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「ヘソに溜まったストレスはかなりのものでした。もちろんあの方がいくら吐瀉をしようが、小便を撒き散らそうがどうという事はありません。しかし、ヘソの上に建てられた塀は、繰り返し胃酸を吐きかけられていた事でかなり弱ってました。もともとの施工も余り良くない。恐らく基礎で手を抜いてあるものと思われます。その塀を建てたのは……過去に私を放逐した会社です。何か因縁の様なものを感じましたよ」
右手は未だ、カリカリと忙しなく消しゴムを掻いている。老人は喋りながら、虚空を睨んでいる。
「あのままではそう遠くないうちに塀が崩れる。崩れればヘソのストレスを突付く。しかしそれもまだ大丈夫。手抜きがバレなくても、あるいはバレても隠蔽するのであればしばらくは問題ないでしょう。恐らく何かが起こるのは、請け負った会社が真面目に基礎工事からやり直した場合です。いずれにしろ、ヘソをこれ以上むやみに刺激して欲しくなかった」
「懇願しましたよ。無駄でしたがね…」と、老人は僅かに語調を緩め、と諦めたように息を吐いた。
「ここで吐いてくれるなと、お願いすると、ごめんなさいごめんなさいもう致しませんと、卑屈な位に謝るのです。去って行く時も、こちらを何度も振り返り、ごめんなさいごめんなさいと、何度も頭を下げるのです。なのに、翌日には吐瀉と小便がされているのです。覚えていないのです、何も。家まで追いかけました。酔っていない時に声を掛けなければと、昼頃にチャイムを押しても出てこない。決して出てこない。仕方がないので今度は夕方に伺い出てくるのを待ちました。出てきたところで声を掛けると、やはり覚えていない。事情を説明すると、そんな事はしてない、人違いだと取り合わない。あの方の生活はとても単純でした。病院など用事のある日は昼に起き、なければ夕方まで眠り、起きたらそのまま外に出て、毎日毎日、同じコースを歩きながらコンビニエンスストアで購入したモノを食べては飲み、なくなったらまた近隣のお店へ。そうして酩酊し、ヘソの場所で吐き下すのです。まるで会話にならない。どの状態で話かけても、何も覚えていないのですから。日々、塀のヘソにはストレスが溜まっていきます。やもすると、間に合わないのではないかと思いました」
「間に合わない?」
「妻の事です。ヘソをみつけた時点で妻の余命は半年程であろうと、お医者様からそう言われておりました。私はどうだって良いのです、どうせ地獄行きなのですから。しかし、妻は何の罪もない。苦労をかけて、寂しい思いもさせて、私の不徳のせいで母親にすらさせてやれなかった。穏やかで、優しい女です。私の良い時も悪い時も、同じ笑顔で迎えてくれた。私には勿体ない、本当に、私にとっては聖母のような女でした。せめて、せめて妻の死が、激しいものでなど、あってはならない。壮絶なものでなど、あってはならない。恐ろしいものでなど、あってはならない。妻の最後の感情が決して怖いものであって良いはずがない。妻の生を寂しくつまらないものにしてしまった私はせめて、妻が死を平穏無事に迎えられるよう護る義務がある。笑顔などは望むべくもないが、それでもせめて苦悶に歪むような事はあってはならない。よって、妻が安らかに亡くなるその日まで、あの塀は絶対に保たれなければならなかったのです」
ありがとうございます。と、突然感謝の言葉を述べて、散々引っ掻いていた消しゴムを机の上に戻す。
「あとはどうという事も御座いません。後の現場検証などでみだりにヘソを刺激しない様、十分な距離をおいて、また、目撃者などがいない様十分に配慮して刺しました。よく知りませんが容疑者にはなっていなかったと思います。アパートに押しかけた時には既にもう、最悪では殺人まで想定しておりました。嫌疑がかからぬ様、あくまで穏やかにお話を致しました」
おはなしもこれでもうおしまい。という事なのだろう。
