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「あー申し訳ない、コチラのミスです」
言いながら再び老人の方を向き、やはり少し大仰に頭を下げる。
「そうですよね?何かないとあんなに何回も刺さないですよね?大変失礼致しました」
実際はそんな事もないだろうが、確かに老人の雰囲気をみるに無差別という線は薄そうだ。ましてや、死ぬまでに一回、などという事はないだろう。
着ている服はボロボロ、何度も着回してすっかりと色褪せ、あと何度か着たら細身の老人ごと崩れてしまいそうな程。上背もなく、水気のないミイラのような細い体躯。しかし、品があるというか、ものごしだけはかつての豊かな暮らしを彷彿とさせる。風体を抜かせば、上流階級。落ち着きはらい、軽口を叩く若者に対しても決して口調を崩さない紳士である。
そんな、姿形以外、まるで取調べ室にそぐわない人物は「いえ…」とだけ返事をした。
「面識はあったんですね?何でも捕まった時、殺した人の名前も知らなかったって、そう聞きましたが」
「はい、名前はニュースに出た時に、初めて知りました。また、その……私が一方的に殺意を持ったというだけなので、あの方は恐らく私の事をご存知ないだろうと思われます」
「はいはい、なるほど。そこで話がこんがらかっちゃったんですね。理解しました」
頷く若い刑事。単純な好奇心と共に、上手く行けば早く家に帰れるという下心も相まってかなり上機嫌である。別に隠す気もないのだろう。今、彼のする唯一の事は、目の前の貧相な老人の機嫌を損ねないようにする事だけだ。被害者も、凶器も、現場も時間も、犯人すら判っているのだ。あとは理由だけ。うまく煽てて喋らせてしまえば、すわ定時帰宅、水割り片手に夢のカウチポテトである。
問いたださねばならない事もそれ程多くはない。
何をわざわざ、名前も知らないような相手を殺したのか。
何をわざわざ、アルコール中毒の徘徊老人を殺したのか。
放って置いてもそんなに時間がかからなそうな、実際病院に残っていた数値はかなり悪かった、そんな相手を何故殺したのか。
そして何より、事件が起こってから1年も経って、捜査も下火になった頃に、何をわざわざ自首して来たのか。
犯行時間は朝方、人気のない場所。そして何度も刺している事から、事件発覚当初より場当たり的でなく、計画性があったとされている。無差別という事もなさそうだ。
目の前に座っている老人は、捜査線上に名前すら上がっていなかった人間である。
だが、面識はあったのだ。これで漸くお話が進む、続きが聞ける。
以って、とても不謹慎な事に刑事は上機嫌である。
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