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(その9)3月、先生のいない夜に(4)
いつの間にか眠っていた。スマートフォンの電話の音で、巽は目覚めた。慌てて画面を見ると、先生だ。どきどきしながら電話に出る。
「せ、先生? お疲れ様です。お仕事は?」
「ああ、終わったよ。今日もいいシンポジウムだった」
いつも穏やかで冷静な先生の声が、少しだけ弾んでいる。その声に巽は泣きそうになる。涙を拭いながら、「うん、よかったね」と笑った。
「あ、それでな? 巽くん」
「はい?」
「仕事、予定より早く終わったんだ。今、もう駅で。遅くはなるが、今日中に帰れると思う」
巽の顔が明るく輝く。心臓がどきどきして、ハム太くんのほうを振り返った。ハム太くんを腕に抱く。
「ほんと!? 帰ってきて! あ、晩ごはんは肉じゃがだよ。今日食べられそう?」
「ああ、腹を空かして帰るよ」
その言葉に、巽はハッとする。
――いけない。先生、お腹空くのに。わがまま言っちゃだめだ!
そう思った巽は、慌てて言葉を重ねた。
「あ、待って! いいの。食べられなくても。先生、お弁当でもおにぎりでも、なんでも食べてね。肉じゃがは冷蔵庫に入れて残しておくし、そもそも、一人分しかないし。先生、お腹空くでしょ」
南條は低い声で、穏やかに笑った。その笑い声が、巽の涙腺を緩ませる。渇いた魂に沁みてゆく。
「心配無用だ、巽くん。小腹が空くからおにぎりは食べるよ。で、帰ってから肉じゃがをいただくな。おれの大好物だ。ありがとう」
「あ、先生、和牛! 和牛だからね!」
「はは、ありがとう」
電話は切れる。巽はほうっと息を吐くと、しばらく放心していた。
(よかったね、巽)
ハム太くんの声に、巽は激しくうなずく。
ぽろりと涙がこぼれ、巽はごしごしと目尻を擦った。気恥ずかしくて、顔が赤くなる。
「……どうしたんだろう。おれ、先生の声を聞いたら、なんだかどうでもよくなっちゃった」
(ぼくの言った通りでしょ?)
「うん。変なの」
(先生は巽の精神安定剤ってことだね!)
「ハム太くんは上手いこと言うなあ」
そんなことを言いあって笑いながら、巽は――
肉じゃが、もう一人分作っておこうと考えるのだった。
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