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いつものスーパーで十個入りの卵パックに三割引きのシールが貼られていた。しかも、ケースの中には一つだけ。
買って、オムライスでも作ろう。今日が消費期限の鶏肉があった。あとでケチャップを買おう。あと、グリーンピースも。そういえば、トイレットペーパーももうすぐ無くなる。
頭の中のメモに一つずつ記しながら、卵へ手を伸ばす。すると、横から肉付きのいい手が伸びてきて、わたしの手の目的地を取ってしまった。
驚きを顔に出さないように唇の端を噛む。視線だけ横にやると、目が合ってしまった。
わたしの母と同じぐらいの人だろうか。威嚇するように、ふん、と鼻を鳴らして去っていく。
空っぽなケースを数秒見つめて、隣のケースに目を向ける。
六個入り三百円。中身はほとんど減っていない。
行き場を無くしていた左手を顎に当て、また数秒。お高め卵に手を伸ばした。
口の気分がもうオムライス一択だったのだ。この口に卵のないオムライス、つまりチキンライスを放り込んでも、なにも満たされない。
仕方ない。損と思っては、負けだ。ちょっとした贅沢だと思うことにする。そう思えるのは、先輩にポジティブ変換が大事だよ、と今日言われたばかりだからだ。いつも明るい彼女は片足ずつ違った靴下を履いていて、何気なく指摘すると少しの間が空いてから、私なりのお洒落だから、と返してきた。立った親指付きだった。
思い出して、少しだけ口元が緩んだ。その間に、先ほど感じた驚きと少しの呆れも吹っ飛んでいく。
小さめの卵パックをまだ何も入っていないカゴに入れる。
次はケチャップだ。その次はグリーンピース。
帰ったら手を洗って、スーツのままオムライスを作る。いや、やっぱりパジャマに着替える。その後オムライスを作る。ついでにお味噌汁も作ろう。豆腐と味噌があるから、それだけで充分だ。お風呂に入った後に、食器を洗う。そして、序盤で視聴が止まっている映画をまた最初から観よう。
頭の中でこの後の行動を組み立てながら、ケチャップとグリーンピースをカゴに入れる。
アイスも見ていこうと思い、冷凍食品コーナーへ向かう。アイスがたくさん並べられたショーケースの向かい側に、これまたたくさん積み上げられたビールを見つけた。その中に、ついこの前から好きな俳優がコマーシャルを担当しているビールを発見した。
アイスから離れて、そのビールを二本手に取る。
だって今日は金曜日。誰に向けたわけでもない言い訳を頭に浮かべて、アイスは最安値のバニラ味のカップアイスを選んだ。
家に着いて真っ先にアイスを冷凍庫へ入れる。ビールもよく冷えたものが好みなので、卵やグリーンピース達と一緒に冷蔵庫へ並べた。エースと呼ばれる先輩はグラスも冷やした方がいい、と言っていたけれど、気分のグラスはシンクの中だったので、そのまま扉を閉める。
洗面所で手を洗いながら、外した腕時計を確認する。時刻は七時半過ぎ。今からオムライスとお味噌汁を作って、映画も観る。余裕はたっぷりある。だって、今日は金曜日なんだから。
今日はいい日だったと思う。鏡の中のわたしも、週末の仕事終わりの社会人だというのに、少し楽しそうな顔をしている。エース先輩にも明るい先輩にも褒められた。愛しの後輩ちゃんのきらきらと輝く視線にも応えられる仕事っぷりだったと思う。仏頂面の課長からも会議の後にお褒めの言葉を頂けた。今日はいい日なのだ。だから、食べたいものを食べる。その食事の主役にちょっとお高めの材料を使うとなると、気分はさらに上がる。
スーツを脱いで、犬の絵が描かれたシャツとゴムが弛んだジャージを着る。パジャマは今朝洗濯機に放り込んだことをすっかり忘れていた。その洗濯機を回して、キッチンへ向かう。
髪の毛を緩くまとめながら、また頭の中で組み立てを始める。
まずはチキンライスを作らないと。そのあと、卵の登場だ。そういえば、一人暮らしを始めて数年、オムライスを作るのは初めてかもしれない。いつも作ろうと思っても、出来上がるのはチキンライスだけだ。そんなわたしを、明るい先輩はどうやってポジティブ変換してくれるだろうか。
そんなことを考えてから、今日は必ず最後まで、と意気込んで、材料を並べた。
包丁とまな板を取り出して、玉ねぎがないことに気が付いた。人参は二日前に買ったものがある。
