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(その9)3月、先生のいない夜に(2)
「先生、今日は肉じゃがだよ!」
夕方のキッチンで、巽が鍋の中を木べらで掻き回しながら、リビングダイニングのほうを振り向く。三月の夕暮れはまだ冷えるが、それでも冬の寒さとは違っていた。
夫が買ってくれた青いチェックのエプロンにお気に入りの水色のパーカーを羽織り、巽は夕飯の準備に余念がない。鍋の中では、じゃが芋やニンジン、たまねぎや牛肉が甘辛い味付けの出汁でぐつぐつと煮込まれていた。部屋中に漂う、食欲をそそる香り。
巽は振り向いたまま、うれしそうに笑う。キッチンから地続きのリビングにはオレンジの陽射しが射し込み、窓の外は少しだけオレンジと緑、紫が層になって、やがて来る夜を教えている。
鍋に向き直ると巽は菜箸で木べらを拭い、そこに付着したたまねぎを中に落とした。
「あのね、先生。スーパーで牛肉が特売だったの! 和牛だよ。美味しそうでしょ」
朗らかな声で笑う巽。竹串をじゃが芋に通すと、すっと通る。箸でたまねぎを挟んで、口に運んだ。
「……うん。美味しい」
振り向いて、幸せいっぱいに笑ってみせた。
「晩ごはん、楽しみにしててね、先生!」
……しかし、返ってくる声はない。
ソファにいるのは、ハム太くんのみ。ハム太くんはまっすぐ前を見ている。
巽はうなだれると、鍋に向き直り、火を止めた。
「……なんて。先生、出張なんだよね……」
南條は二泊三日で長野に出張に出掛けている。帰宅は明日の予定だ。少し透かして鍋に蓋をすると、巽はとぼとぼとリビングに戻ってきた。ソファにうつ伏せで倒れ込み、腕の中に顔を埋める。
ハム太くんの声がした。
(巽。先生に電話してみたら?)
「うん……。でも、出張してから何回も掛けてるし、迷惑かなって。出張って、お仕事でしょ? 邪魔はできないよ」
(巽は強くなったね)
「強くないよ。今すぐ先生に会いたい」
会いたいよぅ、と巽はすすり泣いた。自分でも意外だった。こんなにも弱くなってしまったのが。元々、自分が強いなんて一度も思ったことがない。とはいえ、それでも弱すぎると思う。
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