12.奪われた日常

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「六千万円? 僕の資産はその何倍もあるよ」  持参したワインボトルを差し出されて、私はグラスを傾けた。十年間の我慢で私が受け取ることのできる対価。資産家の三四郎さんにとっては大した額ではないらしい。  優菜が夫の子供じゃない可能性が高いことを話すと、流石に驚いていたが「安心したよ、それだけあの男の事が嫌いなんだね」と白い歯を見せて笑ってくれた。 「これからどうしよう……」  半年以上、行方がわからなくても誰にも心配されない女。定期的に三四郎さんが、私になりすましてラインをしている事を差し引いても異常に思えた。今更あの家に帰って、私になにができるのだろう。そもそも私の存在価値とはなんだろう。考えれば考えるほど胸が苦しくなって吐きそうだった。 「僕と一緒にいればいい、これからもずっと。僕は君を必要としているし、あるいは、君にとっても僕は必要かもしれない。少なくともあの家に、君の居場所はない」  彼は私の一番欲しい言葉をくれた。それは、何億円の資産より、親より、親戚より、息子よりも私を肯定してくれた。  私を必要としてくれる誰か──。  それは、まるで遥か昔から続く物語のような魅力があった。喜びは、まるで幻想的な世界の中で踊るように、心を満たし、奥深い感動を呼び起こす。その瞬間、時間は一瞬、空気は甘い花の香りで満たされ、人に寄り添うことで、自分自身を見つめ直し、新たな可能性を感じるていた。その関係は、まるで美しい詩のように、私の心を揺さぶっている。 「うん」  そう返事してしまうと、今まで背負ってきた大きな荷物を下ろしたような開放感に包まれた。もう、なにも考えたくはない。私を必要としてくれる人と二人で生きていく。それだけでいい。それだけがいい。  私は彼を見上げて目を閉じた。あとはその身を寄せて、あるがままになるだろう。その先にどんな未来が待ち受けていても、それが私の選んだ道であり、後悔はない。さようなら、私の家族。  さようなら、今までの私。  第一部 完
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