ああ、思い出した。玉ねぎは三日前に、玉ねぎのバター焼きに使ってしまったのだ。好きなアーティストがSNSで簡単なレシピを載せて、うますぎる、と言っていたから、影響を受けて衝動的に作った。実際、とてもおいしかったので、後悔はしない。どうして二日前に新しく玉ねぎを買わなかったのかも問わない。
人参と鶏もも肉を程よい大きさに切って、冷凍庫に眠っていたごはんを電子レンジで解凍する。その間に人参やグリーンピース、鶏もも肉を炒めて、火が通ったらケチャップを大量に投入する。去年母が突然家に来て、そして置いて行った木べらを使って混ぜる。使い心地がとてもいい。最近よく聴いているアイドルの歌を口ずさんでいると、電子レンジが、チン、と勢いのいい音を鳴らす。タイミングがいい。やっぱり今日はいい日だ。
大して熱くはないけれど「熱い、熱い。」と繰り返して、ごはんをフライパンに入れる。少し量が多い気もするけれど、悪くない。いい感じになったら、火を止めて、棚からボウルを出す。
やっと、卵の登場だ。丁寧にテープを剥がして、パックを開ける。オレンジ色の照明と相性がよく、つやつやと光っているように見える。
六個で三百円。つまり、一個で五十円。五十円あれば、なにができるだろう。
我が家より少しレベルが高い卵に、より慎重にひびを入れる。
卵はかなり上手に割れる方だと思う。そして、今の卵は普段のものよりいいものだから、さらに綺麗に割れる。
つるん、とボウルの中に落ちていく、黄色が二つ。
首を傾げた。銀のボウルの中で黄色い丸が二つ、輝いている。双子の卵らしい。わたしを見て、と胸を張っている二人組が浮かぶ。自信満々に笑っているように見えた。やっぱりお高め卵は格が違うらしい。かっこいい。
携帯のカメラでカシャリと撮った。ボウルにわたしが反射しているけれど、それでもいい。
双子の卵は今日のいいことを肯定して、ちょっとびっくりしたこともポジティブに変換するために、ここに来てくれたのだろうか。きっとそうだ、と信じることにする。
惜しさを感じながらも、菜箸で中心に差しこむ。とろりと溢れ出す中身に食欲が煽られる。絶対おいしくなるやつじゃない、と思いながら、かき混ぜる。黄色のプールに少しの塩を入れる。
チキンライスが入れられたままのフライパンとは別のものを新しく出して、また油を広げる。お腹がぐるるると大きく鳴った。やっぱりお味噌汁は作らずにオムライスだけ食べよう。もう既にお腹が空きすぎている。
卵を広げると、じゅわあ、と気持ちのいい音が響く。色が少し薄くなったら、火を消す。
ここからが本当の勝負だと固唾を呑んだ。
くるりと綺麗な形にできるように、頭の中でシミュレーションを繰り返す。少し太った三日月みたいな形が理想だ。こう、くるんと。そううまくできたらいい。
ふう、と息を吐く。やれば出来る子だ、わたしは。今日はいろんな人に褒められて、さらにレベルアップしてるから、絶対にできるはず。
「うん、悪くない。」
ソファに沈みながら呟く。オムライスとビールの相性は最高なのだと今度いろんな人に言ってみよう。多少オムライスが不格好でも、それすら粋なのだと。
チキンライスの量が多くて、卵にピーッと線が入った時、ちょっとだけショックだった。お高い卵、双子の卵が、崩れてしまった、と。
それでもお皿に乗せてしまえば、口に運んでしまえば、結局はいい。
キンキンに冷えたビールが、仕事と料理を頑張ったわたしの身体に染み渡っていく。
手が止まることはなく、残っていたチキンライスも含めて完食してしまった。時刻は午後九時。今から洗い物をしてお風呂に入って、映画を観る。やっぱり、映画を観てからお風呂に入ろうか。何なら、洗い物は明日に回したっていい。
とにかく今日は仕事がうまくいったし、オムライスもおいしく作れたから、もう満足だ。
いい日だった。ベージュのソファがわたしを包み込んでくれる。ここで寝るのもありかもしれない。そう思った途端、あくびが漏れた。
その次の瞬間、唐突な尿意を覚えた。眠気も覚めて、トイレに駆け込む。
便座にお尻を合わせたら、安心感に包まれる。用を足して、トイレットペーパーに手を伸ばす。ちょうどいいところで使い切り、流し終えてから、補充分がある棚を開けた。
「・・・・・・トイレットペーパー、買うの忘れた。」
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