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Calcio ed amore
「くそっ!……」
試合の終了を告げるホイッスルが聞こえると、テレビ画面に張りつくように見ていたロミオは盛大に罵り声をあげ、拳をテーブルに叩きつけた。
「何やってんだ! くだらねえ!」
その激しい音に、ロミオの真向かいにいて、静かにビールを飲んでいた隼人は一瞬肩が飛び上がった。だが、ついにきたかというように、溜息をつく。
テレビ画面には、現在ブラジルで開催されているワールドカップの試合が映し出されている。ゲームを終えたピッチ上では、勝敗を決した選手たちの対照的な姿があった。
「あの連中は何をしにブラジルまで行ったんだ! あんなにゴールを外しやがって! オレのほうがもっとうまく決められるぜ!」
ロミオはテレビ画面へ向かって拳を振り回しながら、語気荒く罵倒する。
隼人はジョッキを口元まで運びながら、そーっと視線をテレビへ移した。今まで、予選トーナメントグループDイタリア対ウルグアイの試合が行われていたのである。負ければ予選敗退という状況で、イタリアは後半も最後の場面でゴールを決められ、一対〇で敗れ去ったのである。
隼人はイタリア戦を全部ロミオと一緒に観戦した。イタリア人のサッカー好きは十分にわかっていたはずなのだが、四年に一度のサッカーの祭典はスケールが違っていた。数ヶ月前からイタリア人たちの会話にはワールドカップというキーワードが必ず入り、優勝という輝ける二文字がくっついた。
「ワールドカップ? 勿論、優勝さ」
試しにロミオにも聞いてみたら、当然のように返ってきた。
「オレたちは、毎回負けている弱いイングランドじゃないんだ。優勝を狙って当たり前だろう? 今回のアズーリは正直あまり期待できないけど、オレは優勝を信じて応援する」
はあ、と隼人は呑気に相槌を打った。イングランドは確かサッカーの母国と言われていたような気がするなあとか思い出しながら、そこから延々と始まったサッカー話に耳を傾けた。
――俺も別にサッカーに興味がないわけじゃないけど。
ロミオの熱弁を聞きながら、隼人はうーんと考えた。基本的にあまりスポーツには関心ないが、それでも日本にいた時に観ていたのは野球である。これはテレビで生中継されていた影響が多分に大きいが、かといって、三度の飯より野球が好きというわけではない。
――俺はスポーツ自体に熱中しない性分なんだな。
自分自身を冷静に分析しながら、ミラノに君臨する二大地元サッカークラブのダービーがどれほど凄まじいのか、身振り手振りで喋りまくるロミオへ適当に頷いていた。
そんなサッカー大好きなロミオを見ているので、ナショナルチーム予選敗退という現実に大激怒している姿は、大いに予想できたことだった。
「予選で負けるなんて、あいつらはイタリアの恥だ! せめて決勝トーナメントへ行けよ! オレたちはイタリアだぞ!!」
優勝を信じて応援していたロミオの怒りは、部屋の天井を突き破って遥か上空何千キロまで到達するような勢いである。
――今頃、あちこちで燃え上がっているんだろうな……
ワールドカップ開催中は、ミラノ市内でも数ヶ所に巨大なスクリーンが設置されている。そこに集まって観戦した多くのミラノ市民もまた、ロミオと同じく怒れるイタリア人になっているのかもしれないと考えると、それはそれで少々げんなりする思いでもあった。
早く元の騒々しいだけのイタリアに戻って欲しいと考えながら、まだビールが残っているジョッキに口につけると、何やら強い視線を感じた。
「――おい、ハヤト」
ロミオが腕を組んで、自分を睨みつけていた。
「……何だ?」
その険しい顔つきに、何やら嫌な予感がしてきた隼人は、一口だけ飲んで、ジョッキをテーブルにそっと置く。
