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ラズベリー
「俺? 彼女と住んでるよ。」
それが彼の答えだった。
「へぇ 時が経つのって早いねぇ。」
私は笑った。
電話越しに、嗚咽が聞こえないように。
もう彼を追いかけることはできないのだ。
頭ではわかっている。心でもわかっている。
だけど
確かに自分の中にあるのに、何と呼べばよいかが分からない何かが、喉に強く引っかかって消えることがない。
彼が好きだった。
だから、一生懸命に彼好みの女になろうとした。
伸ばしていた髪をセミロングに切って、カールをかけた。
言葉の一つ一つに、花を添えるように優しさを足した。
彼の好きな漫画やアニメを又聞きしては、片っ端から見て、話が合うようにした。
そんな私に、彼も少なからず好意はあっただろう。
だけど それだけ。
踏み切れなかった。
彼が好きなのは、私ではない。
無理やり作った『私』なのだ。
かりそめだらけの自分を受け入れられなかった。彼がそんな自分を好いていることが、自分以外の誰かを好いているように感じて、悔しくて、悲しくて・・・とにかく、苦しくなってしまったのだ。
そのうち彼は、私の知らないところへ行った。
最後の日。彼は「ありがとう」と、小包を渡してくれた。
そう。
あくまで、なんでも話せる、気が置けない知人として。
中身はバウンドケーキ。
深紅のスポンジには、宝石のように果実が埋められていた。
袋を開けた瞬間、甘酸っぱい風が横顔をかすめる。
「ラズベリーのお菓子が好き。」
それは、私が唯一彼に話した、本当のこと。
「覚えていたんだ・・・」
ふっと微笑んで、ケーキを口に運ぶ。
美味しかった。
同時に 涙があふれる。
彼のことが大好きで。
でも 彼は嘘の自分が好きで。
でも 彼のことは まだ好きで。
甘くて ほろ苦い味が舌に転がれば転がるほど、涙は止まらなくなった。
本当に幸せだったのだ。
「私、ラズベリーって好きなんだ。甘いだけじゃなくて、ちょっと酸っぱい感じが。」
そうやって自然に彼と話せていた時の自分。
自然に彼と笑えていた時の自分。
本当に 本当に幸せで
それが過去のことだと思うと 余計に悲しくなってくる。
あの日の味は、月日を重ねても鮮明に覚えている。
あれは 私が一番好きな味で
同時にあれは 私が一番忘れたくない味なのだ。
彼と離れて、少しずつだけど自分を取り戻せている気がする。
ラズベリーが好きなままの、私自身に。
久しぶりに彼から電話が来た。
彼の声はあのときと変わらないし、私もきっと変わってない。
また 彼と笑いたい。
だから さりげなく話を振ってみた。
「今、一人暮らしなんだっけ?」
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