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「…………ああ?」
思わず漏れてしまった声も、仕方のない事ではあるのだろう。
「ゴホン、大変失礼致しました。ヘソ、ですか?」
「どうぞお気になさらず、ヘソです」
「へソ?」
「ヘソです。どうしても気になってしまうんです」
「………………………ぁへぃ……」
崩れ落ちるような相づちである。若い。仕方ない。刑事は期待に胸躍らせていたのだ、カウチポテトを。どうせ忙殺ならばと、せめて年末年始にでもと、ボーナスで買って設えておいたのだ。人間工学に基づいた、アホみたいに身体が安らぐと評判の長椅子を。まだ、座っていないのだ。大事に取っておいてあるのだ。タイミングを見計らっているのだ。今日かな?と、思っていたのだ。若い。仕方ない。
「幼い頃からヘソが気になるんです。ありとあらゆるヘソが目についてどうしようもない。しかし、ソレが一体如何なるものなのか……私は薄々ですが気付いておりましたもので、怖がって、決して触れたりはしませんでした…」
止めどなく続く、理解し難い老人の話。
期待から一転、正直な刑事の顔には早くも諦念が浮かんでいる。
こりゃダメか、といった様相である。
「忘れもしません。小学三年生の時、常に何かを弄る癖を、みんなの前で教員に酷く叱られて、むしゃくしゃした私は出来心で、ついにヘソに触れました」
「…………はぁ、えっと………先生の?」
「違います。本当に、老人の戯言に付き合わせてしまって申し訳ありません。必ず、必ず全てお話致しますので、もう少しだけお付き合い下さい。私がはじめて触れたヘソは………鉛筆のものでした…」
「…………ぅん……いぇ、はい……」
いよいよ、である。刑事はまるで助けを求めるような顔をして、三度、中年刑事を向く。訝しんでもいるし、もしかしたら、という顔でもある。いずれにしろ今まで出ていない話なのだ。
「………………………はぁ…」
嘆息した若い刑事。
このジジイどうしちゃったんだよ?聞くしかねぇのか、オレ坊さんじゃねぇんだけど。とか、そんな顔。
「えんぴつというと………エンピツですか?」
机に置いてあった、自身のルーティーンの礎を手に取り、確認するようにフロフロと揺らす刑事。
「鉛筆です」
しかと、頷く老人。
「エンピツにヘソがありますか?」
「何にでもヘソは御座います」
「………………さいですか…」
「左様」
もう一度強く頷きながらも、老人はカリカリと消しゴムを掻いている。几帳面に、同じリズムで、細かく、カリカリと消しゴムを掻いている。
「触れた時、私は、私が視えているヘソ、他に視える者のいないヘソ、ヘソについて……全て理解しました」
「何を理解したのですか?」と、若い刑事に言う気力は残っていない。言うべきなのだろうが、促してやるべきなのだろうが。
「ヘソに触れるとね、どうやったら壊れるか分かるんです。ヘソの箇所に力をかける、あとどれくらいかヘソが教えてくれる。夢中で何度か擦るうちに、鉛筆は壊れてしまいました。壊れると判っていて止められなかった罪悪感もそうですが、また随分親に叱られましたよ。物の少ない時代でした…」
「………うん……そうですか……あの…」
「一度やってしまうともう歯止めは効きませんもので、もちろん、犯罪にならない程度ですが、石を壊したり木を壊してみたり、岩になり壁になり、山になり、川になり、海になり崖になり…」
「えっと……ですね…」
「気がつけば建設会社の役員です。壊すのにも建てるのにも、ヘソは大変に役立ちました。廃屋のヘソに壊れるだけの力をかけてやれば良いのです。橋のヘソを大切に補強してやれば良いのです。ヘソの箇所について指摘して、相手の態度でもってその会社が信用に値するか判断するのにも役に立ちました。引退間際のジジイになっても、大きな仕事は必ず現場を見ました。職人さんの中には建物の脆い箇所を一目で見分けるような大変な達人がいますが、私のように、あらゆるモノのヘソがみえるなどという方には、ついぞ出会う事は御座いませんで。私はヘソを覗いたり摘んだりするだけで、社内外問わず過分な評価を受けておりました…」
とうにタイマーは鳴っている。
それでも話は止まない。聞こえているだろうに、止めることはない。
はっきりと、徒労である。結局、このジジイは自分語りを若者にしたいだけ。
断られないだろうと、止められないだろうと、調子に乗ってるだけ。
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