いらないもの、吸い取ります

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 う――――ん。 「驚愕の吸引力!」「コードレスでとにかく軽い!」「すき間汚れもスッキリ!」  淳一は新製品のキャッチコピーに頭を悩ませていた。  キーボードに置いた手は止まったままだ。  なんとしても明日の打ち合わせまでに案を絞り出さねば。「期待の新人」が聞いて呆れる。  ──キャッチコピーをつけるっていうのは、その商品に単純化された意味を与えるってことだ。客に消費電力や吸込仕事率のワット数なんか見せたって何にも解りゃしない。広告っていうのは、昔や他社の商品との恣意的な比較の中に、客が求める意味を創り出す作業でしかない。  いつか上司が熱く語っていたのを思い出す。  お客さんはこのコードレス掃除機に何を求めているのだろう......    やめだ。一旦休憩。カフェの洋楽bgm が頭の中に戻ってくる。  陽の光が差し込む昼下がり。隣には推し活だろうか、うちわに誰かの名前をせっせと貼り付ける若い女性二人組。  まるで周りの目を気にしていないかのように、自分は周りに無関心であるとアピールするかのようにうんと伸びをしてトイレに席を立つ。  幾分頭もリフレッシュされ、濡れた手をハンカチで拭きながら席へと向かう。と、さっきの推し活の人がアイスカフェラテのグラスを倒してしまった。幸い淳一の机にはかかっていなかったが床はびしょびしょだ。女の人の服にも少しかかったようで、どうすればいいか分からず二人ともあたふたしていていた。  紙は食器返却口のところにあるペーパーかトイレットペーパーが使えるか。おそらくタオルも店員さんから借りられるだろう。「大丈夫ですか?」と言おうと、口を少し開けて舌を前歯の付け根あたりに当てる。でもなぜか a を発音することはできずに二人の後ろに突っ立っていることしかできなかった。  なぜ声が出ないのか自分でも分からなかった。何をいうべきかも分かっている。でも彼女たちを助けて自分が親切だと思われることを想像したら、得体の知れない恐怖が襲ってきた。まるで自分が自分でなくなるような、開けてはいけない扉を開けてしまうような。  なぜだろう。人にいいことをして感謝されることはいいことのはずだ。  こぼしていない方の女の人がカウンターからタオルを借りてきて床を拭き始める。  淳一は、自分がものすごく弱い人間であるような気がした。人に手を差し伸べることもできない弱い人間。  いや、俺は弱くなんかない!......そうだ、俺は性格が悪いんだ。他人に無関心な酷いやつだから、目の前で人がコーヒーをこぼしたって気にも留めないんだ。でも性格ならしょうがないか、だって生まれつきのものだから。ああ、恨むよ神様。どうしたって俺をこんな人間にしちまったんだ。  そうやって自分の行動に対する正当な理由を探しているうちに、どうやら掃除は済んだようだ。服の汚れが落ちたのを確認したその女の人は後ろを振り返って、状況を確認するように淳一のことを見た。彼が隣の席の人だと分かると申し訳なさそうな顔で本当にすみませんと頭を下げてきた。  あ、大丈夫ですと軽く会釈をして、淳一は自分の椅子へと腰を下ろす。  何やってたんだっけな。そうか、掃除機のキャッチコピーだ。  頭の中はまだ別のことでいっぱいだったが、Mac に手をおいてキーボードをがむしゃらに叩き始めた。  キュウインリョク、カルイ、コウリツテキ、ジユウジザイ、コウリツテキ、ソウジキ、カルイ......  そうすることで心が落ち着く気がした。隣の事故なんか知ったことか。仕事が妨害されたじゃないか。俺は自分の仕事にしか興味がないんだから。    約20分後、推し活の二人組がやっと席を離れたので淳一は手を離して一息ついた。後の一時間ほど携帯をいじってから店を出た。空はオレンジ色だ。  淳一は大学を出て大手家電メーカーへと就職した。3年前のことだ。新型コロナウイルス対策の一環で、入社時には既にフレックスタイム制が導入されていた。今日も昼ごろで退社していつものカフェで仕事を進める予定だった。しかしあのコーヒー事件の後はどうも集中できなかった。  なぜだろう。なぜ、あの時声をかけられなかったのか。  そんなことをぼーっと考えていたらマンションが見えてきた。家からカフェまでは徒歩10分といったところだ。  路地の反対側にはこじんまりした公園がある。子供たちの遊び場は、日が暮れるとどこか神秘的な不気味さを醸し出すようになる。  目線をこちら側の歩道に戻すと、道端で何かが小刻みに動いていた。  それは道路照明の光を受けてコンクリートに美しい網目の影を描いていた。トンボである。  何やら大変そうに羽をバタバタ動かしているが、その胴体を浮かすほどの力は無いようだ。チラリと公園の池を見る。  なぜここで落ちてしまったのかは分からないが、こんなところで飛ぶ練習をしていては自転車に轢かれてしまうかもしれない。