1,桜が嫌いな朋也

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朋也は長い間、ソメイヨシノが植物界の人工物だと思い込んでいた。しかしそれは事実とは違うと教えられた。 「ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンを交配させた園芸品種だが、この2つは自然から生まれた自生種で、クローンと言っても接ぎ木や挿し木で増やすということだから、実験室で人工的に生み出したわけではないんだ」 父はソメイヨシノの長所を自慢するように声高に挙げたが、その反面、デリケートで害虫や病気にかかりやすくほかの桜に比べて寿命が短いといった欠点については、さも心を痛めているといった風に憐憫の情をあらわにして口にした。 「ソメイヨシノの寿命って、どのくらい?」 朋也の質問に、父親は興味を持ってくれて嬉しいと目を輝かせた。 「大体60年と言われているが、それは密生させたり大気汚染があったり、きちんと世話していなかったりとか、環境が悪いせいだ。 百年以上生きているソメイヨシノだって、ちゃんと存在する。この日当たりと水はけと風通しのいい山の畑で間隔を5メートル近く空けて植えた桜は、私やおじいちゃんの手厚い世話を受けて、ずっと長生きするさ」 雅也はそう言って胸を張った。 そんな時、朋也は父親の桜への盲目的な愛を少しばかり容認する気持ちになった。 しかし、朋也が決定的に桜嫌いになる出来事が、彼が小学6年の時に起きた。 新緑が眩しい5月のゴールデンウイークの一日、一家そろって桜畑へピクニック気分で出かけた。風が、散った桜の花の残り香をもたらしながら空気を新緑の色に染めた。 昼食のおにぎりを食べながら、4人は最高の気分を味わっていた。 とその時、朋也が「ギャーッ」という叫び声をあげた。 桜の木から、毛虫が彼の手の上に落ちたのだ。 朋也は毛虫を払い落とし、「何なんだよ」と悪態をついた。 「桜の木は害虫が付きやすいんだ。葉っぱの季節は毛虫がよく出る」 父親がそう言うと、朋也は立ち上がって桜の幹を軽く蹴った。ちょっとした腹いせの行為だったが、それを見た父親は顔色を変え、素早く朋也に近付くとその顔をビンタした。 朋也は、痛みより生まれて初めて父に叩かれたショックで放心した。 父の「桜、特にソメイヨシノがデリケートだって、何度も言っただろ」という声も耳に入らなかった。 その時のショックの中で朋也の心に「桜は嫌いだ」という思いが塊を成し、ずっしり重くなっていった。 中学生になると勉強や友人との付き合いの方に比重がかかるということもあり、朋也はもはや家族との花見さえ参加しなくなった。 父は自分があの時ひどく叱ったせいもあるのだろうと推察し、花見に行かない息子になぜだと問い詰めることはせず、親子関係にもさほどヒビは入らなかった。 しかし朋也のほうは、父にとって自分より桜の方が大事という考えが固着して、それを通してしか父親を見ることができなかった。
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