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はぁ、だの、まぁ、だの、先程まで全く会話にのってこなかった老人が、俄か饒舌になっているのだ。もし誤魔化されたとしても何かしら口は滑らすはず、という期待込みで。
少なくとも、今は勢いを止めない方が良いだろう。
「ただ、長話はダメですよ?あと途中で怒り出したりするのも頂けません。関係ないとこちらが判断したら、そうですね……10分超えたら一回止めます。時間、計っても?」
言いながら携帯電話を取り出し、顔は老人に向けたまま、指先だけでポチポチと操作する。
「もちろん構いません。それ程長い話でもありませんから。ありがとうございます」
時間を制限された事に別段腹を立てる様子もなく、あくまで上品に感謝の言葉を述べる老人。
「結構。では、どうぞお話下さい。タイマー動かすまでの時間はオマケですよ?」
と言いながらも、既に携帯電話のタイマーは動きはじめている。
「…………そうですね、せっかくお時間を頂けたので………どこから話したものか………」
頭の整理のためだろう、しばらくぶつぶつと溢していた老人は、やがて「ほとんど妻への懺悔なのです」と、そう切り出した。
「私達夫婦に子はありませんで、親しい親類もなく……特にお互いの両親が亡くなってからは、妻に随分と寂しい思いをさせました。私は……どうにも仕事ばかりの人間で、家にも眠りに帰るだけという事が常でした。本当に済まない事をしたと……今でも思っています。私達の時代の人間は、愛などという言葉は余り使いませんが、何時に帰ってもお疲れ様と、笑顔で出迎えてくれる妻を、私は……とても愛していました」
伏目がちに、ポソポソと語る老人。その間にも、右手の人差し指は常に消しゴムの腹をカリカリと引っ掻いている。先程語った通り、そうしているのが落ち着くのだろう。バタバタと慌ただしく、忙しく語る話ではないのだろう。
「孤独だったのでしょう。漸く私が会社を引退して、さぁこれからの人生は妻に恩返しをするためだけに使うのだと、花束なんて、柄にもない贈り物を買って帰ったその日、妻がもうどうしようもなく壊れてしまっていた事に気付きました。アルツハイマーです。ついでみたいに、何箇所かにガンも見つかりました…」
じっとりと、重々しい話である。
若い刑事の気性にも合わないのだろう。けっして顔には出さないが、かなりわかり易くげんなりしている。しかしもう老人は刑事の方など見向きもしない、机の上に目を落としたまま、消しゴムをカリカリとやっている。
「あらゆる方法を試しました。老後にと貯めていた資金も、家も、財産も全て治療に充てました。僅かでも長く、妻に恩返しをしたかった。少しでも多く、妻に幸せであって欲しかった…」
ポツリポツリ…
げんなり…
「でも……いよいよと、その時間が近づいて来た時に、私は1日だけ、ヘルパーさんに頼んで家を空けました。妻の誕生日です。あの日、ちゃんと渡せなかった花束を、今度こそ受け取って欲しかった…」
「…………ふむ……ふむふむ…」
一転、話の流れから何かを察したのだろう。実に分かり易い人間である。それまで話半分に聞き流していたのを急に改め、老人に悟られぬよう、静かに居住まいを正す刑事。
どころか、老人が下を向いているのを良い事に、『これ核心じゃね?』と口に出さんばかりに中年刑事を振り返る。中年刑事は黙したまま、顎を前にクイクイと突き出し、『黙って聞いとけ、バカ』と無言のまま返事をする。
嬉々として、本当に老人が下を向いていたから良かった、嬉々として老人に向き直る若い刑事。
しかし若い刑事のそんな期待は、
「話は変わりますが……私は子供の頃から、どうもヘソが気になってしまう癖がありましてね?」
突然、儚くも崩れ去り、あまつさえ、老人の話は妙な方向に転がりだした。
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