ロミオは尊大に顎をあげた。
「ハヤトは悔しくないのかよ」
「……えっ?」
「日本だって、もう終わりだろう?」
問われて、隼人はワールドカップのことかと慌てて記憶を巡らす。日本戦もロミオと一緒に観た。自分は普通に応援していたが、ロミオがイタリア戦と同様に熱くなっていたのは覚えている。
「確か……ギリシャと戦って、引き分けだったかな?」
「その前はコートジボアールで、二対一で負けたんだ。三戦目はコロンビアだ。あと少しで始まる。自分の国の対戦カードぐらい覚えておけよ」
「……ああ」
すっかり忘れていた隼人だったが、そのきつい言い方と共にロミオの目が恐ろしいぐらいに据わっていて、ますます嫌な予感がしてきた。
「コロンビアには勝てない。日本は弱すぎる。イタリア同様に終わりさ」
ロミオは両手を広げて肩をすくめる。
「なのに、ハヤトはちっとも怒らないし、哀しまない。いつもどおりのハヤトだ。日本人って、本当に感情を表さないよな」
「……俺はサッカーに興味がないんだ、ロミオ」
何故か言い訳めいた口調になったが、ロミオは苛々したように鼻を鳴らした。
「興味がないサッカーだけじゃない。オレと一緒にいる時も、ご飯を食べている時も、お喋りしている時も、ハヤトはいつも淡々としている。ハヤトが感情を爆発させるのは、仕事の時だけだ。仕事はハヤトを翻弄して、オレは翻弄されるハヤトを見ているだけ。ハヤトの仕事が、オレたちの関係を決めている。ハヤトを奴隷のように従え、いつもオレに平手打ちを喰らわすんだ」
「……」
隼人は少々呆気にとられたようにロミオを見つめた。だがロミオは続けざまに口をひらく。
「オレには日本人がわからない! サッカーも恋も、オレには気持ちがたまらなく燃えるものさ! ハヤトにはそれがないのかよ!」
興奮してきたのか、息を荒げ、頬を真っ赤にしながら叫ぶ。
隼人は困ったように少しだけ天井を仰いだ。いきなりロミオが自分に喰ってかかってきた原因がわかった。つまり八つ当たりである。
「落ち着け、ロミオ」
そういえばワールドカップが始まる前にも会う約束をしていたのに、仕事が終わらなかったせいで会えなかったことを、今更ながら思い出した。その時は電話で謝罪する隼人に、次は絶対会おうと明るく約束したロミオだったが、やはり怒っていたのかもしれないと後悔した。
「落ち着いているさ!」
ロミオは鼻息荒く吐き捨てる。
「ただ頭にきただけだ!」
「……」
さて、どうしようかと隼人は悩む。八つ当たりしているロミオは可愛いが、これ以上興奮すると何を言い出すかわからないので、いつものようになだめることにした。
「悪かった、ロミオ」
まず初めに口から出るのは、毎度お馴染みの言葉である。たとえ自分が何をしていなくても、兎にも角にも、まず謝るのが隼人の習慣になってしまっている。
「イタリアが敗退して気持ちが沈んでいるのは、すごくわかる。残念だったな」
対するロミオの返答は辛辣だった。
「残念? そんな気持ち、全くない。あんな下手くそな奴らがイタリア代表だったことに、腹が立っているんだ。あいつら帰ってこなくていい」
ことサッカーに関しては、すこぶる容赦がないイタリア人である。だからこそサッカーが強いんだと、カピターノ・シトーがべらんべえに喋っていたが、それならば日本が強くなるのはいつだろうと首を傾げてしまった。
「ああ、そうだな」
ここで変に逆らえばさらにヘソを曲げるのは確実なので、穏やかに言い続けた。
「ロミオはイタリアとサッカーを愛しているから、すごく怒っているんだな」
感情が昂っているエメラルドグリーンの瞳を優しく覗き込みながら、隼人は控えめに笑む。
「この間も、俺の仕事が終わらなくて会えなかったな。すまなかった。その時の文句も合わせて、ロミオの気持ちを全部聞くよ。さあ、喋ってくれ」
