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それから10年以上経って、雅也は満開の桜の木の下で妻となる登志子にプロポーズした。
そのエピソードは以前聞いたことがあると、朋也は記憶の中をさぐってみた。
たしか朋也が小学生の頃の正月、いつものことだが父が朝早く初日の出を見に車で出かけた時だった。
「桜の木に初詣でしてくるのよ」と母が朋也と妹に教えた。
「桜の木の神様に?」
妹のさくらが尋ねた。
「神社なんかに神木ってあるでしょ。お父さんとおじいちゃんが丹精込めて育てた桜の木にも、精霊が宿っているのね。その精霊に、家族の幸せや健康を祈るの」
木の精なんてなんだかおとぎ話みたいだと朋也は思ったが、母は彼の不信感をぬぐうように真剣な表情で言った。
「お父さんが私を、山の桜畑に連れて行ったの。3月下旬の頃で、桜がまるで初対面の私を歓迎するみたいに咲いてた。私も初めて来た感じがしなくて、甘美な既視感に胸が締め付けられそうになったわ。桜の木がお膳立てしてくれて、お父さん(雅也)は何年も前から決められていたみたいに、迷いなくプロポーズの言葉を口にしたの。
私も桜に応援されて『はい』という返事がすんなり出てきた。そしてその時、どこかから強い風が吹いてきて、桜の花びらを祝福のライスシャワーのように私たちの頭上に振りまいたわ。
それで私は確信したの。ここの桜の木には精霊がいるって。その桜の精が祝福するのだから、この人と結婚して間違いないって」
母が桜が好きで、桜にうつつを抜かす父を大目に見ているのは、そんな経験があるからなのかと、朋也は納得した、けれども自分は、桜の精霊に守られているなんてピンとこない。
毛虫の洗礼を受けただけで……。
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