天誅

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 彼はまたしてもニヤリと嘲笑った。     |(土地を全部……失う? )     龍平と入籍してもしなくても、いずれにせよ彼は実家の土地を半分以上奪い取るつもりだったのだ。  私は馬鹿だ。その可能性を想像できなかったなんて。   「別にうちの土地なんかなくたって、この病院は充分大きいじゃない。まだ足りないっていうの?」    父のこれまで築き上げてきた痕跡を跡形もなく消してしまうことになるのかと考えると、背筋がゾッとする。娘の結婚の先にこんなことが待ち受けていようとは、父は未だ想像だにしていないだろう。  龍平は父の気持ちなどもちろんお構い無しに、この場を優位な方向に運んでいく。   「これでも優しい方だろう。オレがおまえのためにどれだけ時間を割いたと思ってる? 全部無駄になるんだぞ! おまえにやった生活費も電気代も、俺が負担してやってんだぞ? おまえが稼ぐ能力がないばかりに……」   「……」   「そうだ! 製薬会社。この病棟に卸してる道光製薬おまえの関係者だそうじゃねぇか。この際だからいっそのこと取引中止させてもらうわ」   「えっ……!? 」     |(頼くんのことだ……! )    考えてみれば、寺田病院の担当をしている頼くんのことを、龍平が知っていても不思議ではない。  いつどのタイミングで知ったのかはわからないが、知る術は幾らでもある。何せ病院の跡取り候補なのだ。望めば自由に電子カルテを閲覧でき、患者の個人情報を知ることが可能ならば、私の秘密なんてすぐにバレてしまうだろう。私の分娩記録や子どもの出生経過、子父の氏名や生年月日や勤務先まで、龍平に筒抜けの可能性があるということだ。    「聞いたことない小さい会社だからな。ウチみたいな大病院失ったら痛手だろうなぁ? ま、自業自得だからオレには関係ねぇけど」    龍平は不敵な笑みを浮かべた。   「パパが営業成績駄々下がりして、おまえの可愛い息子ちゃんはちゃんとメシ食っていけるかなー? 可哀想になぁ、ひもじいなぁ。おとなしくオレと入籍した方がいいんじゃないの?」    「それは……!」    脳裏に、愛くるしく笑う大和の姿が浮かんだ。   私のせいで大和が食い逸れてしまうなんて耐えられないし、苦労して仕事を掴んだ頼くんにも、これ以上迷惑をかけたくない。未婚で子どもをひとりで育てている彼の就活が大変だったのは、想像するに難くない。  頼くんは一緒に暮らしたいと言ってくれているけど、それも今の安定した生活基盤があってこそだ。龍平が彼との契約を切ってしまったら、私まで養うなんて余裕はなくなってしまうだろう。    龍平から離れる決心をしたものの、先の見えない未来に心が揺らぎ、追い打ちをかけるように彼の母が私たちの入籍を後押しする。   「優月ちゃん、あなたのお母さんも言っていたじゃない。『好きな人と結婚してもどうせ上手くいかない』『舞衣()の二の舞になって欲しくはない。恋とか愛とか言ってないで、経済的に安定した人と結婚するべき』って」   「……っ」    |(そうだった……それも、一理あるのよね)     恋愛結婚をした末に別れた妹を間近に見てきたが、この結婚は違う、政略結婚だ。  そこに愛などないし、必要ない。  愛し合って結婚したとしても遅かれ早かれ夢から醒める。最初から相手に恋愛感情など持たない方が、長い同居生活において上手く作用することだってあるのだ。未来に期待すればするほど、落下したときに沈む。  それを私はよく知っているじゃない……。    無意識に後退りすると、窓ガラスに身体が触れた。十二月の短い冬の日差しが、私を背にして恍惚と降り注ぐ。      |(でも、それでも私は……)     言いたいことはあるのに、上手く言葉が出て来ない。  自分の口下手具合が嫌になる。もっとスラスラ喋れたら、龍平にも他の人にも、自分の意見をハッキリ言えたらーー      間仕切りの中に、再び静寂が訪れた。  それと共に、病室の外が慌ただしくざわついているのが耳に入った。   「患者さんはこちらです。急がせてしまってすみません」   「いいですよ。患者さんの為のお薬ですので。いち早く使用していただきたいという思いは僕も同じですからね」    バタバタと廊下を走る足音がだんだんと大きくなり、誰かが病室のドアを勢いよく開けた。私は下ろしたカーテンを手繰り寄せてそっと外を覗いた。    ーーここから      そこに立っていたのは、すらっとした長身で、黒地にブルーのストライプのスーツを着た癖の強い天然パーマの青年ーー頼くんだった。   「頼くん!?? 」   「優月!」    頼くんは私を見つけるや否や、医薬品の入った水色のケースのベルトを肩にかけたまま私のところに飛んできた。  先ほどまで看護師に向けていた営業スマイルとはどこか違う、柔らかい笑みを含ませて。   