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第1話 猫の世界と妙なる小鳥(2)
「メイシアを酔いつぶしたって?」
開口一番、イーレオが言った。
「酔わせてどうするつもりだったんだろうな? この馬鹿息子は」
頬杖をつきながら揶揄するように笑う。男前なだけあって、そんな姿さえもさまになる。中身が六十五歳の爺さんと分かっているだけに、ルイフォンは不条理を感じずにはいられなかった。
昨晩、メイシアの様子が怪しくなったところで、実にタイミングよくミンウェイが現れた。明日の朝食もメイシアの部屋に運ぶよう、料理長に言いに来たのだ。
そのときミンウェイが見たものは、メイシアを強引に抱き寄せているルイフォンの姿であった。片手を彼女の背に回し、他方の手は腰に伸びようとしている。ぐったりとした彼女が完全に意識を失っているのは、遠目にも明らかだった。
次の瞬間にはミンウェイは走り出しており、ルイフォンの頭を渾身の力で殴っていた。どすっ、という女性が繰り出したとは思えないほどの重い一撃を受け、不意を突かれたルイフォンは酩酊状態のように頭を揺らす。それでもなお、腕だけはしっかりとメイシアを支えていた。
彼はミンウェイを睨みつけ、抗議の意を放った。
「いきなりなんだよ!」
「あなた! 何したのよ!」
ミンウェイがそう怒鳴りつけたのは、二発目を放ったあとであった。
「夜食に付き合わせただけだ」
ちかちかする視界の中で必死に弁明するルイフォンに、ミンウェイはまるで取り合わない。不毛な争いは、騒ぎを聞きつけた料理長が助け舟を出してくれるまで続いたのであった。
その後、ルイフォンがメイシアを部屋まで運んだ。腕の中で眠る彼女は、暖かい巣で無邪気に眠る雛鳥のようだった。彼は自然とやにさがりそうになったのだが、背後からミンウェイが監視の目を光らせていたので、努めて平静を装ったのだった。
ルイフォンは溜め息混じりにぼやきを漏らす。
「あの程度で酔うとは思わなかったんだよ」
「屋敷にいる女には手を出すなよ。そういうときはシャオリエの店に行け」
「だから、そういうつもりじゃ……」
うんざりとした様子のルイフォンに、イーレオがにやにやと笑いながら、ふと思い出したかのように言う。
「そういえば、シャオリエが最近お前が顔を見せない、と嘆いていたぞ。スーリンも寂しがっている、ってな」
「……俺は結構、忙しいんだ」
「また、あのラジコンヘリか?」
「それを言うなら、自律無人機! 今は、もっと別の――スパコン使っての、株の自動売買システムを……」
ルイフォンが自分の研究について語ろうとすると、イーレオは面倒臭そうに手を振って話を遮った。
「女より機械か? お前の趣味は分からんな」
「別に女が嫌いなわけじゃない。親父ほど、のめりこんでいないだけだ」
憮然とするルイフォンに、イーレオは含みのある視線を投げかけたが、言葉としては何も出さなかった。
「――で。俺の前に来たということは、報告すべきことがあるわけだな」
執務室の空気が一変した。
相変わらずの頬杖をついたままの姿勢でありながらも、イーレオの声色が違っていた。
ルイフォンは背筋を伸ばした。言動に多々問題があろうとも、目の前にいる男は信頼に足る絶対者だ。
「報告書だ」
ルイフォンは分厚い書類の束をイーレオに手渡した。イーレオは真面目な顔で、初めの一枚を見る。そして、言う。
「嫌味なくらい文字が大きいんだが? 一行文字数が少なすぎて読みにくいぞ」
「老眼の親父には、そのくらいのフォントサイズのほうが見やすいかと思ってな」
「紙が増えて、資源の無駄だ」
「だったら、電子データで受け取れよ」
イーレオは若作りをしていても、年齢相応に古い人間なので、紙の書類が好きなのだ。ルイフォンはそれを知っているから印刷してくる。更に、ファイリングするときのことも考えて、レイアウトにも気をつけている。彼の配慮が伝わっているかどうかは不明であるが。
イーレオは再び報告書に目を落とすと、今度は黙ってページを繰り始めた。時々、秀麗な額に皺を寄せながら、彼は最後まで目を通した。
「ご苦労。よく調べてくれた。礼を言う。――それで、お前の見解は?」
「斑目による、鷹刀への謀略。斑目は、あいつを使って何かを仕掛けようとしている」
「だろうな。……可哀想に。お嬢ちゃんは、いいように利用されただけ、か」
イーレオが重い息を吐く。彼が机の上に置いた報告書もまた、どすんとその質量に見合うだけの重たい音を立てた。
