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日本のヘソ。
と、思ってしまう程の、壮大なヘソ。
不可侵であると、私に向かって強く主張するヘソ。
日本のヘソには、吐瀉と小便がかけられていました。
「困りました…」と、老人は眉を潜めて、気にせず続ける。
「………んぅ………」
困りましたなんて。寧ろ若い刑事こそ困ってしまって、後ろを振り返る。眉を顰めて、重く深く頷く。中年刑事のその顔は、何か確信を持っているかのようで、とても安心する。
そうか……このジジイはどうかしちゃってるのか…
落胆する若い刑事。じゃあこの話は、何等面白いものでもないのだ。
奥さんの介護に疲れ切った妄言ジジイが、徘徊するアル中を一方的に憎んで刺しただけ。
一年も経ってから自首してきたのも、何という事もない。きっと、どうにかしなければならない奥さんが、つまり、どうにかなったのだろう。それだけなのだ。どうせ、たったそれだけなのだ。
そして、それならば、仕方ない。
だって、そういう事であれば、諦めもつく。
どうであれ、そういう事であれば、違ってくる。
「なるほど、日本のヘソ。何か神聖な場所だったんですか?」
「いいえ、どうという事もない唯の塀ですよ。流石にお社などにそんな事してあれば問題になるでしょう。管理している人がいるのでしょうから」
「そうですか……ただの塀。えっと、ゲロとションベンっていうのは?比喩ではないんですね?」
とにかく刺激しないように、もう洗いざらい話して貰おう。若い刑事の質問に、老人は「ええ…」と頷いた。
「日本のヘソをみつけてから、私の日常は少し変わりました。ヘルパーさんに任せる時間が多少ですが増えて、ヘソを観察するようになりました」
「毎日?スゴい。身体、丈夫なんですね」
「はは…それだけが自慢でして。」
「で、日本のヘソにゲロ吐いてたのが貴方が刺した人って事ですか?」
もうそれくらいしかないだろう。概ね理解してそう言った刑事に対して、老人は意外というか、とても驚いたような顔をする。
「………左様で。いや、慧眼ですね」
褒める老人。対する刑事はやはりうんざりとしている。
散々しゃべって、理由がゲロかよ…
まぁでもそういう事なんだろう。この老人にとっては、もはや信仰の対象になっていたのだ。先祖のおわす大切な仏壇。そんな感じ。
「毎日欠かさず吐瀉と小便がされているんです。雨の日でも、小雨ならされていました。実は…少し期待していたのです。もしかしたら、コレはわざとなのではないだろうか?この人は私と同じ様にヘソが見えていて、敢えてこうしているのではないのかと。幸い3日程でお会いする事が出来ました。早朝に訪れて既に吐瀉物がございましたので、深夜の事なのだろうと思い、妻が眠った後に赴き、いらっしゃるまで待っておったのです。オマケの時間で生きている暇な老人ならではですね、はは…」
自虐的な笑い。刑事も一応「いえそんな…」と付き合う。
「時間は深夜3時半、かなり酩酊した様子でフラフラと歩きながらやって来て、ヘソの前まで来たところで吐瀉、その後目の前の壁を罵倒と共に数回殴り付け、最後にこうしてやると小便。ざまあみろ、と言い残し去って行きました。結局その日は呆気にとられてしまって、話かける事は出来ませんでした。それから数日間、同じ頃に待ってましたが、概ね3時から4時の間にいらっしゃって、先程の行動を繰り返しているようでした。正直コレはいけないと、半分諦めてはいたのですが…念のため一度話しかけてみました」
「数日観察して?慎重ですね、その方は貴方を認識していたのですか?」
やや捨て鉢な刑事の言葉に、
「いいえ」
少し残念そうに首を横に振る老人。
「先程も言いましたが酷く酩酊されていたので。それに慎重というより単に躊躇っていたのです、吐瀉した直後ですし、平時であればなるべく関わりたくない手合いの方ですから…」
まあそりゃそうだろうな。頷く若い刑事。
「なるほどなるほど、で?手合いの方はなんと?」
「……相手の方は憤慨しておりました。コイツにオレの人生はダメにされた、と…」
「はぁ、個人的な恨みですか?」
「そのようです。また、コレは復讐じゃないとも仰ってました」
「復讐じゃない?」
「ええ、革命の為の政治的な運動だそうです。何でも塀には厳重なセキュリティが敷かれているが、何のミスかここだけ完全に死角になっているなんて、個人の積み重ねが大きな功をなす事を、世界に伝えねばならないなどと…」
「ふーん、なんか大事な施設だったんですか?」
「さあ?監視カメラ自体は置いてありましたが、ダミーかも知れませんし私には判りかねます。少なくとも、その地点は監視の対象からは外れていたようです。ヘソに貯まったストレスをみれば、その方が、本当にずっと以前からその行動を繰り返していた事は判ります。気付いたら張り紙くらいありそうなものですが、御座いませんでした。話が通じないから、もうほっとかれているというだけかも知れませんが」
「話が通じない、それは酔っていて?」
「はい、ヘソ云々の話は当然しませんが…」
「………ストップ。ちょっと待って下さい」
若い刑事が思わず、と言ったように話を止める。だがここで止める意味などないので、本当に思わずなのだろう。
「ヘソの話はしなかったんですか?相手には…」
「ええ、はい。何を言っているのです?だって……そりゃそうでしょう?」
そうでしょうったって……
「刑事さん、貴方普段人と喋る時、自分が警察官である事をいいますか?」
「いいません」
「何故ですか?」
「警戒されちゃうからです。プライベートくらいのんびりしたい」
「そうでしょうとも、私の場合はもちろん信じて貰えないというのもありますが、検査もなしに施工の不備を指摘できるなどと迂闊に吹聴しようものなら、証明すればするほど現場が遠ざかる。社内でもヘソ云々は黙っていて、私は寧ろ検査の達人として通っていました。刑事さん、ついでなので告白しますがね………私、人を殺したのは初めてではないのですよ」
また振り返る。首を振る。だろうよ、確認した。目の前の老人は交通違反ですら捕まったことのない、警察とは無縁のきれいな経歴の持ち主だった。
「………………………伺いましょう」
若い刑事に、その話を拒絶する権限は持たされていなかった。
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