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頼くんに弟がいることは知っていたが、十九歳の彼より若い年齢で既婚者なのは初耳だった。ビビッときたでも授かり婚でもなく、中学生の頃から長く付き合った末の恋愛結婚だったらしい。
「高校の頃は口をきかないときもあったけど、別に彰久のことが嫌いな訳じゃなかったんだ。兄のくせに弟に先を越されたのが悔しかったんだろうと言われたこともあったけど、本当にそう言うことじゃないんだ」
頼くんはテーブルに置かれた缶コーヒーに視線を落としながら言った。
「俺さ、誰よりも一番弟のことが好きだったんだ」
呟いた彼の頬はいつの間にか涙に濡れ、夜のカフェテリアの窓ガラスには並んで座る私たちの姿が映し出された。
「どこに行くのもあいつと一緒だったんだ。友達よりも気が合って、放課後も休日も馬鹿みたいにくっついてたんだ。ゲーセン行ったり、海行ったり、二人でキャンプして虫に刺されまくったこともある。兄が弟に、っておかしいよな。でも可愛くてさ」
その気持ちには心当たりがあった。私も舞衣のこと大好きだから。
「あいつに彼女ができたとき、本当は応援してやんきゃって思ってたんだけどダメだった。心がついていけなかったんだ」
「うん」
「俺から弟を奪い取ったくせに、彼女なら俺より弟を幸せにしてやれるって思って、だから結婚だって祝ったのに」
「……うん」
「弟にあんな顔させたい訳じゃなかったのに。幸せにしてくれるんじゃなかったのかよ……」
頼くんは缶コーヒーを握りしめたまま、力なく項垂れた。
私はその姿を自分と重ね合わせた。
兄弟のことで悩んだり激昂したりする姿は、まるで私を見ているようだった。
私の妹はいわゆる陽キャだった。高校に入ってすぐ彼氏ができて、夏休みには泊まりに行くようになった。勉強は出来なかったけどお洒落で明るくて少し抜けていて、同性の私から見てもとても愛らしかった。
高齢出産で産まれた私たちは若いパパやママに憧れていた節があり、妹は高校を卒業してすぐに結婚した。
半年後には子どももできて、順調だと思っていた。
臨月になる頃お腹の大きな妹に「うちの旦那、浮気してるみたい」と告げられるまで。
「見る目がなかったんだよ」
私の前では激昂することなく健気に微笑んだ彼女が、愛しくて、悲しくて。
私は強く思っのだ。
私こそは幸せにならなければいけないと。
女遊びしなくて、きちんとした仕事をしていて、ギャンブルに興味がなくて、健康で、そこそこの社会的地位についている男性。そういう人を選んだなら母に希望を与えられるだろうか、みんなに喜んでもらえるだろうか。
私にのとって妹も、たったひとりの大好きなきょうだいなのだ。彼が弟を好きなのと同じくらい私も妹のことが大切で、色んな喜びや悲しみを分かち合ってきた人。
だからか私には、悲しみに打ちひしがれる彼の気持ちが痛いほど伝わってきた。
同時に、彼が恋人を作らない謎も解けた。
恋の魔法が解けたとき、全てが無駄になってしまうのが怖いんだ。
ひとりの人間の恋愛を、始まりから終わりまでずっと横で見守っていたからこそ恐れてしまう。夢から醒めたときのことを。
「……恋愛感情なんてなければ良かったのにね。友情とか家族のような愛情だったら、ずっと一緒にいられたのに」
「……」
「でも無理だよね。彼氏なんて別にって思ってても勝手に好きになっちゃうんだもん。好きになんかなりたくないのに……」
「……」
夜が始まった街は灯りが点き、学生たちはそれぞれの居場所へと散っていく。近くで動画を観ていた女の子は、電話に出ながら軽い足取りで階段を下りていった。
ひとしきり愚痴を言い合ったあと、帰りの電車の中で彼は言った。
「君と過ごせてよかった」
「ふふっ、私も。牧野くんといるの楽しかったよ」
クリスマスの車内は行き交う人々でひしめき合い、彼の腕や腰が密着した。見た目より硬くて引き締まった身体は私とは全然違っていて、反射的に身を反らした。
けれど、運行中の揺れを告げるアナウンスの数秒後大きく電車は傾いて、私は彼の胸の中に吸い込まれるように収まった。
|(ひゃああああああ! )
「合法的に触っちゃった」
「もう、何言ってるのよ」
頼くんは私を支え出入口のドアにもたれかかるように身を預けた。荒々しく引き寄せられ、彼の声が頭のすぐ上から降ってきた。
ふざけているのかからかっているのか、揺れが落ち着いてもずっと胸に抱かれたままだった。
私たちは誰にも聞こえないような声で談笑した。
見慣れた景色も、彼と一緒だと違って見える。
色とりどりに輝く灯りの中心に、今日だけは混ざっているような気がした。
「見て見て窓の外、今日はイルミネーションが綺麗だね」
「クリスマスだからね」
「行きたい?」
「そりゃあ……?」
「そっか……光栄だな……でも空いてないだろうからなぁ……」
モゴモゴと言葉を濁す彼にもう一度よく車窓から外を凝視すると、カップル向けのホテルが視界いっぱいに広がっていた。
この辺り一角は言わずと知れた淫らな歓楽街だったのだ。
私が眼を丸くして固まると、彼は抱え込んでいた腕を緩め、笑い声をあげた。
「冗談だよ、行かないよ」
「ーーっ」
もし付き合ったら、こんなふうに接してもらえるんだろうか。いつもこんなに近い距離で、彼の笑顔を見られるんだろうか。
|(いいな。その子が……)
鼓動が速まった。
彼は私の人生を構成するたくさんの人のひとりに過ぎなかったのに、ひとりじめしたいような気持ちに駆られた。
年が明けても、進級して二年生になっても、その気持ちは増すばかりだった。認めたくないのに好きになってしまった。
"好き"と口に出せなかったけど、何とか彼の近くに居たくて悪戯にからかって彼の周りを陣取った。うざったくて面倒に思っていたらどうしよう、と不安はつきまとったが、会いたい気持ちは憂いを凌いだ。
「ねぇ、牧野くんてまだ彼女いらないの? そんなに頑なにひとりでいると旬が過ぎちゃうよ」
「うるさいです。俺の旬は四十代なんですー。半澤ちゃんには旬の食べ頃に見えてるかも知れないけどー」
「は?」
「……もしよ? もし、今間違って食べちゃったりしたら青臭くて不味くてペッて吐き出しちゃうだろ? 半澤さんには一番美味しいとこ食べて欲しいからもう少し待って欲しいのよ」
「ふふっ、何それ。いつ?」
「もう少し、精神的に大人になったら。就職して、自立して、自分の力で生きていけるようになったら……」
あの言葉の続きは何だったのか、今となってはもう分からない。
だけどその先に、私が望むような台詞が待っていたと思う。
時を経てもこうして、私を見つけてくれるのだから。
|(……私は本当に、ずっと頼くんのことばかり)
病室にいるというのについ昔の思い出に浸ってしまい、切り替えよう頭を振った。
|(私に必要なのはどちらか、もう答えは出てる)
心臓の上に広げた手から、速い鼓動を刻んでいるのが伝わってくる。深く息を吐いて、「大丈夫」と繰り返しまじないをかける。
|(今言わなきゃいつ言うのよ、私。自分の人生は自分のものでしょう! 私にだって、幸せになる権利はあるんだから! )
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