「会いたかった! こんなところで会えるなんて!」    彼はカーテンを開けて私の髪に触れようと手を伸ばした。  けれどその右手は、そばにいた龍平によって払い落とされ、パチンと乾いた音が空気を震わせた。  龍平は頼くんが首に下げている社員証をちらり見ると、フンッと鼻を鳴らした。   「これはどうも、こんにちは。優月との間に可愛いお子さんがいらっしゃるそうで」   「……龍平さんですか……」     頼くんは彼の態度に臆することなく、淡々と質問に答えた。   「そうですね、いますよ。今年ニ歳になります」   「婚約者がいる優月に手を出すなんてどんな奴かと思ったけど、案外地味なのな。そんでやることやっちゃう訳だから、いやー、人って見た目によらないよな」   「男ですからね。好きな女性と自分しかいない環境に置かれれば、タガが外れるのも無理はないでしょう?」   「はぁ。乱れた生活をお好みで」    龍平がからかって嘲笑ったが、頼くんは毅然とした態度で跳ね除ける。   「そういうつもりで移住してたんじゃありませんよ。僕らが一緒に暮らしてたのは、あくまでも桃源郷を求めてです。子どもはその先に出来たんです。人生設計において子どもがいればいいなとは思ってたから、それ相応の行動はしてましたけど、それってそこまでおかしなことですか?」   「いや、だからさ、婚約者を差し置いてすることかぁ? こっちは経営案件と跡継ぎ問題も絡んでんだよ。何で勝手に消えるワケ? 普通一言言ってから出るだろうがよ」    龍平は片方の脚を小刻みに揺すっている。   「言ったところであなたが行かせてくれるとは思いませんけどね。それに優月もあのときあなたにそんなことを告げる勇気はなかった。あなたは婚約者というより畏怖の対象でしかなかったと思いますけど」    二人の男性は私を挟むように向かい合った。空気が凍ったように張り詰める。  龍平は眉間に皺を寄せ頼くんを睨みつけ、頼くんは冷めた目で龍平に視線を向けていた。  広い病室には他にも入院患者はいるものの、聞こえてくるのは私たちの話し声だけだった。私はこの空気に耐えきれず、こわごわと重い口を開いた。   「あの、と、とりあえず談話室行かない? ここじゃ他の人のご迷惑になるから、龍平は声をもう少し落とした方が」   「はっ……おまえオレじゃなくてそいつの味方するんだ」    龍平が憐れんだ目で私を見下ろした。    「味方っていうか、常識的に考えて静かにした方がいいと」    「おまえは常識だと思ってても、世間はそうじゃねぇから。いいかげん自分本意に考えるのやめたら? おまえ自分が思ってるより自己中だから」   「……っ」     龍平はやれやれ、と呆れたように肩をすくめた。  『自分が思ってるより自己中』という彼の言葉に、私は頼くんと逃げたあの日のことを思い出して心に刃が突き刺さる。たくさんの人に迷惑をかけたのは事実だから。   「ごめん……」   「本当に悪いと思ってんの? それ、反省している人の態度じゃないよね?」    龍平の口から畳み掛けるように言葉が溢れる。何か言いかえさなけば同意したと思われるのに、上手く頭が回らない。次々切り替わっていく話題に口を開くタイミングが見つからず、私がゆっくりと編んだ言葉は意味のないものとして消えていく。  私は奥歯を噛み締める。    |(何でいつもいつも、こんなことばかり言われなくちゃいけないのよ。私だって悪いところはあるけど、全部が全部悪い訳じゃないじゃない。何で全て私のせいにするのよ。自己中なのはどっちよ。その言葉、そっくりそのままお返しするんだから)     「仕事してねぇ人間はこれだから」   「それは龍平が、結婚するなら正社員である必要はないって同居始めるときに自分でそう言って」    「あぁ? 言ってねーよ。言うはずねぇだろうがよ。記憶改ざんしてんじゃねぇよ!」    苛立った龍平は、ベッドの脚をガンッと蹴った。低く鈍い音がこめかみに響く。  親が経営している病院で働いているからお金の心配は必要ない、パートで家のことをきちんとやって欲しいと彼が前に自分で言ったのだ。  私は言われた場所も時間もはっきりと覚えているのに、この様子だと彼の頭の中からはきれいさっぱり消えてしまっているようだった。    どうしようもなくて、私は彼から目を背けた。  クリーム色した艶やかな床が、みるみるうちにくすんでぼやける。フローリングは清掃担当の女性たちによって、今日も塵ひとつなく美しく磨かれている。家はこんなに綺麗じゃないと、きっと龍平は母に愚痴っただろう。  綺麗を保つことが、そんなに大事なのだろうか。       私たちの会話をしばらく黙って聞いていた頼くんだったが、龍平の足グセの悪さに再び口火を切った。   「失礼ですが、八つ当たりしては患者さんのお身体に障りますよ」    
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