ビクビクしながらその成虫なりたてトンボの羽をチョキの指で挟んで持ち上げたが、意外と抵抗はしてこなかった。そそくさと道路を横切り、公園の柵の外から手を伸ばして人が通らなそうな木陰にトンボを下ろした。  再び羽が動き始めたのを確認すると、淳一は自分のマンションへと帰っていった。  ガチャ。 「t、ただいま...」 「あら、じゅんくんおかえり」  夏希がキッチンから顔を覗かせる。夏希とは2年前に入籍した。 「ご飯もう少しでできるから、先シャワー入っちゃえば?」 「そうだね」  ドライアーで髪を乾かし終わって風呂場から出ると、机の上には春巻きが載っていた。やった、俺の大好物だ。箸や皿を並べるのを手伝って、二人でいただきますと食べ始める。今日もうまい。 「どう?周り柔らかすぎない?」 「うん」  ...... 「今日はエビを入れてみたんだけど味変じゃない?」 「うん、いいと思う」 「でしょでしょ、ネットで見つけたの」 「いいね」  夏希の笑顔はどこか寂しそうだった。  ......  ご馳走様でしたと席を立ち、二人で食器をシンクに運ぶ。  部屋の端にはきちんと畳まれた洗濯物。  家の前にトンボがいたんだよと話しながら寝る準備を済ませて、自分の寝室に向かう。 「おやすみ」 「おやすみ。明日も朝早いの?」 「うん」 「ファイト!」  淳一は照れたような笑いを作ってから何か言おうとしたが、代わりにドアノブを回した。  シングルベッドで仰向けになり、暗闇に向かって大きくため息をつく。  夏希の少し寂しそうな顔を思い出す。なんと言えばよかったのだろう。  ──じゅんくんは不器用だけど優しいの。  彼女がそんなことを誰かに言っていた気がする。俺は不器用なのかな。でもそれも俺の一つの性格なのか?  思考が渦を巻きながら深いところへと飲み込まれていく──    気づくと朝だった。朝の六時。いつもの天井。おはよう世界。  ぼーっとしたまま支度を済ませて家を出る。会社までは電車で三駅だ。  掃除機のキャッチコピーの打ち合わせも上の空だった。本質的には同じ掃除機に対して、何を俺たちは薄っぺらい言葉をあれやこれやと並び立てて分かったような顔をしているのだろう。全てが馬鹿馬鹿しくなってきた。話し合いはしばらく迷走していたが、ひとまず「脅威のハイパワー&史上最軽量 (※自社基準) 」で落ち着いたようだ。  今日はなんとなくカフェに行く気になれなかった。残った仕事を片付けてから会社を出たのは、空が薄暗い紺青色に染まりかけた頃だった。  下り電車。窓のフレーム内で電柱が次々と左に流れていくのを目で追う。  そのまま家に帰る気分にもなれず、最寄駅の一駅手前でホームに降りた。少し歩きたかった。  考えてみれば、ほとんどこの駅から帰ったことなかったな。あと三分吊り革に掴まってれば最寄駅に着くのに、あえて一つ手前で降りるなんてめんどくさすぎる。人は「大変」よりも「面倒臭い」の方が嫌いだ。「世の中の大事なことってたいていめんどくさいんだよ」というどこかで聞いた名言を思い出す。  頭を空にしてただ足が向く方へと進み始める。最初は駅沿いに真っ直ぐ。電柱は不動だ。今度は脇道へと入っていく。地元の商店街らしく、降ろされたシャッターを横目に曲がり角を自由気ままに曲がる。    すると。明かりのついている店が一つあった。ここからでは看板は見えない。でもその店の周りの空間だけ不思議に暖かく感じた。店の斜め前まで足をすすめると、端のさびれた看板には黒いペンキでこう書かれていた。 「いらないもの、吸い取ります」  掃除機を売っているのかな。頭に残る爽やかなキャッチコピーだ。 「ちょっと寄ってきなされ」  びくり。店の看板に気を取られていて気づかなかったが、木製のカウンターの向こう側から店主が話しかけてきた。  淳一は店主を見る。まん丸の大きい眼鏡をかけた、七十歳くらいのお爺さん。レンズの向こう側の目は、まるで子供のように輝いていて、純粋で、まっすぐだ。 「あんたさん悩み事でもあるのかい?きっといらないものがたくさん溜まってるんだろう。こっちに来な。全部吸い取って差し上げよう」 「あ、はい......」  彼の優しい綺麗な目に惹き付けられて、警戒心を後ろに残したまま淳一の体は店内へと傾く。  正面向かいのカウンターの左手にはもう一つ部屋があるようだが、真紅色のカーテンで仕切られていて中は見えない。 「遠慮することはない。わしはあんたさんのためにここにいるんだから。さあさあ」  言っている意味がよくわからなかったが、お爺さんはカーテンを開けて淳一を招き入れる。  そこは三畳の細長い和室だった。天井には蛍光灯があるだけで、驚くほど簡素だった。部屋の奥へと視線を下ろすと、畳の上に掃除機がひっそりと置かれていた。ポット型の本体部分からホースが伸びていて、持ち手の筒へとつながっている。昔ながらの掃除機だ。子供の頃、足の裏を吸おうとして母親に汚いと注意された時の記憶が蘇る。吸い込み口へと入っていく冷たい風が気持ちよく、自分自身も綺麗になっていく気がしたものだ。 