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薔薇園にて
勉強嫌いの瑠架がこれほど授業の終わりを恨んだことはない。
チャイムの音と共に教室から出て行くクラスメイトたちをうらめしそうに眺めながら、がっくりと机の天板に突っ伏す。
「まっすぐに帰ってこい」という言いつけに従ったことなどないが、今回は『その後』のことを考えるといつもより面倒臭さが三割増しだ。脱力している瑠架の肩を、大きな掌がぽん、と叩く。
「大丈夫?」
気づかわしげな様子の浅葱に対し、蓮はあくまでいつもの調子を崩さない。
「なになに、そんなに例の石士と顔合わせるのが嫌なの~?」
それもあるがそれだけではない、と言ってしまえば質問が百倍になって返ってきそうなので、ぐっとこらえる。
瑠架は気合で上体を起こすと、ガタンと大きな音をたてて椅子から立ち上がった。
「――帰る」
便宜上その言葉を使うが、決してまっすぐ屋敷に帰るわけではない――はずだ。自分でもまだ行く先を決めかねたまま、瑠架はゆっくりと教室を後にする。
二人は面食らったような顔をしていたが、何も言わずに瑠架を見送った。蓮でさえも黙ったままひらひらと手を振っていたのは、瑠架の態度から何か察するものがあったのだろうか。
「がんばれよー!」
教室の扉を閉めかけた瞬間、蓮が一言だけそう声をかけた。相変わらずにこにこと人をおちょくるような笑みを浮かべているが、向けられた言葉が彼なりの思いやりからくるものだということはわかっている。
返事代わりにひらっと一度だけ手をふってから、瑠架は校舎から庭園に抜けた。今日はまっすぐ校門に向かう気にすらなれない。
手入れの行き届いた庭には季節の草木が茂り、みごとに花開いている。
瑠架は温室の扉に手をかけると、ゆっくりとそれを開き、中に足を踏み入れた。
むわっとたちこめるあたたかい空気と、むせかえるような甘い匂い。
温室内を埋め尽くすように生い茂る暗緑を、さらに押しのけるようにして咲き誇っているのは大輪の薔薇だ。数百はあろうかという色とりどりの花弁は、よく見るとそれぞれに形が異なっている。それらがつくりだす陰影もあいまって、瑠架のいる場所から見た風景は、まるで作りこまれた点描画のようだった。
ふうっと大きく息をつくと、肺の中まで甘い匂いでいっぱいになる。
瑠架はそのまま通路を進み、温室の中ほどにある広場へと向かった。そこにあるベンチが意外な穴場なのだ。人目にもつかないし、なにより静かで心が落ち着く。
「……げ」
広場に出た瞬間、この美しい風景に似つかわしくない濁った声が漏れた。
それに反応して、ベンチに座っていた男がこちらを向く。
「なんだ、君か」
にか、と笑いながらこちらに手を振っているのは透夜だ。
「――校内は、関係者以外立ち入り禁止だぞ」
渋い顔をしてそう言うと、あくまで笑顔を崩さずに肩をすくめる。
「いいだろ、君の関係者ってことでさ」
たしかに関係が全くないわけではないが、その物言いには少しも納得できなかった。
瑠架は仏頂面で腕組みをすると、片足に体重をのせて立ちながら透夜を見やる。
「わざわざお迎えとは、ご丁寧なこって」
まっすぐに帰ってこいと言ってはいたが、まさか強制的に連行される羽目になるとは思わなかった。
しかし透夜はふるりと首を振って言う。
「そういう意図はなかったんだよ。ただの偶然」
白々しいことを言うな、と返すつもりだったが、透夜の表情は存外真剣なものだった。
「一度見てみたかったんだ。有名だろう? この学校の薔薇園」
たしかにこの温室の薔薇は校外の人間にも有名らしく、どこだかの園芸賞を受賞した、とかいう話を聞いたのも一度や二度ではない。
「まぁでも、ラッキーだったよね。一石二鳥ってやつかな」
透夜はそう言ってにやりと笑うと、ベンチから立ち上がり瑠架に手をさしのべる。
「じゃあ、帰ろうか」
にか、と笑った顔は明るく無邪気で、だからこそ信用してはならないと瑠架は思う。
「誰が」
そう言ってぺしんと差し出された手を叩く。
「つれないな」
透夜は可笑しそうに笑うと、何を思ったか再びベンチに腰かけた。
「こちらにどうぞ、お坊ちゃま」
からかうような言い方がいらっとくる。向けられた言葉に返事をしないまま、こいつがここに残るならばと温室の出入口に向かって踵を返そうとした。
「待って」
透夜の意外と骨太な掌が、シャツから覗いた瑠架の左手首を掴む。
「……パスカリって薔薇は、ここに咲いてる?」
真剣な声音で問われて、思わずたじろいだ。
それほど熱心にここに通っているわけではない瑠架も、その名は知っている。温室内の要所要所、目立つところに植えられている華やかな白薔薇だ。
「――たしか、あそこに」
掴まれていない方の手で、ベンチのすぐ近くにある噴水の脇を指し示す。
透夜はそっと瑠架の手を離すと、すぐにそこに向かって歩き出した。
「ほんとうだ。すごく綺麗に咲いているね」
腰をかがめて、花弁に鼻がうずまりそうなくらい近づき、深く息を吸う。閉じられた瞼のふちで、金色の睫毛がふるりと震えた。
特別な思い入れがあるのだろうということは簡単に見て取れる。しかし透夜のもつそのなにがしかの事情は、瑠架には全く関係のないことだ。
石士と持ち主の関係は一過性で刹那的。ゆきすぎてみれば今というこの時も《採掘》それ自体だって、瑠架の一生からみればほんの一瞬の出来事にしかすぎないはずだ。
瑠架はしばらく何も言わずに透夜の横顔を眺めていたが、やがてすたすたと温室の出口に向かって歩きだす。
今度は止められなかったが、かわりに長身がすぐ後ろを同じようについてくる。
「じゃあ帰ろうか」
にこ、と笑う顔は常と変わらず――といっていいほど彼のことを知っているわけではないと思うが――朗らかで、さきほどまでの憂いはまるで感じられない。
「誰が帰るか」
反発して足を早める瑠架にまかれないよう、透夜もまたスピードを上げる。
「今日も走る?」
揶揄するように言う透夜は、自分たちが面白可笑しい噂話のネタとして消費されていることを知っているのだろうか。
「走らねぇよ」
瑠架は短くそう答えると、なるべく人目につかない通路を縫っていつもの通用口へと急いだ。
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