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運命
ーーー3年前。
「…………芽依?」
その日、酷く落ち込んで行くあても無く街を彷徨っていた私に、どこか掠れた風の声に名前を呼ばれて立ち止まった。
「やっぱ、芽依じゃん!」
振り返ると、そこには高校時代の友人である浩二の、懐かしくもどこか大人びた笑顔があって、
夏の陽気に浮かれた雑多の中、太陽のような暖かい笑顔に不意に泣きたくなったのを、今でも私はハッキリと覚えている。
「浩二!?」
「おおー!久し振りだな!」
高校を卒業して3年。
8月の暑い日の夕暮れ時。
周りは仕事を終えて家路を急ぐ人達や、冷えたビールを求めて浮き足立つサラリーマン達なんかで溢れ返っている。
「元気にしてた?」
「おう、まぁ、ボチボチな」
思わず2人で駆け寄り立ち話に花を咲かせるも、私の問いに浩二は苦い笑みを返して頷き、ぶら下げていた鞄をヒョイッと肩へ担ぎ直した。
お互い進学せずに就職の道を選んだクチで、慣れない仕事に日々を追われてまったく連絡を取り合ってはいなかったのだけれど、友達というものは不思議なものだ。
会えなかった時間なんて関係なく、その頃のふたりへと急速に引き戻してくれる。
「なんだよ、いっちょ前にヒールなんか履いて」
わざとらしくいやらしいニヤつきを浮かべ、タイトスカートから出る私の脚を舐め回すように覗き込む浩二。
「なによ、浩二だっていっちょ前にスーツなんか着ちゃって。仕事の出来るかっこいい男みたいじゃん」
その言葉に嘘はなかった。
ガサツだった浩二からはあの頃とはまた違う、大人の男のニオイがした。
「……お前もな。何か、色っぽくなっててビックリした」
「ふふ、そう?」
互いにニッと笑い合うのはあの頃のままで。
だけど今はそんな小さな事にでさえも、荒んだ私の心が幾分救われたように感じた。
「芽衣、ちょっと呑んで行かね?積もる話もあるだろうし」
本当は、駄目だって分かってた。
行っちゃ駄目だって事。
その後にどうなるかって事。
「………うん、そうだね」
でも私は心の中で鳴る警笛を無視して、聴こえない振りをしてそこへそっと蓋をしたんだ。
「ここにしとくか」
「うん、いいよ」
身近にあった赤ちょうちん、中からは既に酒気帯びた騒ぎ声が漏れ出ていて、広く感じる浩二の背についてそののれんをくぐる。
「とりあえず生でいいだろ?」
「……あ、うん」
かろうじて空いていた4人掛けのテーブルに向かい合って座り、硬い背もたれへ背中を預けて互いにフゥ――ッと長い息を吐いた。
「なんだよ、ふたり共お疲れかよ」
「あは、そうみたいだね」
頭上の照明に眼を細める浩二が軽く口角を上げ、近くを通った店員にビールふたつと適当につまめる物を気怠そうに注文する。
そういう所も相変わらずだ。
メニュー表と相談している優順不断な私を他所に、浩二はさくさくと食べたい物を注文して、胸ポケットから取り出したタバコに火を灯す。
「まあ、当たり前か。生きてりゃーそれなりに色々あるわな」
「……そう、だね」
白い靄のような煙が、薄れながら天井に届く事なく消えていく。
人の魂も、いつかそんな感じで消えてゆくのかも知れないな、なんて思いながら、吸い終えたタバコを灰皿で揉み消している浩二の大きな手を眺める。
人の魂……か。
「おまたせしましたー、生ふたつとアスパラベーコン、枝豆でーす」
やがて愛想のいい店員が泡立つビールジョッキをテーブルに置き、
私達は形だけの軽い乾杯をして枝豆をつまんだ。
続くようにして次々と運ばれてくるつまみや料理たち。
口にした料理は全部美味しいけれど、なんだか心が浮き立たないのはどうしてだろう。
自分で選んだ物ではないから?