ルイフォンは、やるせなげに下唇を噛み、彼の出した結論を進言する。
「……俺は、今からでもあいつを――メイシアを鷹刀から出すべきだと思う」
「却下」
一瞬たりとも迷うことなく、イーレオは言ってのけた。肯定の言葉を確信していただけに、ルイフォンは耳を疑う。
「なんでだよ? あいつは斑目の駒だ」
たとえ、メイシア自身は何も知らなくても、だ。
「あいつにしたって、凶賊なんかとは関わらないほうが幸せだろう。――あいつは、貴族なんだから」
執務机に手をついて詰め寄ってくる息子を、イーレオは相変わらずの崩した姿勢のまま見上げた。
「俺は、お嬢ちゃんの父親と異母弟を助けると約束したんだぜ? 男に二言はない」
「だから、って……!」
「ホンシュアとやらの目的は分からん。だが、お嬢ちゃんの目的は、はっきりしている――家族を助けることだ。そのために身を売る約束までした。だったら、それに応えてやってもいいだろう」
話は終わりだ、とばかりに、イーレオはルイフォンの背後に目をやり、くいと顎を上げた。そちらにあるのは、ルイフォンの小細工付きのこの部屋の扉である。
しかし、ルイフォンは執務机に身を乗り出し、どんと拳を打ち付けた。
「あいつはいわば、鷹刀と斑目の諍いに巻き込まれた被害者だろ」
「だが現状は、お嬢ちゃんの家族は斑目に囚えられていて、お嬢ちゃんは家族を助けたい――鷹刀を追い出されるほうが、お嬢ちゃんにとっては望ましくないだろうが」
そう言われてしまうと、ルイフォンも言葉に詰まる。彼は癖のある前髪をくしゃくしゃと掻き上げた。
「……敵は、恐ろしく狡猾だぜ? メイシアが屋敷に来たときに、エルファンとリュイセンがいなかったのは偶然じゃないだろう」
「確かに。あいつらがいたら、お嬢ちゃんを屋敷に呼べなかったな」
頭の堅いふたりを思い出したのか、イーレオが苦笑する。
「笑っている場合じゃないだろ。それだけ、こっちのことは調べ上げられている、ってことだ!」
総帥の血統とはいえ、役割の特殊性から一族の序列の外にいるルイフォンが、最高位の総帥を鋭く睨みつける。いつになく真剣な息子に、イーレオも真顔になり――。
「ぷっ」
深刻な雰囲気に耐えきれず、思わず吹き出した。
「くっ、く、くく……」
流石に悪いと思っているのか、イーレオは口元を抑え、できるだけ笑いを押し殺している。
「おいっ、親父!」
「わ、悪い、悪い……。まったく……、意外に心配性だったんだな」
悪いと言いながらも、イーレオは眼鏡の奥の目にうっすらと涙を浮かべていた。
ルイフォンが不快感もあらわに、奥歯をぎりりと鳴らす。イーレオは慌てて、こほん、とひとつ、わざとらしい咳払いをして表情を改めた。それでも瞳には楽しげな色が載っている。
「ルイフォン、俺たちな、妙なる幸運に見舞われたんだよ」
「妙なる幸運? なんだよ、それ」
「メイシアは貴族だ。本来なら無縁の存在だった。――それが手に入ったんだぜ? 凄い幸運だろ?」
イーレオの声が音としてルイフォンの鼓膜を揺らしてから、言葉として脳に伝わるまでには、しばしの時間を要した。ぽかんと口を開けたルイフォンを、イーレオは楽しげに眺める。
やがてルイフォンは、諦観と尊敬の入り混じった複雑な溜め息を漏らした。いからせていた肩を下ろし、呟く。
「…………まったく。親父らしいぜ……」
罠を承知しつつ事態を泰然と受け止める父は、自分とは格が違う――ルイフォンは、そう認めざるをえない。容姿は似ていないくせに言動は父によく似ている、との評判の彼だが、どうやら粗悪な模造品に過ぎなかったようだ。
ともかく、あの小鳥は逃さなくていいのだ。ルイフォンの口元が自然に綻んでいく。
「じゃあ、このままメイシアの家族の救出に向けて動いていいんだな?」
「勿論だ。それと、お前が言う通り斑目への警戒も頼む」
「とりあえず、メイシアの持ち物に不審なものはないか、昨日のうちにミンウェイに調査を依頼してある」
本人が知らなくとも、何かを持たされていることもある。洗濯と称して服も回収済みだ。
ルイフォンの報告に、イーレオは満足気に口元を緩めた。
「しっかり仕事しているじゃないか」
「当然だろ。で、これからトンツァイにところへ行ってくる。メイシアを連れていっていいか?」
ルイフォンの言葉の後半が、イーレオの口の端を上げさせた。だが胸の内の台詞は、心の中に留めておく。
「いいぞ、好きにしろ」
鷹刀一族の総帥は、ただひとこと、そう許可を出した。
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