お見舞い

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 私は言葉を失った。    |(そんな……! 半分以上病院側に取られたら、うちの経営は成り立っていかない! )    果樹は苗木を植えてからすぐには収穫することができない。食べられる美味しい果実を採れるようになるためには長い年月をかけて育てなければならない。  龍平が提案した土地はどれも、若い苗木が植えられている土地だ。実をつけるようになって浅く、まだ苗木代の元が取れていないし、新品種の交配を行っている木もある。   実家の収入の大半は農園の経営で賄っており、龍平にとってはわずかな土地でも、うちにとってはどこも必要不可欠な大切な農地だ。土ひとつであっても何年も、何十年も堆肥をまいて太陽を照射させてこだわってきたものだ。普段消費者はそんなことまで考えて手に取らないだろうけど、値段に見合わず大変な苦労をして作られている、それが農作物だ。  商品の値段は小売り業者のマージン込みで設定されているから、市場での業者の買い取り価格は店頭よりも随分と安い。  それでも第一次産業従事者は私たちに良いものを届ける為に頑張っている。    せっかく父が育成してきたものを踏みにじるようなことはしたくない。  どうかこのままの状態で維持して欲しい。  でもーー    |(きっと父はこのことを知らない。()が格上のお家に嫁に行けて、めでたいだけだと思ってる)    私は拳を握りしめた。  龍平と籍を入れれば、私にとっては玉の輿だが実家はほぼ確実に収入が減少し、廃業待ったなしだ。  仮に籍を入れずに頼くんと息子が待つ家へ逃げたとしても、龍平の家の権力を舐めてはいけない。  地元の有力者である彼の家の指示に従わない者はいない。裏で根を回し、市場ではうちの出荷物は買い取ってくれなくなり、品質が悪いなど嫌な噂を流されたりするかも知れない。  私のことも、婚約者を捨て浮気相手へ入れ込んだ尻軽女として言いふらし、父や母、妹家族の安寧まで脅かすかも知れない。    そうなったら私は、頼くんと一緒になっても幸せにはなれない。ずっと自分の決断を恨んでしまうだろう。こんなとこに来なければ良かったって、おとなしく龍平のいいなりになっておけば良かったって……。     「龍ちゃんは赤ちゃんのころからパパに憧れてたものね。やっと夢に一歩近づけるのね。もう、アタシも自分のことのように嬉しいわ」    龍平の母の顔が綻んだ。痩せて筋張った顔に、新たな皺が刻まれる。彼女は私の顔を見て、何か閃いたように両手をパチンと合わせた。   「そうだ! それならいっそのこと、ここで悩みの種を全て取り除いちゃいましょうよ。副院長になる男がウダウダ悩んでいるのはカッコつかないじゃない?」   「悩み……ですか?」   「なぁにあなた、今までの一連の流れで龍ちゃんが傷つかないとでも思ったの?」    彼女の蒼然たる瞳に、背筋が凍る。    「あなた子どもがいるそうじゃない。過去の出来事とは言え、本妻に隠し子なんてどう考えても龍ちゃんにマイナスイメージだわ。ここでそれを断ち切るべきだわ」    義母になる人はそういうと、私に向けて手のひらを差し出した。   「携帯を貸しなさい。あなたの忌まわしい連絡先をひとつ残らず消してあげる」    にっこり微笑むと、龍平もそれに同調した。   「いい考えだな。この機会にスマホ新しいの買ってやるよ」    彼は私の足元に置いてあったバッグを漁り、スマートフォンを取り出した。三年ほど使い続けているからケースも画面の保護シートもたくさん傷がつき、動画の読み込みやカメラ機能など何をするにもいちいち遅いけれど、多くの時間を私と過ごした大切な相棒だ。  高価なものだから壊さないように丁寧に扱ってきたし、頼くんとの思い出もたくさんこの中に収まっている。   できたらずっと手元に置いて大事に取っておきたい。辛いときに見返して心の支えとなって欲しかったけど。   「ありがとう……」     私は絞り出すように声を出した。   ここはそうするしか道はない。    |(心の中だけはずっと頼くんがいてくれる。大丈夫、大丈夫よ……)    自分自身に言い聞かせながら、スマートフォンの行く末を目で追った。龍平の手から龍平の母の手に渡る。  変に疑われると嫌だから、パスワードを設定してスマホをロックしてはいない。それがこんな形で使われることになるとは思いもしなかった。    龍平の母は私のスマホの画面に指を滑らせながら、SNSやアプリの会員登録を流暢に解除していく。病気で弱っている妙齢の女性とは思えない、器用な手つきだ。   「どこで繋がっているかわからないものね。他人と交流が持てるものは全て消してあげるわ。スッキリするわよー」     |(こんなことなら、タブレットでも使っておけば良かったかな。そうしたらもっと繋がっていられたかな……)    自分を戒めたはずなのに、次から次へと少なくなっていくブックマークに、底知れぬ寂しさが込み上がる。  思い出は自分の頭の中でずっと消えないはずなのに、それで了承したはずなのに、やっぱり目に見える形で残しておきたいなんて、頼くんや大和のことに関することにはどうしてこんなにワガママになってしまうんだろう。   視界がだんだんぼやけていく。    |(全部夢だったらいいのに)      これは夢で、頼くんと大和がいるあっちが現実。  私には最初から婚約者なんていなくて、両親は評判のいい果物をずっと作り続けている。  妹は離婚なんてしていなくて、夫と子どもたちもみんな仲良く、たまに実家に泊まりに集まるんだ。  私と頼くんと大和と、妹家族と両親とで、ずらっと並んだりんごの木の下でみんなでピクニックをするんだ。  丸くて真っ赤なりんごを丸かじりして、美味しいねって言い合うんだ。  そっちが本当は現実なんだ。  これは夢、ちょっと辛くて、長い夢……      あり得ない妄想が広がったのに、止める術を持たない。  どうして、こうなっちゃったんだろう。  どうしてみんな幸せにはなれないんだろう。       「これくらいでいいかしらね。ちょっと疲れちゃった。あとは龍ちゃんお願い」    龍平の母は目頭を押さえて、スマートフォンを龍平に手渡した。   「おう」    彼は残りのアプリの会員登録も一気に消そうと親指を連打した。  ところが、瞬間、小さな子どもが駆け出す足音がしたかと思うと、カーテンで間仕切りされた病室の中にいる彼の身体に小さな男の子が全力でぶつかってきた。 
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