好きじゃない物が多いから?
苦手なビールが苦いから……?
「で?なんかあった?」
それは唐突で、定員が走り去ったのを見届けた彼からの、私の核心部分への問い掛けだった。
「…………え?」
ネクタイを緩めながら、
真っ直ぐ私の目を見て尋ねてくる元同級生。
指に挟んだ2本目のタバコがジジジと音を立てる。
「いや、なんか元気ないっぽかったからさ」
浩二は昔からそんな所がある。
私に何かあれば不思議とすぐに気付いてくれて、ただ黙って話を聞いてくれるんだ。
「浩二には適わないなあ。3年も会ってなかったのに」
「バーカ、お前が分かりやすいだけだっつーの」
「そ、それはそうかも知れないけど……」
浩二とは中学からのつき合いで、
互いに弱っている時なんかにただ黙って傍に居あえる関係だった。
ーーーでも私には、
浩二には言えない、誰にも言えない秘密があったんだ。
そう、後に出逢えたあの人たち以外には話せなかった事………。
それが邪魔をしたのか、浩二とは互いを理解し合える存在ではあったけれど、それでも私達がつき合う事はなかった。
「聞いてやるから話してみろよ」
鬱々しい息をこっそり吐き出した私の反応を、浩二はなにも言わずにただ見守ってくれている。
そんな無言の促しに少し戸惑いながら、私は重い口を開いた。
「………実はさ、先輩とね、別れたんだ」
「そっか」
浩二は背もたれから身体を起こし、ビールをゴクリッと喉を鳴らしてひとくち呑む。
喉仏が緩やかに上下し、私はそれを眺めながら続けた。
「他にね、好きな子が出来たんだって」
「そっか」
視界がゆらりと潤み出し、よく冷えたビールジョッキを両手で包み込んだまま俯く。
「そっか」
浩二はもう一度そう口にすると、伸ばした大きな手で私の頭を優しくポンポンしてくれた。
そんななんて事のない優しさに似たなにかに、ビールジョッキについた雫と同じものがつぅーっと一筋、頬を生ぬるく流れ落ちる。
「とりあえず呑め」
「…………うん」
運ばれてくるジョッキで乾杯する度に、カチンと軽やかな音がまるで弔いの鐘のように私達の空間に鳴り響いく。
そうして二人で他愛もない会話で盛り上がり、何杯目かのビールを一気に飲み干した時、
「ホント言うとさ、オレも今日、女と別れたんだわ」
タバコの白い煙を吐きながら、ぽつりと浩二が零した。
「………そっか」
ぐらぐら揺れる思考回路で、私はただそれだけを返す。
「オレの会社の先輩とさ、ヤッちまったんだと」
「そっか」
私は胸の奥にチクリと鈍い痛みを感じた。
なんだかそんな浩二の気持ちが、今は痛い程よく判ったから。
頭上にぶら下がる照明のせいだろうか、浩二の瞳にうっすらと揺らぐ光るものが見える。
「そっか」
そう言って私は空になったジョッキをぐらつく視界で見下ろす。
そんな時だった。
「お前、いい女になったよな」
ジョッキ越しの浩二の目がギラついている事に気づいていたけれど、私はその視線に気付かないふりをして目線を逸らした。
「そう?浩二も男らしくなったじゃん」
Yシャツ姿の浩二は、時の経過と共にどことなく逞しく、そして大人びた容姿で私の瞳に映る。
少しの沈黙が流れ、先に口を開いたのは浩二の方だった。
ギラついた眼差しを残したまま。
「オレ達、つき合わねぇ?」
それは心の警笛に蓋をした時から予想していた事。
蓋を閉めた理由は、"期待"と"危険"が見え隠れしていたからなのかも知れない。
「芽依、オレの女になれよ」
それが私達の始まりだった。
――寂しさから来る弱さ。
きっと私達は、それを知っていたんだと思う。
ただ、その事実に心の目を瞑っていただけ……。
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