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第3話 妖なる女主人(2)
その人は、ゆったりとソファーに腰掛けて待っており、ふたりが入室すると、にこやかに手招きをした。
「突然、呼びつけて悪かったわね」
とても綺麗な人だ、とメイシアは思った。
緩く結い上げた髪に、襟元までの長めの後れ毛。開いた胸元を薄手のストールでふわりと覆い、自然に崩した装いからは独特な色香を放っていた。
さきほどトンツァイの店で少年たちから聞いた話によると、彼女がこの地区に現れたのは、三十年くらい前だという。もちろん、少年たちが生まれるよりも前のことだ。だから、この証言はトンツァイをはじめとする繁華街の大人たちによるもので、そのとき彼女は二十歳前後の美しい少女だったという。
よって現在は、五十歳近いはずである。しかし、とてもそうは思えなかった。薄化粧すら野暮に思える、きめの整った肌は、せいぜい四十前後。下手したら三十代半ばにすら見えた。
ルイフォンがソファーに座ると、シャオリエはさりげなく足を組み替える。それを見た彼が眉を寄せると、彼女は実に嬉しそうに笑った。
「呼びつけて悪い、だなんて、ちっとも思ってないだろ?」
「さすが、ルイフォン。よく分かったわね」
「で? なんの用だ?」
「ほら、メイシアさんも座って」
単刀直入に訊いてくるルイフォンを無視して、シャオリエはメイシアに声をかけた。
彼女はこちらを見上げ、メイシアと正面から目を合わせた。その瞬間、メイシアの背中を悪寒が走った。アーモンド型の瞳の奥の、かすかな煌めき。敵意とは違う、けれど強い何かを感じた。
メイシアは一瞬動きを止めたが、立ったままでいるわけにもいかない。座ろうとして、そこでまた戸惑った。
今の場合、どう考えても、シャオリエの隣ではなくルイフォンの隣に座るのが妥当である。しかし、ルイフォンはソファーの中央にどっかりと座っている。しかも足まで組んでいるのである。
しばし躊躇したのち、彼女はルイフォンと同じソファーの端に、申し訳程度にちょこんと腰掛けた。
「なるほど。ミンウェイの言っていた通りね」
「質問の答えになってないぞ。って、ミンウェイに電話したのか?」
「質問は一度に、ひとつまで、よ」
人差し指をぴんと立て、子供をあしらうように、シャオリエが言う。
「イーレオが新しい愛人を作ったと聞けば、気になるのは当然でしょう」
シャオリエの言葉に、メイシアは引っ掛かりを覚えた。シャオリエにとってイーレオはどんな存在であるのか、疑問に思わずにいられなかった。
「こういうときは、屋敷にいるミンウェイに訊くのが早くて正確。けど、それより本人を見るのが一番、ってことよ」
メイシアの内心をよそに、シャオリエとルイフォンは話を続ける。
「なんで、俺がこいつを連れてくると分かったんだ?」
「お前が、彼女を特別扱いしているからよ」
「まぁ、こいつは綺麗だからな」
平然と言ってのけたルイフォンに、しかし、シャオリエは違うとばかりに首を横に振る。
「そんな理由じゃないでしょう。……お前って、イーレオとそっくりだから分かりやすいわ。ふたりとも、綺麗な子がいれば、すぐちょっかい出すけど、惚れ込むことはないのよ。実のところ、顔の美醜はどうでもいいのよね。でも――どうやらお前にとって彼女は特別……」
「どういうことだよ?」
「自分の趣味にはいくらでも労力を惜しまないくせに、仕事は面倒くさがるお前が、今回はイーレオの要求以上のことをしているでしょう。……たとえば、王立銀行に侵入したりとか、ね?」
シャオリエが意地悪く笑う。
そのとき、扉がノックされた。
「シャオリエ姐さん、お飲み物をお持ちしました」
スーリンの声だ。
シャオリエが「ありがとう」と応えると、茶杯を載せた盆を持ってスーリンが入ってきた。彼女は慣れた手つきで給仕をすると、「ごゆっくり」とぺこりと頭を下げて退室する。その際、ルイフォンのほうをちらりと見るのを忘れない。
「色男ね、ルイフォン」
シャオリエが揶揄を含んだ微笑を浮かべる。