「コンセントを指してみなされ」 「あ、はい......」  コンセント、コンセントっと。本体の後ろ側にコンセントの先っぽが出ている。厳密にはコンセントとは差し込み口のことで、この突起部分はプラグというのだけれど。要らぬことを考えながら、先端部分をつまんでぐっと引き出す。懐かしい気持ちになりながら、部屋の隅にあるコンセントへとプラグを差し込む。  その瞬間。  まだ電源ボタンも押していないのに、掃除機がひとりでに音を立て始めた。音が大きくなるにつれて、本体もガタガタと揺れ始める。ホースもぐにゃぐにゃと制御不能に動き始める。とその時、暴走した先端の吸い込み口が淳一の顔面目がけて飛んできた。咄嗟に目を閉じて腕で防御しようとするが、それはするりと腕を通り抜ける。吸い込み口はまるで生き物の口のように大きく口を開き淳一の頭をまるっと包み込む。爽やかな風が顔を通り抜けた。    ふっと顔の周りの違和感が消えた。目を開けると、そこは草原だった。風が辺り一面を吹き渡り、草が波のように揺れる。真っ青な空高くを高積雲がゆっくりと動いている。後ろには一本の大きな木が立っていて、その新緑色の葉は地面にぼんやりとした影を落とす。  いい気分だ。木の根元の陰に腰を下ろし、足元の細長い草が風に吹かれるのを見つめる。一匹の蟻が草の根元を避けながら土の上をあちこち動き回っている。たまに草の途中まで登ってみて、またすぐに降りたりする。今日のご馳走を探し回っているのだろう。蟻がどこかに行って見えなくなってしまうまで、しばらくそうして地面を見ていた。  なんだか命を感じた。あの蟻には命があった。今寄りかかっているこの幹にも命がある。土にも、風にも、空にも、雲にも命がある。命ってなんだろう。生きているものに宿っているもの。生きているとはなんだろう。命あるもの。命というものが物理的に存在するのかはわからない。どこにあるのかもわからない。でも、俺は確かにそれを感じ取れる。  命に囲まれて、まるで自然の一部になったような気がした。すると突然、周りの命から逆投影されるように自分の命が浮かび上がってきた。俺の心だ。他の自然と同じように生命力に満ち溢れている。あれ?でも心の周りに何かがたくさん張り付いている。外に飛び出そうとする心を、その紙のようなものが中に閉じ込めている。  じっと集中すると、大量の貼り紙に何か文字が書かれているのが見えた。  え? 「期待の新人」「無関心」「酷いやつ」「不器用」......  なんだこれ。なんなんだ。こんな言葉が自分の心を封じ込めているというのか。なぜ自分の心にこんなレッテルが貼られているんだ。誰が貼ったというんだ。  ──俺だ。  淳一は気づいた。これらのレッテルは、他人の視線を気にしたときに自分自身で貼り付けたものであると。剥き出しの心を見られるのが怖くて、見えないように蓋をしたものであると。他人から見た自分を身の内に作り、その裏側に隠れることでどこか安心していたんだと。  でも、心は自由になりたがっている。こんな紙切れなんて突き破りたいと思っている。  キャッチコピーと同じじゃないか。俺が性格なんて呼んでいたものは、ただの単純化された薄っぺらい言葉でしかない。そんなもので自分自身を理解した気になって、自分で自分の心を閉じ込めてしまったんだ。  突風が下から突き上げた。  風は、淳一の心から紙切れを一枚一枚はがし取っていく。心が自由になっていく。紙切れは空の彼方へ吸い込まれて、やがて見えなくなった。  束縛から解き放たれた心は嬉しそうに膨らんでいき、淳一の視界を黄色の光で満たした。  目を開くと、淳一は狭い跡地に独り立っていた。黒一面の空にチラホラと星が見える。辺りは静寂に包まれている。お爺さんの店なんて最初から存在しなかったかのように雑草は腰の高さまで生い茂っている。  家に帰りたい、と思った。淳一は歩き出した。後ろは振り返らなかった。錆びたチェーンポールの上には、トンボが一匹止まっていた。  家のドアを開ける。帰ってきた。こういう時なんて言うんだっけ。 「ただいまー」 「じゅんくん!どこ行ってたのこんなに遅くなって!心配したじゃない」 「ごめん、少し寄り道してたんだ。お腹すいちゃったな。ご飯食べたい」  夏希は一瞬驚いたような表情をしてから微笑んだ。 「もう用意できてるよ。ずっと待ってたし」  二人は机に向かいあって腰を下ろした。今日のメニューはデミグラスソースのハンバーグだ。 「やった、大好物」 「でしょでしょ。早く食べよ」  いただきますと箸を持ち、端っこを切って口に入れる。とろける肉汁と濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。 「うまい!」  夏希はスッと顔を上げ、嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
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