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(その9)3月、先生のいない夜に(3)
頭の中が、昔の寂しい記憶でいっぱいだ。先生に片思いしていたころのこと。おれは一人ぼっちで死んでいくんだ、と思ったときの絶望感。
こっちを見てくれないかな、と願うときの、切ない胸の痛み。
南條が家庭教師として来てくれる、週三回の家庭学習の時間は確約されていたとしても。
――週三回会えるなんて、贅沢だよね。
そう思いつつ、毎日でも会いたかった。それに、不安だった。
――先生は先に、おれじゃない素敵な人に出会って、その人と恋人になって、結婚しちゃうかもしれない。ううん、きっとしちゃうよね。
悲しい想像ばかりして、くよくよしていたあのころ。
そのころと今がほとんど変わっていないことに気がついて、巽は驚く。彼は今でも、南條に恋をしていた。
腕から顔を上げ、ハム太くんの顔を見る。ハム太くんのつぶらな目と目が合った。
「あのね、ハム太くん。おれって結局、寂しい人なの」
ハム太くんは答えない。じっと巽の顔を見ている。巽は目を潤ませ、小さな喉仏を上下させた。
「先生にもっともっとそばにいてほしいって思ってしまう。おれの渇いた魂は、水を飲んでもさらに渇くだけ。充たされる、ってことがないの。先生がいっしょにいてくれても、もっともっと、って思う。こんなに『重い』奥さん、先生に嫌われちゃうよ」
叫ぶような巽の声。あたりがしんとする。キッチンの、蛇口から水滴が落ちる音がやけに大きく響いて聞こえた。
ハム太くんがぽつりとつぶやく。
(今は先生がそばにいないから。先生が帰ってきたら、そんなことはすぐに忘れるよ)
ハム太くんの言葉に、巽はあふれそうな涙を拭う。
「そうかな。忘れる……かな?」
(うん。きっと)
うん……とつぶやいて、巽は再び腕の中に顔を埋めた。
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