164人が本棚に入れています
本棚に追加
/21ページ
お見舞い
匿名でコミュニケーションが取れるSNSを通して、頼くんは私にたくさんのことを話してくれた。
ある日は息子の大和のこと、またある日は彼自身の仕事のこと。子育ても頼くんの仕事である営業の仕事も私にとっては馴染みがなく、見聞きする全てが真新しく新鮮だった。
特に息子に関することには些細な変化にも敏感で、『今日の大和』と称し、連日のようにダイレクトメッセージで写真を送ってくるのだった。
大きなパンを持ってピースサインをしている写真には、親バカ全開のコメントを添えて。
『メロンパンと大和どっちが可愛い?』
比べる対象がおかしいような気がするが、多分気のせい。
『右かな』
『そうだろ? 食べたいだろう?』
ふんわりモチモチしたほっぺたはツンツンしたくなり、つい笑みがこぼれてしまう。
それに何より、笑った拍子にふんわり揺れる髪の毛や、くしゃっと潰れた表情が彼にそっくりだ。
画面の向こう側に行って、この可愛い生き物を抱きしめたい。
産んだことは思い出したけど、一度も抱くことはなく取り上げられた赤ちゃん。それがこんなに大きくなって、大好きな彼と同じ顔で微笑んでいるなんて。
心の奥がキュンと鳴る。
感慨深いような、切ないような不思議な気持ち。
心の隅に置いていた記憶の中で、私は確かに頼くんと愛し合っていた。その過程で育まれた命についても、生まれるのを心待ちにしていた。ゆったりとした時間の中で少しずつ存在感を増していく赤ちゃんは、今まで見聞きしていた何よりも神秘的だった。
二人で出産に挑み、二人で育てるつもりだった。
私たちの安否を心配した双方の両親が、どうにか居場所を突き止めて迎えに来たからそれが叶うことはついになかったけど、一緒に慈しんで育てていきたかったのは事実。
婚約を破棄することはできず、生まれたら頼くんに子どもに関する全ての権利をを渡す、という名目で出産させては貰えた。
だけど悲しくて辛くて自暴自棄になった私は、「夢であって欲しい」と祈り、産後眠りについた後、およそ一年分の記憶が消えてしまうことになった。
大きなストレスから身を守る自分なりの自己防衛だったのかも知れない。
でも、知りたかった。
首が座った日、ハイハイをした日、子どものちょっとした成長を一番身近に感じたかった。
それができなかったのは、やっぱり悲しい。
周りの望む人生のルートを辿らなかったのは私だし、悪いのは自分だと分かっているけど。
「……いやいや! 辛気臭いな! 会えたんだからいいじゃない! 実の親に忘れ去られていたときよりはマシだし、こうして頼くんは繋がってくれてるし!」
意識がネガティブに転がりそうで、私は慌てて軌道を正した。
頼くんと息子の存在は私に明るい希望の光を灯してくれた。今はそれで充分なのだ。彼らがいれば、これからも人生を渡っていけるだろう。
|(頼くんは私とのやりとりで喜んでくれているかな。画面の向こうでどんな顔しているんだろうな。きっと笑ってくれているよね)
「おい、いつまでスマホ見てんだ。さっさとやることやれよ」
龍平の声でふと我に返り、電源を切って裏返しに置く。
入院している龍平の母に見舞いに行く予定を立てていたのだったが、気がつくと出発時刻が迫っていた。
壁掛け時計の秒針がカチコチ鳴る音を聞きながら、やってしまった、と後悔した。
頼くんとのメッセージのやりとりをするなら、他は完璧にしておかなければと自分で決めたのだ。やましいことはないにしろ龍平に秘密にしているという事実は変わらず、胸がチクンと痛むから。
「……お前なぁ、みすぼらしい服着て行くなよ?」
龍平は私の服装に目を移すと、わざとらしくため息を吐いた。
自分自身を見下ろして見れば、数回しか着ていないのに毛玉ができたセーターに、ジーンズは膝の部分が薄くなって直に破けそうな風合いをしていた。
確かに、誰がみてもこれは貧相さを醸し出しているかも知れない。
「ごめん……」
だが、これは家計を考え財布と相談した結果だ。