目で抱きしめるように、じっと見つめる。
まるで不和の女神にけしかけられているかのように怒りの炎を上げていたロミオだったが、恋人の言葉と声と眼差しに、ふと夢から覚めたような表情になった。
「……覚えていたのかよ」
少々照れたようにそっぽを向く。だが怒りで染まっていた頬が若干和らぐ。
「勿論、覚えていたよ」
「オレは忘れていたさ」
天邪鬼な恋人は、つれない。
しかし隼人はホッとしたように笑顔になった。そんな恋人が可愛くて仕方がない。
「でもハヤトがそう言うんだったら、うんざりするくらい文句をぶちまけてやってもいいかもな。いつ終了するか、オレもわからないけど」
ロミオはそっぽを向いたまま、投げやりに言う。だがその声は妙に甘酸っぱい。
「ああ、いいとも」
隼人はテーブルに両腕を置いて、きちんと正面からロミオに向く。
「その間、俺はずっとロミオを見ているから」
Тシャツにデニムという普段着のロミオだが、ゲイポルノ俳優なだけあって、男心をそそるぐらいに色っぽい。そんな恋人を見ていると、隼人はいつも胸がドキドキする。ロミオは知らないだろうなと思った。俺をこんなに夢中にさせていることに――
「そのうちに見飽きる」
つっけんどんに言いながら、ロミオは隼人に意地悪な一瞥を投げた。
「大体、そんなにオレがうるさいんだったら、口を聞けなくさせればいいだろう?」
「……いや、うるさいなんて言っていない」
慌てて隼人は否定する。
「黙れってことだろう、つまり」
ロミオは決めつけるように言い切る。
隼人は困ったように押し黙った。
「だから、オレを静かにさせればいいだろう?」
ロミオは焦れたように口を尖らせる。
「オレの口を黙らせられるのは、世界中でハヤトだけだ」
頬杖をついた横顔が、高慢げに隼人へ振り向く。その綺麗でいて華やかでいて、尚且つ男らしい顔が、目の前の鈍い男を叱咤するような表情になる。
「……ああ」
さすがの鈍い男も、何を言われているのかわかった。
隼人は椅子から立つと、ロミオのそばに行った。余計な口は聞かずに、屈んで、キスをする。
キスは、イタリアのチョコラートのような甘ったるい味がした。
ロミオはせがむように隼人の背中に腕を回す。
隼人もロミオの肩を両腕で掴むと、もっと強く唇を押しつける。
キスをしながら、二人の息遣いが激しくなる。
「……あ、ロミオ……」
ようやく唇を離すと、隼人は熱っぽい声を出した。
「その……」
ベッドに行かないかと誘いたかったが、あんまりにもあからさまで口ごもってしまった。キスをして欲情したからセックスしたくなったとは、真面目な隼人は口が裂けても言えない。
「……いいぜ」
だがロミオはそんな糞真面目な恋人の胸の内などお見通しと言わんばかりに、キスをされて濡れた唇から甘い吐息を吐いた。
「オレも滅茶苦茶やりたい気分だ……」
ロミオは隼人の背中を抱いたまま、ゆっくりと腰をあげた。
「続きはどうする?」
テレビ画面では次の試合が始まろうとしていた。日本対コロンビア戦だ。
「――いや、もういい」
隼人はリモコンのスチッチを押して、テレビ画面を消す。
「見なくていいのか? 本当に?」
「次の四年後を楽しみにするよ」
興味のないサッカーよりロミオを抱きたいとは、これまた恥ずかしくて口には出来ない隼人である。
「オレたちのワールドカップは終わったからな」
ロミオはどこかしみじみとした口調で呟く。
「オレも四年後を楽しみにする」
そこで初めて笑顔になった。
隼人は愛おしそうにロミオを抱きしめる。
ロミオも甘えるように隼人へ寄り添う。
二人は他愛のないお喋りをしながら、寝室へと消えていった。
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