「先日、妻が息を引き取りました。とても静かで、眠る様でした。看取る事が出来ました。ヘルパーさんなどには大変気を配って頂いたのですが、弔問は全てお断り申し上げ、全て私と妻、2人きりで執り行いました。そもそも、私の知り合いも、もう何方も生きてはおりません。満足しています。あとは私だけ。とても満足しております。身辺整理を行い、自首致しました」
「………………ふーむ………」
結局、この話はいったいなんなのか。罪は裁かれなければならない。必ず裁かれなければならない。この老人は人殺しだ。しかも自分の主観のみで事態を危ぶみ、ゲロとしょんべんを理由に私刑を行った狂人である。自分が余人には理解の及ばない妄言を垂れ流している事、それを甘んじて受け入れている。目標を達成して妻を看取って、満足している狂人である。
しかしながら、
『人を殺してはいけません』
この老人に、そんな法律が一体どれほどの意義を持っているのだろうか。
妻が死んだ、みんな死んだ。
あとはもうどうなっても構わない。
この老人は孤独で矮小な、ただの無敵の人である。
自分を理解して、狡猾に利用して、目標を達成するまでのシナリオを練り上げた計画犯である。
罪は裁かれなければならない。必ず裁かれなければならない。だがこの老人にとっての罰とはなんだろう?
例え死刑になったとしても、この老人は人を刺殺した事を悔やむのだろうか?反省するのだろうか?
「………はぁ…」
しないだろう。例え拷問にかけられたとて、口では何とでも謝罪をするだろう、言えば直ぐにでも土下座して許しをこうだろう。
だが罪について、芯から後悔する事は決してないだろう。もう少し早くやれば、妻と過ごす時間が増えたのにと、その程度の後悔が精々だ。
この人は、つまり誰かに聞いて貰いたかっただけなのだ。
懺悔ではない。
自分が如何に妻を愛していたか。
日本のへソが今どれ程の危機か。
「……………まぁ今日はもうやめましょう。貴方の証言について、追加で色々調べなきゃならないみたいですねって事は理解できました」
もう何でもほいほい喋るだろう。この人にとって事実を隠しておく意味などないのだ。寧ろ聞いて欲しいのだから。妻に穏やかな死を贈るという、目的は果たされたのだから。
しかし酷い事件だ、被害者も孤独、犯人も孤独。どういう結末になろうが誰も得しない。無駄に費用がかかるだけ損である。
「はぁ……」
刑事は徒労感に包まれてもう一度溜息を吐く。この老人に同情はすれども、それは例えば居酒屋で隣に座った人間がこんな話をしたのなら、という様な質のものである。仕事を、報酬を得る為の労働を、老人の妄言を聞く時間に割かれた事を良しとする程、刑事は警察官という職務に対して不真面目ではなかった。
「おしまいになりますが、最後に言っておきたいこと、聞いておきたい事はありますか?」
「いいえ、寧ろ関係ない事をついつい喋り過ぎてしまいました。いい加減しつこいとお思いでしょうが、老人の昔話に付き合わせてしまって申し訳も御座いません。お陰様で胸のつかえが取れたというか、何かサッパリしたような気分です。ありがとうございます」
「いえいえ……」
まああれだけ喋ればそうだろうな、と刑事は最後にもう一度振り返る。嘆息して、頷く。書き漏らしもない様だ。十分だろう。
「はい、そうしたら今日はもう結構です。お疲れ様でした。あと何回か今日と同じ様な事をやりますが、引き続きご協力頂けますよう、ね。お願いしますよ。これで罪が軽くなったりは一切ありませんが、ホント、僕個人の意見ですが、僕は貴方の事そんなに嫌いじゃないですよ。誰か、本当に誰か、貴方と奥様を支えてあげられる方がご存命であったならと、そう思っています」
タイミングひとつ。つまらない感想ではあるが、要するにこの老人は単に運が悪かったのだ。何処かひとつ、何かひとつ違っていればと思う。素直に述べたその感想に、老人は「そう思います」と、少し悲しそうに頷いた。
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