした。
彼はどんな気持ちで、離島への極秘移住なんか提案したのだろう。
|(本当に私のことを好きでいてくれていたとしても、頼くんにはメリットなんかなくない? 家族仲が悪いとか、毒親だとかも聞いたことないし、彼には彼の、順当に就活して新卒枠でいい会社に就職するという道があったはずなのに、それをいたずらに奪ってしまっただけじゃない……? )
口付けられた唇からも、徐々に熱がひいていく。
私は彼から身体を離した。
「ごめん、頼くん……就活とか色々、大変だったよね」
「突然どうした?」
「ごめん、信じられないかも知れないけど、なんか今急に記憶がブワァーって流れ込んで来て、全部思い出したんだ」
「……え」
頼くんは目を丸くしていた。
「その……ちょっと年齢制限かかるようなこととか色々、やっちゃったこととか」
「入れ墨を彫り合いっこしたこと?」
「……」
それは忘れていた。
「……あれはさすがに、頭おかしかったよな。ごめんな。専門知識もろくにない俺らが、彫師のブログと教本だけを頼りにスムーズにできるはずなかったよな」
彼は髪を上げ、耳の上の頭皮を露出させた。目を凝らして見ると、傷跡にしか見えない赤い何かが刻まれている。
彫り合いっこというからには、私のこめかみにも同じような印があるのだろうか。そんなことをしたような気もするけど記憶が定かではない。
私は横髪を耳にかけ、寄せ集めた髪の毛を後ろへと流す。
「どこ……? 見える? 何の模様?」
「……ハート」
「ベタ過ぎない?」
頼くんは私を見ながら吹き出した。
彼の模様は失敗した上に化膿してみすぼらしく残ってしまったけど、私のは彼が上手に彫った自信作らしい。そんなこと自慢気に話されても困る。
過去の自分たちは羞恥心をどこへ置き忘れてしまったのだろうか。
「……楽しかったのは分かったけど。でも、それと頼くんが今大変なのは別問題よね。子どもを育てているなんて知らなくて、何の力にもなれてなくて、本当にごめんなさい」
「優月……?」
「どんな風に詫びたらいいか分からない。どうすればあなたと子どもの為になる? 何をすれば……」
仕事もできて性格もいい彼の未来を、こんな風に潰してしまって。
二人の間に産まれた子どもも、産後記憶を失くした私に赤ちゃんの世話はできないと、彼の方に託されたのだろう。
年若く未婚のシングルファザーなんて、仕事を見つけるのも働き続けるのも苦労しただろう。
それなのに私は何も知らずに生きてきたなんて。
全部私のせいなのに……
「ごめんね、頼くん……大変だったよね」
一刻も早く彼を解放してあげなければいけなかったのに、父親業が板につく程に彼はもう立派なひとりの親に見える。
私が子どものお世話を引き継ごうにも、育児に不慣れな私じゃ心もとないし、今さら父子を離すことはできないだろう。
言い知れぬ罪悪感で、心がどんどん埋まっていく。
「何だったらできるかな……? 私、たいしたことできないけど……」
いてもたってもいられなくて、すがるように彼を見つめれば、彼はわざとさしく天を仰ぎ見た。
「何かって、そういう曖昧な言葉言わない方がいいって言った気がするんだけどな」
そう言うと見上げた私の両頬をゆっくりと硬い手のひらで包んだ。
|(あ、嘘。これ、またキスされる……)
彼はまたしても勝手に唇を重ね合わせた。
懐かしい彼の香りが、私を包み込んだ。
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