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「依田さん?」
声がして、顔を横に向けた。
「あ……」
そこに八尾秀先生が立っていた。八尾先生は五十九歳の国語の先生で、いつもシンプルなグレーのスーツに桜のネクタイピンをつけている。年齢のせいか右足を痛めていて、引きずって歩いていることが多い。
八尾先生は人拳分距離を開けてベンチにそっと座り、首を傾けて私を見た。
「どうしたの?」
「……別に。八尾先生は?」
「校庭整備をしていた、今日は当番でね」
「そうですか……」
沈黙になってどうしようと、俯いたまま目を泳がせてしまった。
「何かあってここにいるんだろう? ここはベンチがさびてて、あまり人が来ないから」
「え……?」
「悩みを持つ人がこのベンチに座っているんだ、昔からね」
私は八尾先生をちらりと見る。
表情なのか、口調なのか、それとも態度なのか……何だか少しほっとしてしまう。
「弟が……」
「うん」
「弟が生まれたんです。生まれて嬉しいけど、私は親に構ってもらえなくなりました」
「ほう……」
「そう思う自分が嫌になります。情けないですよね、子どもみたいで」
口をぎゅっと閉じると、先生は二回頷いた。
「世間的に依田さんはもう大人かもしれないね、でも法律上で十六はまだ子供なんだよ」
「……こども?」
「そう、だから子供らしくていい。思った気持ちを言葉でぶつけて、遠慮せずに大人に甘えなさい」
私は目を見開く。
八尾先生はソメイヨシノの木を見つめていた。
「見えるかい? 見過ごしてしまうけど、あれはソメイヨシノの花芽だ」
「花芽?」
「花芽が冷たい風にさらされても毎年咲くように、依田さんの心にも必ず暖かい春は来ると約束されている。だから強がらないで、安心しなさい」
優しい声が静かに心に浸透して、私の目から一粒の涙が溢れてきたと気づく。次から次へと。どうして? 泣くつもりなんてなかった。
「大丈夫だよ、依田さん」
八尾先生のその声で気づいた。
私は……苦しかったんだ。
目の前に広がる光景。自分でも知らぬ間に強がり、葉も花も何もないと嘆いてあきらめていた私の心の木に花芽があると、自分らしくでいいと、八尾先生は教えてくれた。
寒い風に吹かれても、心が温かくなった日。
それはどれほど心強いことだっただろう。
ずっと、覚えている。
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