金銭的にそこまで切迫しているわけではないが、私よりだいぶ稼いでいる龍平の賃金から自分のものを購入するのは気が引ける。
一度スカートを新調したとき「どこに着ていくんだこんなの」と突っ込まれたのもあり、持ち合わせで着回しているのだ。
|(そういう理由なんてきっと、龍平は考えたこともないだろうけど……)
私はセーターにできた毛玉やほつれを隠すように、ボタンのないロングコートからショート丈のダウンジャケットに着替えた。
|(嫌なことは目をつぶって耐えればいいのよ。あなたはすぐ落ち込むけど、鬱にはならない強い子でしょ? 頑張って優月! )
私は自分自身を鼓舞した。
龍平と会っているときの全ての時間が仕事だと割り切れば、愛想を振り撒くのもご機嫌を取るのも慣れているから。
「あら、優月ちゃん久しぶりね。来てくれてありがとう」
病室へ着くと、龍平の母が穏やかな顔で出迎えてくれた。
四人部屋の病室の窓際のベッドに横たえる彼女は、もう数ヶ月はここで暮らしている。一度は良くなる兆しを見せたものの、長引く治療に弱った身体は耐えることが難しく、現代の医療を持ってしても治療の効果は日進月歩といったところだそうだ。
「おい、無理して起き上がらなくていいって。寝てろよ」
「そんなこと言って、せっかくあなたたちが来てくれたんだもの。おもてなしくらいしなくちゃ」
「いいって。母さんはいつも働き過ぎなんだからこういうときにはおとなしくしてろよ」
母を気遣う龍平の態度は私とは全く違う。血の繋がりがある愛する肉親を心から労るような、優しい目をしている。この優しさのほんの一部でいいから私に分けてくれたらいいなんて、嘆いたこともあった。けれど決してその愛情が私に向くことはなかったし、求めれば求めるほど虚しくなるだけだと知った。
大事なのは、無になることである。
病室の窓の外に一面に広がっている実家の果樹園を見下ろしながら、二人の会話をぼんやり聞き流す。
「そういや、新薬来たか? 今日明日届けるって言ってたよな」
「ええ、やっとね~! 院長の妻なんだからもっと優先してくれてもいいわよね~? 優先すべき命っていうのがあるでしょうに」
「……」
|(未来ある子どもたちの命とかね)
心の中で突っ込んで、テレビ台の隣に置いてある花瓶に手を伸ばした。細い花瓶にはが冬を連想するウィンターローズや白いガーベラが数本生けてある。ずっと入院している彼女にとっては季節を感じられる貴重な存在だろう。凛とした静かな美しさが、質素な病室を彩る。
新しい薬が効いて龍平の母が元の生活に戻ったら、今度こそ本格的に入籍の話が進むだろう。
そうしたら本当に、頼くんや息子と会うことはためらわれる。慰謝料や何だと、一気に不穏な雰囲気がのしかかる。いつまでもおままごとの続きをしてはいられない。
「水変えますね」
たっぷりと水を汲まれた花瓶を、左手で支えてそっと持ち上げる。
分かってはいたものの、そろそろゲームオーバーだという現実がずっしりと重くのしかかる。
時が止まればいいのに、いや、戻ればいいのに。
何度同じ台詞を呟いただろう。
願っても無駄だというのに、忘れようと手離してもまた頭の中に戻ってきて心の中に居場所を作るのだ。
しつこいほどまとわりつく、貴方への想い。
「そうだ母さん、俺たち来月籍を入れることにするわ」
ふと、明朗な声で龍平が口を開いた。
|(……え? )
記憶を手繰り寄せてみたが、今に至るまでそんな話は一回もしていない。
龍平はいつもと同じように同じテイストの服に身支度を整え、火元の消化と電気やエアコンのオフを何度も確認し、しっかりと玄関の鍵をかけた。
家を出る際ののルーティンも、運転中も、変わった様子はなかった。
|(え……待って、急に? 冗談よね……? )
私の心臓は大きく脈を打ち、冷や汗が背中を伝った。
|(こんなに突然終わりとか、ある……? )
花瓶を持つ手が小刻みに震えた。
龍平はどんな顔をしているのだろうか。
もしかしてなにか知っているのだろうか。
だとしたらどこまで? 誰から聞いた?
頭を垂れていた花冠から、花びらが一枚、ポトリと落ちた。
最初のコメントを投稿しよう!