ルイフォンは聞こえないふりをして、無造作に茶杯を掴み、中身を一気に飲み干した。
――その直後だった。
ルイフォンの頭が、がくっ、と落ちた。彼は小さくうめき、額を抑えてうつむく。
「凄ぇ、眠い……。今、くらっときた」
彼は昨日からずっと、ほぼ不眠不休だった。両目は腫れぼったく、隈ができている。
だが――。
シャオリエがふっと嗤った。
今までと明らかに雰囲気が変わった。
ルイフォンが顔色を変えた。
「シャオリエ、てめぇ、今の茶……!」
「だから、何かを口にするときは気を付けなさいと、いつもあれほど教えてあげたでしょう?」
「スーリンも、グルだな……」
「当然」
シャオリエの口の端が上がる。
「何を入れた?」
「鹿の子草が主成分の調合薬。そのままだと臭いがきついから、無味無臭にするためにいろいろ混ぜたそうよ」
「『そうよ』って、ミンウェイの薬か!? 効能は!?」
「ただの睡眠薬よ。――お前が寝不足だと、ミンウェイが心配していたからね」
「……ミンウェイの指示か?」
だんだん薬が効いてきたのだろうか。ルイフォンがソファーの背にもたれかかる。
「ミンウェイは何も知らないわよ。それに、あの子が盛るのは毒でしょう?」
「てめぇ……何を企んでいる!?」
ルイフォンは必死に瞼を開こうとするが、それはままならないようだ。
「人聞きが悪いわね。私はいつだって親切で動いているわよ? ……どう? 薬の具合は? それ、新作なんだって。ほら、うちの子たち、夜の仕事だから、どうしても寝不足になるじゃない? それで睡眠薬を調合してもらったのよ。まずは、嫌なお客で試してから、うちの子たちに勧めようと思っていたんだけど、お前が被験者第一号になっちゃったわね」
ルイフォンが満足に喋れないのをいいことに、シャオリエはぺらぺらとまくし立てる。
「糞っ……! メイシア! 悪い、ちょっと、待って、いて、くれ……」
ルイフォンの体が、力なくずるずると倒れていく。
そして、彼の頭はちょうどメイシアの膝に収まった。
突然のことに、メイシアは声にならない悲鳴を上げた。はずみで膝の上からルイフォンの頭が落ちそうになり、慌てて手を添える。疲労の色が濃く表れている顔を見ると、心が痛んだ。指先から、あるいは服越しに伝わってくるぬくもりが温かい。
「……あらぁ……。こういう寝方するとは……。さすがイーレオの子ねぇ……」
シャオリエが声を上げた。彼女は悪びれた様子もなく、感心したように溜め息を漏らす。揶揄すら感じられる言葉に、メイシアの心がざわついた。気づいたときには、彼女らしからぬ非難めいた言葉が飛び出ていた。
「断りもなく薬を盛るなんて、酷いと思います……!」
「あら、お前、ちゃんと喋れたのね? 今までだんまりなんだもの。口がないのかと思ったわ」
口調も声色も、大きく変わったわけではなかった。けれど明らかに、シャオリエの気配が変わっていた。
「大丈夫でしょう。いくら新作といってもミンウェイの薬だから。ああ、あの子、薬草のエキスパートなのよ。知っていた?」
メイシアは、このときになってやっと、シャオリエがルイフォンを呼んだ理由を悟った。早まる鼓動を必死に落ち着つかせる。
「……私に……私だけに、お話があるんですね」
「ああ、なるほど、確かに敏い子ね」
「……」
「メイシア、教えておいてあげるわ。貴族では、御しやすい無口な女に高値がついたかもしれないけど、世間では沈黙は金じゃないのよ」
シャオリエがじっとメイシアの瞳を捉える。
「そうよ、お前とふたりきりになりたかったのよ。でも、ルイフォンに睡眠をとらせたかったというのも、嘘じゃないわ」
そう言って、嗤う。
シャオリエは、自分の座るソファーの脇に置かれた小机の煙草盆から、螺鈿細工の施された煙管を取った。刻み煙草をひとつまみして、火皿に詰める。火入れから火を移し、青貝の細工を煌めかせながら、吸い口を咥えた。
白い煙が吐き出され、部屋の空気が重くなった。
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