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私が名前を呼ぶと、牧野くんはどこか悲しそうに目を細めたんです
「……あぁ、ただいま」
最後に会ったのはいつだっただろうか。
よく覚えていないけど、相変わらずかっこいい。
ゆるっとしたシルエットのシャツを好んで着ていたからわからなかったけど、スーツのジャケットのボタンを開けていても、腕や胸に程よくついた筋肉がよく分かる。緩めたYシャツの喉元から、大人の男の色気が漂ってくるような気がする。
変わってなさそうに見えて、彼ももう二十代半ばの立派な社会人なのだ。
「牧野くんは仕事で?」
「あぁ、病院に自社の薬の売り込みや説明をする仕事をしていてさ、この辺りは自分が担当してるんだ。」
「今も都内に住んでるの?」
「……まぁね」
牧野くんは診察室の方をチラチラ気にしながら答えた。
そういえば、よく耳をすますとまだ誰かと喋っている先生の声が聞こえてくる。
せっかく奇跡的に会えたけど、恐らくまだ仕事中なのだ。待合室の私の姿を見つけて駆けつけてきてくれたのなら嬉しいけど、ほんの少し罪悪感がある。
「ま、牧野くん……その、お仕事邪魔しちゃ悪いし」
私は手帳に挟んである付箋を一枚取り、サッと連絡先をメモして彼に手渡した。
ずっと会いたくても会えなかった彼に会えたのだ。牧野くんはこの番号にかけてくることはないかも知れないけど、それでも千載一遇のこのチャンスを逃したくない。
「私定期的にここに通ってるから、良かったら……また会ってもいいかな。今度時間のあるときにでも、みんなでさ」
二人きりで、という言葉を言えずに「みんな」に変換した。
どんなかたちだって、どこでだっていい。あなたと話せるなんてそれだけで夢みたいだから。
「うん……あぁ、そうだな……」
しかし牧野くんはまだ診察室を気にして上の空だ。
時間がないなら呼び戻せばいいものを、何を気にしているのだろうか。
「……君が俺のことを忘れているっていうのは本当だったんだな。そんなことあるはずないと思っていたが、今の君の態度を見ればあながち嘘ではなさそうだ」
「え?」
よくわからずに首を傾げた。
いったい何のことを言っているのか。
必死に記憶を辿る私を、彼は物憂げな表情で見つめた。
ドアの向こうから「パパー!」と呼ぶ小さな子どもの声で、彼が正気に戻るまで。
「はいはい」
牧野くんはスッと立ち上がって、先程までいた診察室へ踵を返した。
|(え……)
心臓が大きく脈打った。
|(牧野くんの、子ども……? )
いや、二十代半ばなら早い人なら子どもの一人や二人いたっておかしくないし、中学の同級生には実際いる人もいるけれど。
牧野くんはそういうことには疎いと思っていた。勝手ながら、仕事にも慣れて地盤を固めた三十代に結婚するのだと思っていた。
彼女はいるとは思っていたけど、まさか子持ちのパパであるとはこれっぽっちも想像していなかった。
ショックで動悸が早くなり、笑顔を作ることができない。
牧野くんの腕に抱かれて戻ってきたのは、まだ言葉もおぼつかなそうな一歳くらいの赤ちゃんだった。
「子どもいたの……?」
「うん、可愛いだろ。さっきは看護師さんに遊んでもらっていたんだ。今日は保育園が臨時休園でさ、見てもらえる人がいなかったから」
赤ちゃんは彼の腕を小さい手でぎゅっと握りしめて、私を恐々覗き見ている。
小さい頭部に不釣り合いの大きな瞳を潤ませ、ふっくらとした頬を赤らめている。やっと生え揃った髪の毛は彼同様うねっていて、否応なしに彼の子だという現実を突き付けられる。
兄弟の子どもだったらいいな、という最後の砦など簡単に崩れ去ってしまうほどに、抱っこしている赤ちゃんは彼にそっくりだった。
「可愛いね、結婚したなんて知らなかったよ」
悲しいけれど、奥さんと子どもを大事にして欲しい。私は最初から顔を見られれば充分だったのだから。
そう思って、赤ちゃんの頭を撫でた。
けれど、近づいたときに見えた彼の左手の薬指には何もはめられてはいなかった。
「結婚はしていない」
「えっ……?」
ならば訳ありだろうか。私はちょっといったいどういうことだろうと考え込んだ。
パターンその一、付き合っていた彼女との間に出来たが彼女に責任取ってよと押し付けられた。
パターンその二、産んでもいいよ! という稀有な出産ビジネスをしている人に大金を渡して自分の子どもを授かった。
パターンその三、子どもと偽っているが実は年の離れた弟か妹である。
「何考えてんだよ」
ぷはっと吹き出して、彼はお腹を抱えて笑い出した。
「優月は本当に考えてることが顔に出るな。俺別にそこまで突飛な行動したわけじゃないからな」
「な……」
口にしてないのに言い当てられて、顔が真っ赤に染め上がる。しかも怒らないのをいいことに、いつまで名前を呼び捨てにするんだこの男は。
そんなに深い関係になった覚えはないんだけど!?
