桜、ふくふく

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 * 「おめでとうございます」 「ありがとう。……めでたいかは、よくわからないけど」  ぼそりと足された補足が源らしい。遠慮なく笑うと、一つ年上の先輩もつられて笑みを浮かべた。  月日は淀みなく流れた。  三月下旬、前日に卒業式を終えた源は、地元の信用金庫へと就職を決めていた。植物みたいにふわふわとつかみどころのない男にしては堅実な進路である。 「なんなら、俺が届けたのに。源さんの地元とは車で一時間もかからないんですよ」 「そういや、同じ県だったね。まあ、名残り惜しかったからさ。こうして、部室にもう一度、来れてよかった」  数年の時を経て、二人は先輩・後輩として、友人同士として、気の置けない間柄には進展していた。  いま、こうして、写真同好会の部室に二人きりでいるほどに。 「相変わらずですね。はい、忘れもの」  ふ、と、笑いとともに緊張を吐き出す。大事なはずのカメラを部室に置き忘れるとは源らしい。  それを理由にこうして彼を呼び出した桓の目的は別にある。 「僕は、桓くんの写真が好きだった」  口を開きかけた瞬間、源の声に遮られた。壁に貼った桓の写真を見上げる彼の眼差しは穏やかで、いつもであれば見惚れているところだ。  いま、桓の内でうごめく欲望は、到底そんなもので慰められるものではない。 「……どんな、ところが?」 「きれい、さびしい、つめたい……誰もが持つ感情が素直に表れてる。道端の花でも、寝そべる猫でも、鉄塔の写真でも。君が放つ心の音が息づいてる気がする。見ていて和む。僕は、ファインダーを見つめている時は真っ白だから」  とくにこれ。源が指差したのは、満開の桜の写真であった。露出を補正し、光をふんだんに取り入れた、桓に言わせればなんの工夫もない、ありふれた景色である。  それでも、カメラを構えた時には大いに心は弾んでいた。  空気をも薄紅色に染め上げる春の王者は、毎年毎年、知らずと人の心を搔き乱す。ふくふくとほころぶ花弁に、無意識に幸福を夢見ながら。 「僕は、桜が嫌いなんだ」 「え?」  予想外の反応に頓狂な声が出た。首をもたげたままの源に、あの日と同じ淡い夕陽が降り注ぐ。彼を縁取る輪郭は白く輝き、本当に光合成をしているようだった。 「源さん」  静かに桓に直った彼の視線は、少しだけ下に位置する。静かな、何者にも流されない、深淵を湛えた双眸に見つめられ、入部当時から消えることのない想いが行き場を失いうねり始めた。  源が敬遠する、うつろい、さまよう、いまだけは永遠だと信じている感情という名の波が。 「俺も、源さんの写真が好きでした。たとえ、そこになにも想いが存在しなくても、あなたが切り取った世界をなぞることが俺の喜びだった」  でも――彼に口を挟む余裕を与えずに、乱れたままの気持ちを吐き出した。 「俺は、あなたが生み出す想いを見てみたい。いいものではないかもしれないし、すぐに変化してしまう弱いものだとしても」  目を逸らすことなく言い切ったが、すべてではなかった。思いの丈を伝えようと息を吸いこんだのと、源が踵を返したのは同時だった。  乱暴な足跡はすぐに途絶え、部室には桓ひとりだけが取り残された。  伝えたられなかった想いとともに、ぽつねんと。
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