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Sanrentan 対抗、雪世。
雪世の始まりは何だったのだろう。
新入社員の時は泣いてばかりいた。
事務の仕事は向いてないことだけだった。
失敗ばかりで、怒られて、なじられて。
それは当然だ。
失敗したのは自分なのに、その尻拭いをするのは先輩たちで、もう謝るしかない。そこから自分を責め、落ち込み、改善策も浮かばないまま、流されるまま、また違う失敗をした。
そして、周囲は淡々と雪世のミスをカバーしていく。
皆、雪世に背を向けて仕事をしているのに、冷たい視線はいつまでも突き刺さっていた。
負のループにまんまとはまりこんでいた。
そんなとき、樋口朝陽に出会った。
「借りていい?」
現場の仕事をしていた朝陽は事務所の先輩にそう言って、雪世を連れ出した。
現場は人手不足で、雪世は手伝いのために事務所から出た、というのが建前。
実際は、雪世は助手席で座っているだけだった。
「待っているだけでいいから。ちょっとのんびりしてて」
現場に向かう道すがら受けた説明はそれだけだった。
どこから来てるの?
電車通勤?
歳は?
この会社に来る前はどんな仕事をしていたの?
なんていう面接官みたいな質問に答えているうちに、現場に到着し、車に残された雪世は言われるがまま、そのままの体勢で固まっていた。
「社会人なら追いかけて仕事をしに来い!」
と、怒鳴られたって、もうどうでもよかった。
開き直ってそのままよく晴れた空を眺めた。ポッカリと白い雲が浮かんでいて、それが消えていくのを雪世は見えているだけ。
それだけで時間が過ぎていく。
朝陽は怒鳴りに戻ってきたりしなかった。
(きっとクビになるんだろうな)
帰ったら辞表を出してほしいと言われるのだ。喉が熱くなり、何だか泣けてきてしまった。
仕事で失敗して、叱責されたときより、静かな涙が頬を流れていく。
その時、サイドミラーに作業着の朝陽の姿が見えて慌てて顔を拭った。
「おまたせ」
飄々とした顔でこちらを眺め、朝陽はコーヒーを差し出す。
「飲む?」
雪世はありがたくいただき、両手で包み込む。温かい。
朝陽は運転席に乗り込み、シートベルトも締め、雪世をまじまじと見つめた。
「あのさ、車で通勤してるって言ったよね」
はい、と雪世はうなずいて、朝陽の顔がキラキラしていることに気づいた。
「会社の駐車場にある黒い4WD、もしかして乗ってる?」
「はい。わたしのです」
「あれかっこいい。車好きなの?」
車を褒められるのは、素直に嬉しかった。
「好きです。でも、どちらかというと、運転が好きです」
正直に答えると、「そうか、運転のほうか」と言いながら朝陽は顔を綻ばせる。
その時、雪世は自分も自然と微笑んでいたことに気づいた。
入社して初めて、肩の力を抜いて笑えた。
「いいね」
笑うと幼くなる朝陽に、胸がぴょんと弾んだ。
「じゃあさ、帰り、運転してく?」
「いいんですか?」
「俺、寝るかもしれないけどいい?」
「もちろんです」
大きな声で答えている自分がおかしくて、雪世はまた微笑んだ。
結局、朝陽は寝なかった。
二人でずっと喋っていた。
この会社は、車が好きな人が多いということ。
朝陽自身も車好きだけど、甘いものもとても好きだということ。
そして、朝陽とは一年しか歳が違わないことを知った。
きれいな顔立ちだけど、笑うと鼻に皺が寄るのがかわいいこともわかった。
1週間も経たないうちに、雪世は事務から現場の手伝いへと配置換えになった。
最初は道を覚えることから始まった。怒られることが多いのは変わらないけど、事務よりずっと楽しかった。
仕事には向き不向きってものがあるのだろう。
「きょう、飲みに行こうか」
仕事に少し慣れた頃、たまたま朝陽と同じ現場になった、その帰りのことだ。
「二人で飲みに行こうよ」
運転席の朝陽はサラリと言う。
その頃には、樋口朝陽が社内の女子に人気であることは知っていた。
仕事を黙々と、そして器用に片付けていく姿は一見冷たそうにも見えた。でも、話すと気さくで、馬鹿話も普通にして、そのうえ気遣いもできる。
容姿がいいだけではない、というところが人気の理由だった。
そんな人気者に二人きりで飲もうと誘われるなんて、微塵も思わなかった。
片思いのまま、時は過ぎていくものだとばかり思っていた。
驚いた雪世を見つめ返す瞳は、赤いテールランプに照らされ、優しく潤んでいる。まるで、雪世に答えるように。寄り添うように。
このときは、確かにそう見えた。
それから、朝陽が連れて行ってくれた居酒屋で横並びで飲むことになり、雪世は飛び出しそうな心臓をグラスビールと一緒に飲み込む。
ずっと、どうしても言いたいことがあったから。
「樋口さん、あの時はありがとうございました」
思い切っていうと、朝陽は目をパチクリさせた。
「あの時?」
「初めて現場から連れ出されたとき」
「ああ!」
朝陽は思い出して、照れたように笑う。
「そんなこともあったね」
「あの時、樋口さんが天使に見えたんですよ」
「大げさな。課長に言われただけだよ」
課長と事務の先輩に人気の朝陽のほうがスムーズにことが進むからと、頼まれたらしい。
人を一人減らされてしまうわけだから、波風をたてたくなかった。
「でも、本当に助けたかったの、雪世ちゃんのこと」
ほろ酔いの朝陽にじっと見つめられ、雪世の胸がドキリと跳ねた。
「ずっとね」
朝陽は徐ろに手を伸ばした。その指が雪世の指に触れた。ゴツゴツと大きな手が雪世の小さな手を包み込む。
「笑うようになって良かった」
そして、そっと手を離す。
朝陽は雪世から顔をそらして、ごまかすみたいにぬるくなったビールを飲んだ。
雪世は、驚いて声にならない。
「どこかで飲み直す?」
朝陽の問いかけにうなずいたときも、二人並んで店を出たときも、雪世はふわふわと夢心地だった。
その日から朝陽は雪世の一人暮らしの部屋に来るようになった。仕事終わりに、休みの日に。
もちろん、これは秘密の関係。
それからしばらくして、事務の人員の穴を埋めるために新しく入ったのが、清水まど香だった。
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