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「大きな仕事でした。私が就職した頃には会社はもうそこそこの会社。そこから躍進して発展して、それでもまだメインで請負うのは難しいだろうというような規模の大事業。下請けも下請けというような立場で、ウチとは別の下請けが組んだ足場に……大きなヘソがポッカリと空いていました」
人を刺し殺した話とはうってかわって、ポツリポツリと、苦しそうに言葉を吐き出す老人。
「直ちに監督している方に注進致しました。が、その方は偶々、当時の会社の社長と仲が悪く、聞き入れて頂けませんでした。仕方なしに、社長に伝えたのです。翌日、私はその現場から外されました」
目を閉じて、その当時の感情すら思い出すように。重く、重く。
「伝えておく、と約束してくれたのです。社長は、確かに。しかし、直したかどうかは確認の取れないまま、数日後、小雨の纏わりつくようなイヤな日でした。足場は崩れました。何十人とケガをして、何人かは亡くなりました。私がもっと食い下がっていれば、防げた事故です」
悲しそうに、悔しそうに、
「その件があった後、当時の社長が退くまで私は現場に立たせては貰えませんでした。工期を延ばす面倒くさい人間と思われたのか、何か後ろ暗い事をしていたのか。それから数年もしないうちに、社の信用はすっかり地に堕ち、私はリストラクションを受け、そして数年後、会社は倒産。社長は首を吊りました。私は同じくリストラされた幾人かと会社を設立し、漸く現場に戻る事が出来たのです」
「…………ん?リストラ?」
突然ふって沸いた経歴に、刑事が思わず聞き返す。老人はおお、と声をあげた。
「申し訳ない、どなたにも伝えておりません。正直胸を張って言える話ではないので」
「………ああ、まぁ……あとでもう少し細かく伺います。どうぞ、続けて下さい」
「はい、後で、はい……私が元いた会社の不評はそのまま、私が現場に出なかった事で、それだけの人間が事故にあったという事です。施工の不備により、後に問題が起こった建物も多くあります。私が社長に対して失望し、事務方でくさっていたことで、数多の人間が、人生をダメにしていきました。亡くなった方も多い」
「………………………」
もしかしたら、この老人がしたかった自白は、こちらの方だったのかも知れない。ヘソがどうとかはともかくとして、この人には科学技術の及ばない天性の何かがあったのか。
「………私は、あるかどうかは知りませんが、地獄に落ちる人間なのでしょう……」
そんな老人の言葉に重く頷いて、
「はい。あるかどうかは知りませんが、あるならば貴方は地獄に行く人間であると僕もそう思います。貴方は人を刺し殺しました。それはしてはいけない事です」
しかしこの若い刑事は、思いがけず、この老人に同情していた。何度もいうがヘソ云々はともかく、この老人は、やむにやまれぬ人なのだ。才能を持った所為で、いらん罪悪を背負ったのだ。周りがどう言おうが、この老人にとってはこの主観こそが真実なのだろう。
「真面目に生きて、人を大切に思う貴方が、人を刺殺した理由を教えて下さい」
「………はい」
老人は悲痛な面持ちのまま、深く頷いた。
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