「優月が忘れてるようだから特別に教えてあげる」
牧野くんは子どもの背中に背負わせた小さなリュックを下ろし、オムツや着替えが入っているそこから手帳のようなものを取り出した。
絵本作家の可愛らしい幼子のイラストが描かれた薄手のその冊子には、「牧野頼久」と「牧野大和」の記名がされているように見える。
「この子は大和って言うんだ。俺とこの子の母親と、みんなで繋がりがあるようにイニシャルを揃えたんだ。会えなくても一緒だよって」
「そうなんだ……?」
どうしてそんなことを私に教えてくれるのだろうか。牧野くんを見ると、子どもを抱いたままどこか寂しい目をしている。
「事情があって、産まれてすぐに俺が引き取ったんだ。今も可愛いけど、ハイハイやつかまりだち、初めて笑ってくれた顔……一緒に分かち合いたかった。こんなに可愛いとは思わなかった」
後悔の念に苛まれ、彼の子ども抱いた手にはいっそう力がこめられる。
私のことを笑っていたけどやはり何か特別な訳があるに違いない。
この子を産んですぐに彼女が亡くなってしまったとか、何らかの罪を犯した彼女が収監されてしまったとか……。その可能性もなきにしもあらず、けれど踏み込んではいけない領域な気がして、努めて明るく振る舞った。
「今からでも遅くないよ、彼女に会えるなら会った方がいいよ! 何か理由があったのかも知れないけど、何年も経ったら許してくれるかも知れないよ。私は実際、牧野くんに会えて本当に嬉しかったし、彼女だって、かっこよくなった牧野くんと大きくなった我が子に会えたらきっと嬉しいんじゃないかな!」
「……本当に?」
なおも疑り深く彼女の懐を探る彼に、少しだけ苛立って声を荒らげる。
「本当だって、人によるけど牧野くんだったら絶対に大丈夫……」
すると声を発するや否や、子どもを立たせ、彼の太い腕は私を囲うように背中へ回された。
牧野くんは膝立ちになって、その両腕に目一杯力を入れた。私の首もとに寄り掛かるように体重をかけられ、私は後ろに倒れないように精一杯こらえた。
「牧野くん……っ!?」
丸襟から露出した素肌に、否応なしに彼の肌が当たる。
「頼久って呼んで、優月」
「え……なっ……」
抱きしめたまま、一目もはばからず匂いを嗅ぐように頬や鼻尖を擦り付けている。
「あぁ、優月だ。優月の匂いだ。会いたかった……ごめんな、迷惑かけてごめんな。こんなことになるなんて思わなくて俺、本当に……」
「牧野くんどうしたの……!? 」
私の声にはっとした彼は、一度立たせた子どもの所在を確認し、側にいると分かった上でようやく落ち着きを取り戻した。
「大和は俺と君の子どもだ。ここに証拠もある」
牧野くんは先程の手帳……母子手帳だと思われるそれを何枚かめくって、あるページで止めて私に広げて見せた。そこには確かに、私が子どもを産んだ記録が記されていた。
一年半くらいに、寺田病院で、三千グラムほどの男の子を産んだとーー
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