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死を宣告された桜の木が墓標のように立つ風景は、荒涼としていて吹く風がひときわ冷たく感じられた。
「桜の木、どうするの」
朋也がポツリと尋ねた。
「処分するしかないだろう。業者に頼んで、伐採してもらって……」
父が言葉を途切らせたのは、桜への想いがこみ上げたためだろうかと、朋也は推測した。
「淋しくなるね」
そんな当たり前のことを口にしてみた。
桜とともに育って、子供の頃は父親に連れられて、大人になって父の後を継いでからは毎週のように桜のもとへ通った。
仕事ではなく、趣味というにはあまりにも深く生活に根付いていた。
その桜がなくなるということは、生きがいという名の根が取り除かれるに等しかった。
桜にまつわる思い出、愛情、信仰、習慣、それらを「喪失」の魔の手からどうやって救い出せばいいのか。
返事をしない父の心の中に渦巻く感情の音が、ひっそりした空間の中で聞き取れる気さえした。
朋也は肌寒さと沈黙にじっと耐えながら、父と桜と自分との三角形の関係の中に佇んだ。
「ソメイヨシノという品種全体が、もう限界を迎えているんだ。日本花の会では、もうソメイヨシノの出荷、生産はやっていない。
てんぐ巣病に強い品種、神代曙(じんだいあけぼの)なんかが、ソメイヨシノの後継と目されている」
「何それ、神代曙なんて聞いたことないよ。濁点が3つもついていて、ごつごつした感じで力士のしこ名みたいでさ。ソメイヨシノだったら全然濁らなくて、桜のさらさらした清楚なイメージにぴったりなのに」
朋也はソメイヨシノが消えていくことと、その後継種が神代曙という名前だということに、心底がっかりした。
「ハハハ、もうあと何年かすれば神代曙の名前は世の中に浸透するだろう。それに、ソメイヨシノだって絶滅するわけじゃない。今みたいに桜の8割という圧倒的な割合から、品種のひとつとして地味な存在になるだけだ。
この畑からは消えるが、どこか違う場所でいつでも会えるさ」
少し明るい調子がうかがえたので、父の顔を朋也はやっと見ることができた。
しかし朋也が目にしたのは、父の目に浮かぶ涙だった。
それは、彼が初めて見る父の涙だった。
朋也は、口惜しさと悲しさが入り混じって心の中で旋風を起こすのを感じた。
「やっぱり、桜なんて嫌いだ!」
(了)
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